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Twitter上の文化人の発言メモ(田中純氏、宮﨑裕介氏、他)



平倉圭 @hirakurakei · 7月23日
私は普段全く逆に考えるけど、それでも。自己のプロセスを部分的に隔離可能だと考えることが必要な時ある。

平倉圭 @hirakurakei · 7月23日
ルターのキリスト者の自由読んでる。魂は、身体にも、その行為にも、衣服にも、それを取り囲む建物にも決して拡張され「ない」と考えることの自由。

TANAKA Jun @tanajun009 · 6月29日
『明治の表象空間』には、知は抑圧的な権力の発動でもあるが、その抑圧に耐えて知それ自体によって知を批判することが知識人の指命ではないか、としたうえで、そんな知の運動を回避した明治初期の官学創建者たちを「及び腰の知識人」と呼んだ一節がある。その不徹底性は、構造的なものだった。

山内志朗 @yamauchishiro · 7月30日
研究対象との間に必然性を設定することは重要である。それは一種の契約関係であり、「約束」なのである。求婚と同じことなんだが、「何となく」「誰でもよかった」「つぶしがきくので」「楽だから」では、対象が怒る。


吉田寛 Hiroshi YOSHIDA @H_YOSHIDA_1973 · 7月26日
芸事や職人仕事同様、研究(者)においても「模倣 imitation」が重要であることを再確認すべきだろう。「模倣」とは内的に手本に従うことであり、結果として出てくるモノ(作品)やコト(行為)が同一物または類似物である必要はない。その点で複製 copy とはまったく違う。

平倉圭 @hirakurakei · 7月28日
生活の必要や子育てと仕事を対立するものと捉えないこと。沈思と集中より完全な気散じに高い価値を置くこと。生を養うための必要事から仕事を分離しないこと。全て泥のように混ぜてなお問題を強く立てること。夜より朝を大切にすること。

田中均 @tanaka_hitoshi · 7月27日
『アルチュセールの教え』を読むととても陰気になる。大衆に対する党と知識人の指導的立場に固執するアルチュセールの「政治」にもげんなりだが、文革を礼賛するこの時期のランシエールにもいたたまれない。最後のあたりで後の思想の萌芽が見られるのが救いだが、このカバーはやや楽天的すぎるような…


TANAKA Jun @tanajun009 · 8月2日
作品としてのテクストがクリアすべき水準というのは、妥協の産物である相対的なものではなくて、絶対的なものであるべきだろう。その意味では相対評価でクリアできても、絶対的基準では到底満足できない場合もある。

TANAKA Jun @tanajun009 · 8月2日
精度の問題であり、最終的には仕上げの出来。細部への目配りの弱さがそこに出る。

TANAKA Jun @tanajun009 · 8月2日
「研究」の厳密さを究めたうえで、そこからも解放されることが必要。違う文体と違う方法が。けれど、だからこそ逆に、まずはテクストの一語一語の解釈といった「重箱の隅」が問題。その部分の訓練の弱さは長期的には致命傷になりかねない・・・

TANAKA Jun @tanajun009 · 8月2日
「書物」という形式に託しているのはまったく別の範囲への到達度で、恐らくその可能性への信頼が、ぎりぎりのところで言葉への希望を支えている・・・ やがて多くは朽ちてしまうとしても、ある時代の記録、あるひとつの生の痕跡としてアーカイヴに眠ることを夢見る。

TANAKA Jun @tanajun009 · 8月2日
過去のある人物の言動に飽くことなくどこまでも付き合う覚悟のようなもの・・・

TANAKA Jun @tanajun009 · 8月2日
モノグラフの重要性を言うのは、そうした過去への沈潜の深さのため・・・ 他の時代の他の生を知るために、今から身を引き剥がし、論者である自分を極小にまで削ること。もともとは自分の関心や興味から発していることに違いはないにしても、それはそんな自己自身からの解放でもあるだろう・・・

TANAKA Jun @tanajun009 · 8月2日
自分の世代固有の体験やそれに根ざした実感を無視するのではないが、それらから自由になるために歴史を知ること。過去を実感として経験すること。それほどまでにある別の時代に深く沈潜すること・・・

TANAKA Jun @tanajun009 · 8月2日
それまで対象にならなかった分野の「研究」が徐々に制度化されたときに、それとは区別される「批評」の次元を確保したうえで、並大抵の「研究」では太刀打ちできない水準のテクストを書けてしまう存在がいたというのは、きわめて例外的な事態だろう・・・

