† 映画 †

イランの辺境に存在する「復讐の神」にまつわる恐るべき伝承――アンドレ・カイヤット『眼には眼を』

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(C)oeil pour oeil 1957

 人間心理の暗部を描き尽くした恐るべき映画であり、真の隠れた傑作である。本作は1957年公開のフランス、イタリア合作映画であり、アルメニア出身の作家ヴァエ・カッチャの原作の映画化である。
 主人公のフランス人医師バルテルは富と地位に恵まれた、多少傲慢なところがあるもののいたって一般的な市民として描かれている。ある日、一人の女性が病院で施術を受けられずに死んでしまう。バルテルは多忙さもあいまって、それをあまり気に止めなかった。それから数日後、バーで飲んでいて財布を忘れてしまったことに気付きあたふたしていると、カウンターに座っていた小太りのイラン人男性が密かに支払いを済ましてくれるという出来事が起きる。このイラン人男性ボルタクこそ、先日バルテルの医院で妻を失った人物であり、この物語の核心となる戦慄すべき人物である。
 ボルタクはけしてバルテルに直接的な行動をしない。つまり、彼は妻を失った腹癒せに彼に復讐を果たそうとしているようには見えない。むしろ、車がエンストして動かなくなると家に泊めてあげたりするなど、最初は奇妙にも好意的なのだ。だが、ボルタクという人物は恐らく「いかに人間に絶望を与えるか」を誰よりも深く、それも私が直観するに、その点を神学的に究めてしまった人物であると感じられる。彼はバルテルに、「期待」と「安らぎ」をまずは与え、それを少しずつ、あるいは一気に崩壊させるという復讐に出るのだ。そう、彼の復讐はあまりにも壮絶であるため、人から最初は善行にしか見えないのである。家に泊めて貰った翌日、バルテルは親切にしてくれたボルタクの娘から突如として冷淡な扱いを受ける。これは、「信頼」させておいてそれを興醒めさせ、転覆させるボルタク流のルサンチマンの実演なのだ。
 やがてバルテルはボルタクから辺境の村で苦しんでいる患者がいるという情報を伝えられ、そこに向かう。しかし、この村は極端に貧しく排他的な村で、彼の車を半日で解体してしまう。医院に戻れなくなったバルテルは村の宿泊所に滞在するが、ここも「バスがもう少しで来る」という偽情報を伝え続けて長々と無意味な滞在を強制するという始末である。この気味悪い村は、続くボルタクとバルテルの「決闘」の舞台となる砂漠の予兆であり、いわば人間のいる「地獄」の象徴である。
 いつまで経っても戻れないバルテルは、忽然と姿を現したボルタクに案内されながら徒歩で医院まで帰ろうとする。そのためには果てしなく広がる砂漠を越えなければならない。ボルタクはバルテルをやはり「親切に」案内していく。しかし、想像されるように、ボルタクは彼を自宅に帰そうなどという気は最初からない。これは、砂漠という人間のいない「地獄」で彼を孤絶させ、迷い尽くさせるためにあらかじめ企図された壮大な復讐劇なのだ。ボルタクはそのために命をかけており、いわば不条理なこの世界を呪詛するために、憎い相手に同じ絶望を味わわせる魂胆である。ボルタクのあくまでも穏やかで冷静な、それでいて敬虔な雰囲気さえ漂わせる雰囲気が、この復讐の壮絶さをいっそう強烈に浮き立たせている。
 イスラム神学には、ボルタクのような恐ろしい天使が存在するのだろうか? これほど執念深く、何か意志に貫かれて復讐を冷静に遂行していく人物を、私はこの映画以外に知らない。キアロスタミも『桜桃の味』や『そして人生はつづく』で同じイランの大地を映し出しているが、そこには常に慈愛の如き包み込む優しさが存在した。だが、この作品にはそうした安穏が入る余地は微塵もない。砂漠の地獄的な様相を如実に表しているのが、映画中でクローズアップされる死んだ驢馬の腐敗した体内で呼吸している鷲の場面である。まさに屍肉を貪るような徘徊を、ボルタクは妻を殺した医師に望んでいるのだ。それは妻の浮かばれない怨念を晴らすため、というよりも、むしろ復讐の自己目的化であり、それを生き甲斐とした者の狂気である。
 遂にバルテルは死の大地の最中で「死んだ方がましだ」と絶望の淵で叫ぶ――これこそが、ボルタクの積日の望みであった。全ては、この「死んだ方がましだ」という絶望の極北を、相手にも共感させるためである。タイトルの「眼には眼を」とは、この地獄の砂上での心理的対決に与えられた最も適切なアフォリズムであるだろう。ボルタクは自分がバルタルに信用されていないことを利用して、わざと水の入った瓶を放置したりするが、バルタルはこれを飲もうとしない。もしかすると、毒が入っているかもしれない……そんな猜疑心までボルタクは計算して、この砂漠の上で支配的に振る舞うのである。彼は命を軽率に扱った者に対する、あまりにも苛烈な懲罰者である。
 結局、バルテルは「街がこの先にある」というボルタクの言葉を信じて突き進んでいく。だが、その先には険しく不毛な山脈がただ何処までも続いているのみである。ボルタクは映画の最後に、無邪気に「街」を信じる彼の姿に一人、呵々大笑する。彼も砂上で死ぬ覚悟だろうが、こうして復讐は完遂されるのである……。
 この映画は、一般的な「復讐劇」とは明らかに質の異なる異常な衝迫力を宿した映画であり、イランという非西洋的な土壌も相俟って魔術的な薫りすら放っている。この映画は、“誰も人間を信じるな、信じるのは徹頭徹尾、己のみであれ”――ただこの一点のみを我々に伝えるために構成された、一つの厳密なまでに一貫した呪いの記録である。たとえ時代から忘れられることになっても、この映画の持つ人間心理への卓越した分析、その解剖学には目を見張るものがある。是非、一度ボルタクの宿したルサンチマンの恐ろしさを目の当たりにして欲しいものだ。








 
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