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2月18日
「美には傷以外の起源はない。[・・・]その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。[・・・]どんな人にも、どんな物にさえあるこの秘密の傷[・・・]その傷が、それらの人や物を、光輝かせるように。」(ジャン・ジュネ)

シオラン ‏@Cioran_Jp 2012年2月24日
私は本というのは正真正銘一つの傷口であって、読者の生を何らかの意味で変えるものでなければならないと思っているんですよ。誰かを目覚めさせ、打ちのめしてやれ、私はそう思って書いている。私は新聞を読むように読まれる本が好きではない。本は全てを転倒し、全てを問題にしなければならない。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 3月29日
終わりの見えない作業で支えになるのは、その営みに意味があり、意義のある産物を残せるだろうという、対象の価値や自分の能力に対する一定程度の信念だろう。逆に言えば、その信念が孤独のもとでの空虚を埋めている。書くこと、作ることだけが解決なのだと言い聞かせること。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 3月29日
地味で地道な作業があってはじめて構築できるものがあるので、そうした作業に耐えきれずに手っ取り早く何か「格好いいこと」を言える道に逃げ込めてしまうのが問題というか、病というか・・・

TANAKA Jun ‏@tanajun009 3月28日
書くことへのパッションは書くことのただなかからしか生まれないのだろう。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2月18日
タフでグローバルなのも結構なのだけれど、考え抜かれて書かれた言葉を読み解くのに必要なのは、言葉の「わからなさ」に立ちすくむような畏れの経験なのかもしれない。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2013年2月6日
情報を得るためにはどんな手段・メディアでもいいのだし、ちょっとしたアイディアやヒントは際限もなく得られる。当然のこと。だから逆に、一冊の本として構築され、重層的に関連づけられたテクストという織物を時間をかけて読み解いていく忍耐を、意識的に自分に強いなければならない。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2013年2月2日
「出版の基本は、やはり自分で買いたいと思うような本を作る、ということですね。それは・・・著者にも問われていることです。自分が出版した本(書いた本)を 買いたいと思ってくれるか?。1000人とは言わない、300人でいい。その顔が見えるか?。」

TANAKA Jun ‏@tanajun009 3月27日
根底へ向かおうとするならば、つまり、ラディカルであるためには、究めるべきものを徹底的に究めなければならないのは自明で、外枠の議論に関わっている暇と必要性を今は感じない。結果で示すしかないというか。制度の函数として思索するあまり思考が有能な文化官僚のようになることは避けたい。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 3月29日
細切れにした自我の断片を露わにすることで自己顕示欲や自己承認欲求を満たしてしまえるから、継続した蓄積によって大きな産物を形成することが困難になる。このあたりは自覚的に制御しないと、ある程度のレベル以上には進めないのかもしれない。「言葉を蓄積する孤独」からの逃げ道は豊富にあるから。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 3月25日
「名声なき栄誉に包まれ/光輝なき偉大さを秘め/報酬なき尊厳を保ちつ」という言葉を、ベンヤミンは18〜19世紀に書かれたドイツ市民階級の手紙の集成『ドイツの人びと』のエピグラフに引いていた。その手紙を特徴付ける「誠実さ」。近代的な学術の最良の部分もその誠実さに由来するのではないか。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 3月12日
文芸欄に寄稿記事をせっせと書いて収入を得なければならない批評家としての仕事にはおのずと限界もあったはずだ。そんな金になる仕事とは別の場所でこつこつと続けられた『パサージュ論』のような仕事とはいったい何だったのかと茫然とする。研究し書かずにはいられない人、文の人、ベンヤミン。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 3月12日
話は戻るが、「あれとこれを片づければ出来上がり」といった見通しの良い仕事ではなく、テクストの内部でさんざん迷い尽くした挙げ句に、あれこれ議論を積み上げては崩さざるを得なくなり、ほとんどお先真っ暗な状態の果てでふと気づけばようやく基礎となる足場ができている、といったものではないか。


TANAKA Jun ‏@tanajun009 12月9日
本にすることも地図化の作業なので、その地図をひと目見たということだけだって、じつは重要な認識なのだ。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 12月9日
目次だけでも読んでおくべき本はあるということ。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 12月9日
明らかにテーマは重なるのに、「引用しない」「註ですら言及しない」という身ぶりは、どうしたって何かのメッセージに見える。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2012年12月7日
とはいえ、それなりの長さと構成をもった書物という形式を、業績評価の「市場」に合わせて放棄することは本末転倒だろう。その市場そのものが、特定言語読者の「需要」に左右されるなど、バイアスのかかったものだけになおさら。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 12月7日
新しい翻訳だから「研究的」とは限らないと思うな。可不可の訳者の場合、なおさら。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2012年11月23日
ただ、ヴァールブルクやゼーマンにあったのはまさに、非常にオリジナルで錯綜し複雑なネットワークだったのであり、それは同時代人たちとのあいだばかりではなく、過去の知や記憶にも根を張っていた。歴史の再解釈によって螺旋状に進む人文学は、端から過去との対話であり、「集合知」なのだろう。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2012年11月23日
ヴァールブルクやゼーマンのような巨人を思うことはノスタルジアなのだろう(か?)。いまはそんな巨人ではない個人がグローバルかつ緊密にネットワーク化されることで、個人のスケールを超えた「集合知」を生む時代、というわけなのだろう。ただ、・・・

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2012年8月18日
何でも「近代化装置」のせいにするのは、それこそ近代化批判という近代の呪縛だろう。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2012年8月18日
「伝統が近代以降に再構築されている」という指摘はいいとして、枕詞みたいにして「共同体秩序を強化する近代化装置」とか「マスメディアを使って再導入された」と来ると、こういう言説が「マスメディアを使って再導入され」ているさまを見る気がする。近代のみならず、いくつものルネサンスがあった。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2012年8月8日
「刺激的なことを書きたい」と思えば思うほど、その自意識で自縄自縛になり、小さく丸くなってしまうという結論。まっとうに、正面から、素直に、ただし「徹底する」ことが正しいというのが持論。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2012年7月23日
経験や知識がモノローグ的に漏らされるつぶやきは有益だけど、外部がないと、おのずから自分の思考を悪循環的に反復して、その限界をなぞるようになってしまう。自己BOT化か。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2012年6月6日
当たり前のことだが、審査する論文、書評する本はすみずみまで読んで、著者の論旨とその表現を吟味する。こちらの評価や批評そのものも真価を問われる真剣勝負だからだ。自分の評価や批評それ自体が評価されるという緊張関係がないところでは、印象論への堕落があるだけだろう。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2012年4月15日
インプットばっかりでアウトプットがないとどこかが病む。「文学青年」臭に感じるのもその腐臭。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2012年5月22日
著者もそう。センスだけでぽっと世に出たどれだけの著者が消えていったことか。ともかくかたちあるものにするには愚鈍なまでの馬力が必要。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 2012年5月22日
企画力とそこにともなうはっきりしたカラーの創造(ある専門に特化した定評)、現実的な算段と強引でもやり遂げる強い意志──こうした点には学ぶべき価値がある。その場合、センスだけでは駄目なのだ。

井上雅人 ‏@INOUE_MASAHITO 2012年12月20日
じっくりと本を読んで、人が頭の中で考えたことを丁寧に追跡していくうちに、その著者の考えるプロセスがこちらの頭に移ってくる、というところまでいくのは難しいけど、本を読むということは、自分とは全然違う頭の使い方をしている人がいるということを知ることでもある。

井上雅人 ‏@INOUE_MASAHITO 2012年12月20日
全ての学生に、在学中に一回、一冊でいいから、何が言いたいのか一読では分からないような書物に挑むような経験をしてもらいたいとは思う。人文系の学術書を読むということは、著者の思考回路をトレースするという経験だから、はじめにとおわりにだけ読んでも仕方ないと思うんだよね。

古井由吉の文章 ‏@furuiyo 2012年8月17日
どんな仕事をやっていても、どこかで真っ直ぐに進めなくなる状態が来ます。小説の場合は、そのまま進めば通俗に走り、類型に流れる可能性が高くなります。そうなったら、何もせず、馬なりで待つ。(『人生の色気』手紙が下手になった現代人)

古井由吉の文章 ‏@furuiyo 2012年8月17日
待つために必要なのは、やはり、毎日少しでも書くことです。もし清書できないなら、粗書きでもかまいません。まったく先に進まない日でも、何かを書いています。(『人生の色気』手紙が下手になった現代人)

miurakazutaka ‏@m_kazutaka 2012年8月16日
突き詰めれば、時間関係が理解できて、物語の再構成が可能となり、ある意味の束が脳内イメージとして残ってしまうようなテクストでは不味いのではなかろうか。何故ならば、そのような表象再現前的テクストは、『まさかの連続しか存在しない世界の姿』を隠蔽することに手を貸すからである。

miurakazutaka ‏@m_kazutaka 2012年8月16日
新しい文学テクストが誕生するとするのならば、「ジョイスは解釈を誘発し、カフカは解釈を撃退する」とある思想家が述べたような、位相からの決定的な断絶が不可欠となるだろう。いかなる位相においても「解釈」と無関係なテクスト、解釈を撃退するという仕方ですら解釈を所有しないテクスト。

ultraviolet ‏@raurublock 2013年1月29日
「芸術とは何か」という問いには様々な回答があるが、私はやっぱブルデューの文化資本に近い見方を取る。古代ギリシャにおける芸術も、ギリシャ人のバルバロイに対する文化的優越性を誇示する役割があった。文化侵略と言うと聞こえが悪いが、芸術はローマ帝国の属州統治を大いに助けたと思うし

増田聡 ‏@smasuda 11月10日
ネットに履歴とか業績とか公開するのを極端にいやがる研究者って若手古手問わずいますけど、個人的には公費によって養なわれた自分の知的成果ですから(卒論ですらそうです)できるだけ公的に触れられるようにしとくのがええんと違うかなとおもってます

TANAKA Jun ‏@tanajun009 11月10日
ディシプリンとカリキュラムへの闘争/からの逃走の挙げ句に、ディシプリンとカリキュラムが自壊してばらばらな知識と情報蓄積しかなくなった現状に対して、ディシプリンとカリキュラムの重要さが改めて語られるという反動。

増田聡 ‏@smasuda 11月4日
「自分の権力なんてちっぽけだ」「自分は支配される側でしかない」とか思ってる人って多いですよね(オレもそうです)。そういう人こそが最も「自分の権力」と「自分自身」を混同してしまいがちなのです。自戒する暇があったら考えてみよう秋の夜

小谷敏 ‏@binbin1956 3月21日
ブルデューを研究している人が、「ブルデューはこういっている」とだけ言って満足していてはだめだろう。ブルデューのなかに大きな欠落があれば、それは厳しく指摘して、それを自らの手で補おうとしてはじめて「ブルデュー研究者」と呼べると思う

ultraviolet ‏@raurublock 2013年1月29日
「芸術とは何か」という問いには様々な回答があるが、私はやっぱブルデューの文化資本に近い見方を取る。古代ギリシャにおける芸術も、ギリシャ人のバルバロイに対する文化的優越性を誇示する役割があった。文化侵略と言うと聞こえが悪いが、芸術はローマ帝国の属州統治を大いに助けたと思うし

TANAKA Jun ‏@tanajun009 11月3日
歴史理論の本をいろいろ読み始める。それこそメタヒストリー的な議論が理論レベルでいまだ面白いことはたしかにせよ、概念を精緻化するあまり、テクニカルになりすぎていたり、国際学会・学界の動向紹介になっていたり、開かれるべき筈の「歴史」がアカデミズム業界内にいっそう閉ざされている気味も。

loveloveshinji ‏@mocomoco223 11月3日
アメリカの研究会に出ていて感じるのは,彼らは全くといっていいほど論壇や啓蒙的なことに興味ないし話題にも上らないってこと.それはもう気持ちがいいぐらい,純アカデミズムの興味関心しかない.

loveloveshinji ‏@mocomoco223 11月3日
サントリー学芸賞や日経経済図書文化賞の話題がTLに並ぶ近頃だが,純粋アカデミズムの評価ではなく,論壇的なところの評価が研究者としての名声を高めるシステムになっているから,日本ではいつまでも論壇へのコミットのインセンティブが働くんじゃないかと思う

yusuke miyazaki ‏@parages 2012年12月23日
どれほどメディアやテクノロジーが発展しようと、どれほど文化研究がテクスト論から視覚論へと「転回」しようと、「読むこと」はあらゆる文化の根底にあり続けてきたし今後もそうあることに変わりはない。「読むこと」を徹底して思考し続けたド・マンの可能性は、増しこそすれ決して減じることはない。

yusuke miyazaki ‏@parages 2012年12月23日
『読むことのアレゴリー』は、ド・マンが生前に出した主著二冊のうちの一冊。『盲目と洞察』(月曜社)と併せ、ついにド・マンの主な邦訳が出揃ったことになる。日本語での受容はこれまで、柄谷行人や水村美苗など限られた担い手によるものだったが、本書の刊行でようやく本格的な受容が始まるだろう。

Fragments ‏@in_vertigo 10月31日
一日の出来事や、一日の数時間を描いた映画。そういう映画の、「一日の時間」の推移に直面する瞬間――始まったときにはまだ明るい風景が徐々に夜の景色へと近づいていく――そんな瞬間が好きです。その時間で蓄積したであろう疲労を主人公たちがにじませていたらなおいいですね…

TANAKA Jun ‏@tanajun009 10月30日
「〜な人間になってはいけない」とか「君に〜はいらない」とか、妙に説教じみた、というか、命令口調そのものの書名が眼につくのは、パーソナルな呼びかけによる指示を読者が欲しているからなのだろうか。「そんな本を読むような人間になってはいけないし、そんな本はいらない。」

TANAKA Jun ‏@tanajun009 10月26日
情報こそ力なり、というわけか。でも、「情報」などと一括りにするから漠然とするので、集まってくる情報の経路が問題。フィルタリングされるその経路によってはいくらでも偏向がありうる。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 10月26日
別に高額な貴重書を買ってきたわけではないが、いかに本に無駄遣いをしてきたことかと思うけれど、しかし、そんな無駄があってはじめて出逢えたものもある。紙の本は空間の無駄、デジタル・データ化されていないと情報が効率的に使えずに時間の無駄と言われそうだが、そんな無駄にも効用はたぶんある。

yusuke miyazaki ‏@parages 9月21日
理論をテクストを読む道具として扱ったり、テクストにかこつけてなにかを主張したりしたい者にとってはこれほど絶望的なことはないだろうが、テクストを読み書くことで生きている者にとって、これほど希望に満ち、爽快なことはあるだろうか?

yusuke miyazaki ‏@parages 9月21日
出来事としてつきつめると、XがYというテクストをZの方法で読むというような文法が無効化されてしまう。テクストがテクストそのものを読んでいるとしか言いようのない状況になる。自分が読んでいるはずのテクストそのものによって読まれてしまうという経験に読み手/書き手は放り込まれる。

yusuke miyazaki ‏@parages 9月21日
ド・マンが論争に巻き込まれたこうした状況は、テクストの自己脱構築的状況をよく示している。ゴイスは「正典的な読解」をしたことでド・マンの「文学的読解」に加担せざるをえなくなり、反対に、ド・マンの読解の位置も正典的読解を通じてはじめて見えてくる。

yusuke miyazaki ‏@parages 9月21日
ヘーゲル美学や言語論の解釈としてみると、ソンディやイポリット、デリダ「竪穴とピラミッド」などと比べても、ド・マンの読解はかなり危なっかしいし、実際踏み外してしまっていることもあるが、ド・マンのそういうところにこそ惹かれてしまう。思考を喚起するテクストのもつ不思議な力。

yusuke miyazaki ‏@parages 9月21日
しかし誤読には単に誤りとして斥けて済むような問題ではない射程が開けることがある。誤読したことによってはじめて可能になった洞察をどう考えればよいか。正しければよいというものではない。正しすぎるからこそ問うに値しないという場合もたくさんある。

yusuke miyazaki ‏@parages 9月21日
TL上でレイモンド・ゴイスの名をみかけた。訳書もあるが、ド・マンの「ヘーゲル美学における記号と象徴」のヘーゲル解釈を厳しく批判した哲学者として自分は初めて知った。『美学イデオロギー』の最終章でド・マンはゴイスに反論しているが、ド・マンがヘーゲルを誤読しているのは否めない。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 9月4日
「力を持つものを貶め、卑小なものを賞揚することは、人間にとって最も神に近いと見なし得る業である。なぜならこの業は、人が最良のインスピレーションを得ているときにしか、為し得ないからである。世界の新たな見方を発見すること//それは芸術家ないし思想家の本能が為せる業である。」(エリス)

TANAKA Jun ‏@tanajun009 9月4日
「定義上、解放の機械といったものは存在しない。自由を保障することは決して事物の構造には属さない。自由とは実践である。機能の上で解放的なものは何もない。自由とは行使されるべきものであり、自由の保障とは自由である。」(フーコー)

TANAKA Jun ‏@tanajun009 9月1日
せっかくよい着眼点があっても、羅列するようにとりとめもなく書くから、焦点がぼけてしまう。ナラティヴを分析するならなおのこと、自分のナラティヴに敏感にならないと。

yusuke miyazaki ‏@parages 8月25日
デリダにせよドゥルーズにせよ、あの時代には、今ではあまり見えなくなっているが、概して水準の高い、戦間期の一群の哲学史家や哲学研究の厚みが共有されていて、彼らが一見さりげなく参照している文献を丁寧に追えば驚くべき着想源が発掘されることがよくある。それを明示化するのが後発の者の仕事。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 8月17日
どんなに悲惨な経験も「リアルで生々しい」記号として消費される貧困。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 8月17日
「リアルな」「生々しさ」などという感触が、メディアによる媒介の「貧困」を覆い隠す「経験」の偽装でしかないなら、まずその貧困を前提にしたうえで、いったい何が語られるべきなのかを考えたほうがいい。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 8月16日
「〜の発見」という記述法自体が当該の「〜」を存在せしめてしまうという歴史記述の問題。歴史は「事実の記述」ではなくてあくまで「表象」だという立場からすれば、「〜」そのものの存在が問われる。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 8月16日
SNSを世界から隠れた片隅みたいにみなしてつぶやくのも一興なのかもしれないが、そんな言葉なら別のかたちで蓄積するだろうな。自分にとってはネット上の情報収集も発言もある種の「独学者のノート」なので、ツイッターの話芸のようなものにも関心がない。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 8月16日
確かに。ツイッターがマス・メディア化したうえ、リアルタイムでいっせいに同じ話題について発言「しなければならない」同調圧力の装置になっているからこそ、「「何を言わないか」についての自制」が必要。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 8月7日
現在の存在のあり方を相対化できる外部をもって、その外部で生きる可能性をつねに考えておかないと、知らぬうちに発想が一元化してしまうものだと自戒。アカデミズムなどそもそも狭い世界だし、いわんや一特定大学の組織をや。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 7月22日
鈍さとは破壊的なところなど何もない淡々とした時間に耐える才能である。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 7月22日
問題なのはこの質で、恐らくずっと変わらずにこのまま成長するのだろうと思わせる頭の切れと、熟成させるように時間をかけて変質していく才能というふたつのタイプは確かにあるように思う。前者はむしろ恐らくありあまる才能にみずから呪縛されてしまっているのだが。

高峰秀子 ‏@HidekoTakamine 7月22日
一本の映画は、平均して二百カット前後の小間切れカットの連続によって完成されている。その中の、わずか一場面、たったの一カットでも、人々の心に長く残れば、その映画は名作である、と私は思っている。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 7月10日
トーマス・マンは芸術のデーモンを知りながら市民的価値観も合わせ持っていたので、アッシェンバッハとはどこか芸術家のカリカチュアじみている。そのカリカチュアの妄執が耽美的にばかり美化されるとしたら、カリカチュアのカリカチュアだろう。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 7月10日
論理的な批判ができるかどうかはともかく、納得できない違和感を抱え続けることは大事。むしろ、簡単に表明せずにじっと蓄えて発酵させるくらいまで。その場で論理的に批判できることなど、たかが知れている。

yusuke miyazaki ‏@parages 7月10日
リオタールの『言説、形象』の邦訳がやっと出たのにまだまとまった議論がなにもなされていないのは(自分を含めた)上の世代の怠慢だよな。。日本には不幸にも、リオタールを専門とする研究者がほとんどいないのも問題なんだが。リオタールが未だに『ポストモダンの条件』でしか語られない知的貧困。

手塚博 ‏@tezuka_hiroshi 7月3日
論文を書いていると、その論文のストーリーに沿った形でしか、探求の対象を見ることができなくなる。そうなると、筋は通っているが視野が狭く一面的な論文が仕上がる。それを避けるためには、内容を忘れるくらいの期間、寝かせておく必要がある。そうすることで、いろいろと盲点が見えてくる。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 6月28日
ディディ=ユベルマンによれば「美術史とは、どれほど厳密に、また考古学的に構築されるべきだとしても、やはり詩的な、というのは制作的な知なのである。イメージを操らずしてイメージについての知は作られない」。しかし、だからこそそこには、イメージに取り憑かれる危険もまたある。

志紀島 啓 ‏@kay_shixima 6月17日
あたかもアスペルガーのようにドゥルーズの思考が(バラバラの)諸欲動の肯定とある種の統合のあいだで揺らいでいる。とりわけ「構造主義は何故そう呼ばれるのか」や「意味の論理学」にはその痕跡が認められる。

志紀島 啓 ‏@kay_shixima 6月17日
@kimarx またしても遅レスで失礼。僕は両者の差異を精神病的(ハイデガー、ラカン、デリダ)と自閉症多形倒錯的(ドゥルーズ)に分けて考えたいという見込みを持っています。もちろん僕は前者の立場。 TANAKA Jun ‏@tanajun009 6月28日
ディディ=ユベルマンが羽を伸ばして(?)書いているように見えるこの本を読んで改めて思うのは、博識はもとより、イメージ記憶の在庫が違うこと。量は質に転化するので、在庫が大事。ただし、蓄積がネットワーク化されなければ死蔵。

いきうめ ‏@dilettante_k 5月22日
>「卡夫卡(カフカ)」
この文字列をじっとみていたら、まさに「独身者の機械」そのものの構造。上下に引き裂かれる夫になれなかった独身者、フランツ・カフカよ…

TANAKA Jun ‏@tanajun009 5月21日
どんなテーマであれ、何から何まで位置付け可能な見取り図が決まっている研究分野などあるのだろうか。むしろ、正解のないかもしれぬパズルのように、ピースをひとつひとつ集めているような実感。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 4月17日
対象としての書物そのものを論じるのではなく、意識的無意識的に何か別の目的のために書評が書かれることはあって、そういう高度に政治的な(?)テクストの含意が見えてしまう場合もたまにはある。その意味でまったくニュートラルな批判や賛辞はなかなか書きにくいものだ。そして無視もまた政治的。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 4月17日
書評は書物という作品の批評のはずなのだけれど、往々にして著者や周辺人物や自分語りになってしまうことも多い。それを含めて有益ならばいいのだが。

Kan Kimura ‏@kankimura 2013年1月2日
そうそう。よくある駄目なパターンは註釈ではなく、参考文献一覧で見栄を張って、読んでもない文献を並べてしまう例。大抵の場合、手元の文献の参考文献の一部を写しているのだけど、この中に入手困難なものが入っていると、先の「どうやって入手したの」という質問一発でばれます。

Kan Kimura ‏@kankimura 2013年1月2日
当然の事ですが、註を付ける場合には文献は手元にあるのが大原則です。「図書館で見ました」の類は全く信用されませんのでご注意を。勿論、断りなしの孫引きは論外です。読んでない文献を註に打つとそれだけで「失格」になる時もありますのでご注意ください m(_ _)m。

Kan Kimura ‏@kankimura 2013年1月2日
序に言うと論文にケチをつけようと思う場合、いちばん簡単なのは註の付け方だったりもします。形式が不統一なのは論外ですが、ページ数が書いてなかったりすると「ホントに読んだのかぁ」といういらぬ疑念を招きます。一次文献や特殊言語の文献の場合には「どうやって見つけたの」と言われる事も。

Kan Kimura ‏@kankimura 2013年1月2日
愚痴。院生の諸君。「論文の要約」は本文から適当にカット&ペーストして作ろうと思わないように。要約は要約として単体の文章なのですから、きちんとした文章である必要があります。そもそも「皆が最初に読む部分」で手抜きをすると印象は最悪です。注意するように!

Kan Kimura ‏@kankimura 6月5日
また、新書で書くべき事、は、学術書/論文とは異なっていた方が良いと思っている(媒体の性格も読者も違うから)ので、「単に専門書の内容を薄めただけ」みたいな新書は余り評価しない傾向にあります(単なる偏見です)。だって、それなら専門書読めば良いですからね。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 6月5日
結局、体力(と精神力)がないとだめなので、体力のない人には多くの負荷がかけられない。自分でどの程度の負荷でならば中長期的な仕事ができそうか、判断できそうなもの。

Kantaro OHASHI ‏@kantaro_ohashi 6月2日
@mineotakamura いっそ「読者の死」から始めてしまうのはいかがでしょうか。人類は消え去り、地球だけが廃墟化したアレクサンドリア図書館のように残っているとき、風化しつつあるこの大量のインクの染みはいったい何なのだろうか、と。(適当)

TANAKA Jun ‏@tanajun009 6月1日
自分のなかで咀嚼し熟させる時間が必要な言葉に遭遇したとき、即座のアクティヴな反応が正しいわけではない。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 6月1日
「「黙って聞く」ことをわたしは決して受動的、消極的な行為だとは思いません。それは、非常に大きなエネルギーを使う生産的な営みだと思う。「語ること」と「聞くこと」とがぶつかり合う波打ち際に、きわめて刺激的な精神の事件が起きるということがあると信じています」松浦寿輝「波打ち際に生きる」

TANAKA Jun ‏@tanajun009 5月29日
作者が書くのではなくテクスト(言葉)そのものが書く。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 5月28日
あきらかな誤読なのに、誤読して読みとられたもののほうがはるかに刺激的に見えるという・・・

TANAKA Jun ‏@tanajun009 5月27日
思想家の読み直しは必要だけれど、読み直すからには刷新してアクチュアルにしたいもの。本棚から引っ張り出して若者に与えて終わりではあるまいし。

TANAKA Jun ‏@tanajun009 5月11日
自分自身が変化し記憶を失っていくがゆえに、そんな一寸先の自分に向けて書き残す独学者のノート。

Tsutomu MIZOGUCHI ‏@mizo2106 5月6日
新潮社に限らず校閲のプロは、歴史的事実の確認はもちろん、たとえば時代小説なら忍者屋敷の複雑な構造や、部屋の間取り、扉の開け閉めが手前か奥か、物語の中で矛盾していないかをチェックします。出版社には、そういうプロがたくさんいるよ。編集者もそうだよ。

Tsutomu MIZOGUCHI ‏@mizo2106 5月6日
新潮社の校閲者の仕事ぶりが話題になっていたけど、そうか、ふつうの人は、そういうプロセスを経て本ができることを知らないのですよね。ネットと電子書籍の時代の「出版社不要論」が、随分乱暴な話だということに気づいてもらえると嬉しい。

オザンファン ‏@maerchendiver 5月5日
16世紀にあっては、女性表象の美の規範である「優美(grazia)」は、また宮廷作法(身体と行動の規律)の規範でもあった。18世紀のbienséancesやconvenancesが、芸術における「相応しさ」と適切な礼儀作法の双方を含意したのと似ているな。

yusuke miyazaki ‏@parages 2013年1月11日
ナンシーは、ハイデガーの Destruktion を déconstruction と訳したのはグラネルとデリダだと述べています(『フクシマの後で』88頁)。これは脱構築という言葉を使い始めたのはデリダだけではないということですね(今ではデリダの言葉ということになってますが)。

yusuke miyazaki ‏@parages 2013年1月11日
『フクシマの後で』の邦訳を読みながら思ったけれど、それにしても、ナンシーの《struction》って翻訳不可能な言葉ですね。ナンシーは Struo という語源に遡っていて、その「寄せ集め」や「積み重なり」という意味を込めて、訳者は「集積」と訳している。これは字義的には正しい。

yusuke miyazaki ‏@parages 2012年10月18日
『判断力批判』は最初の「序言(Vorrede)」を精読して本書の企図を最小限つかむのは必須としても、そのまま「序論(Einleitung)」に突入すると高確率で死にます。序論・第IV節の規定的/反省的判断力の区別を簡単に押さえたら、残りはとばして「美の分析論」に入ったほうがいい。

yusuke miyazaki ‏@parages 2012年9月7日
ややこしくて恐縮ですが、とくに「美的なもの」≠「美学」であり、「美的なもの」には、美学化にも、脱美学化にも作用する両面性(アンビヴァレンス)があるという点は要注意です。(本当は、aesthetic を「美的なもの」と訳すべきではないのですけれどね……)

yusuke miyazaki ‏@parages 2012年9月7日
したがって、美と崇高を、いかにして所与の美学的カテゴリーから解き放ち、「美的なもの」に内在する批判的な契機として両者の概念とその関係を(カント『判断力批判』に即して)読み解き、脱美学化(美学の政治化)へとつなげうるのか、これを問うことが『判断と崇高』の主要な課題となっています。

yusuke miyazaki ‏@parages 2012年9月7日
なので、美的なもの(美学化)は美によってもたらされ、それに対して、反美学的なもの(脱美学化)は崇高によってもたらされる、というふうに必ずしも割り振ることはできません。

yusuke miyazaki ‏@parages 2012年9月7日
日本語訳だと混乱するのですが、「美的なもの(the aesthetic:情感的なもの)」には「美(beauty)」も「崇高(the sublime)」もどちらも入ります。(政治の)美学化(aestheticization)は、美と崇高のどちらによっても推進されるおそれがある。

Kan Kimura ‏@kankimura 2013年1月2日
部分引用。膨大な分量の資料集等から一部だけ読んでいる場合には、当然参考にした二次文献がある訳だから、それを書かないのはアウト(有効な目次等がある場合は別です)。そうでないと「全部読んだ」と宣言しているも同然。注意しましょう。




2014年
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