† ポール・ド・マン †

テクストという名のニューラルネットワークーーポール・ド・マン『美学イデオロギー』所収「パスカルの説得のアレゴリー」について

Elisabeth Erm by Camilla Akrans | Dior
Elisabeth Erm by Camilla Akrans | Dior


【テクストという名のニューラルネットワーク】

 あるものが、常にそれとは別のものを意味してしまうこと――これがド・マンのいう「アレゴリー」の概念の基礎的な図式である。だが、そもそも何故このような事態が生起するのだろうか? ド・マンはこの問題を解明するために、『美学イデオロギー』所収の論稿「パスカルの説得のアレゴリー」の中でパスカルの『幾何学一般に関する省察――幾何学的精神と説得術について』(1657~58年頃)の分析を企図する。本書は第一部が認識論、第二部がレトリック(修辞学)論であり、特にド・マンが注目するのは第二部である。何故、パスカルは「幾何学」という本来、メタファーなどで装飾しなくてもそれ自体で自立し得る世界に、あえて「修辞学」を必要としたのだろうか? この奇妙なパラドックスにも似た「謎」に、いわばド・マンは立ち向かうのである。
 まず、ド・マンはパスカルが「人間」の概念を「数」によって定式化し得ると考えていた点に注目している。

つまり人間というこの一個のものは、とにもかくにも常に二個一組のもの、すなわち一対のものであるということだ。数の体系における1と同じように、人間というのは無限に分割することも、無限に倍加することも可能なのである。つまり人間とはあの二つの無限の体系と同じようなものなのだ。だからこそパスカルは、〈人間は人間を超えてゆく〉、〈人間は二重である〉と述べたすぐ後で、〈人間は無限に人間を超えてゆく〉と言い添えることができるのである。(p117)


 ここでパスカルが規定していることの本質は、「人間」の概念を、「それとは別のもの」である「数」によって表現、説明しているということ――すなわちド・マンの「アレゴリー」の概念を遂行しているという事実である。
 このような点を前提として紹介した上で、ド・マンはパスカルが実は『パンセ』において、「接続詞」に奇妙なほど説得的な効果を持たせる作法を実演していた点を分析する。例えば、彼の用いるdonc(それゆえ)、あるいはpuisque(なぜなら)という接続詞は、それが文法上必ずしも必要ではない場合ですら、「認識上の力」を読者に持たせるための「修辞的効果」を発揮している。パスカルは接続詞を、あたかも数学の証明形式のように巧みにエクリチュールに採用する名手であったというわけだ。それだけでなく、彼は「断言の同語反復」という話術も心得ていた。この二つの巧みな語りが、パスカルの「説得のメタファー」に力を持たせる二大要因であると、ド・マンは分析する。例えば、「人間は偉大である。なぜなら、自分が惨めであることを知っているから」、あるいは「人間は惨めである。なぜなら、事実そうなのだから」というパスカルの銘苦には確かに読者に対して一定の喚起力を持っている。それは何故人々の印象に残るのだろうか? 実は、ここで重要なのはパスカルが「偉大」と「惨め」、などのう二項対立関係にある観念を、交叉配列的な相互作用として論証に導入していたという点である。「なぜなら~なのであるから」、という接続詞の数学的な説得力と、「偉大」であることは己が「惨め」であることを知っているからという点に理由を結び付ける、巧みなカイアズマス(交叉配列)の展開。こうしたド・マンの分析で可視化されるのは、まさに数学者でもあったパスカルでさえ、いざエクリチュールになれば「メタファーの技法」を必然的に応用する形式を採用してしまっているという事実である。
 よく考えれば判るように、「自分が惨めであることを知っている」状態は「偉大である」と等号で結ばれるわけではない(もしかすると、その状態を「悲愴」と呼ぶ人もいるだろう)。それを等式で結んだのはパスカルの恣意性であり、この保証の担保こそが接続詞「なぜなら~なのであるから」という説得術であるというわけだ。パスカルが説得的なのは、実は彼が説得術、すなわち修辞学を駆使していたからであって、それは先の『幾何学一般に関する省察――幾何学的精神と説得術について』の第二部が「修辞学」である点に萌芽を見出せるのである。

同一の構造、つまり「正から反への絶えざる逆転」とまったく同じ逆転が、対立する二項を交叉配列によって交差させるという型を基本に、少しずつその形を変えながら果てしなく続き、何度も繰り返し現れることになるだろう。この過程において主題を捉える洞察の豊かさが明らかとなり、こうして根本的に弁証法的な論法パターンが普遍的な有効性を持っていることが示されるだろう。(p122)


 このようにパスカルのエクリチュールを、彼がテーマにしている概念や問題提起をそのまま解釈したり批判したりする従来までの批評ではなく、そもそも「なぜパスカルのテクストは説得的であろうとしているのか?」という、より根本的な問いにまで切り込むことでのみ見えてくる地平というものがある。以下に述べるド・マンの非常に鋭い考察は、まさに彼がパスカルと「テーマ」を共有する試みから、パスカルの用いるメタファーにこそ注目する試みへと視座を徹底化させたことによって初めて到達し得たものであろう。彼はこのように上記の引用箇所に論を接続している。

こうして我々には次の問いが残されたことになる。つまり、こうした弁証法的なパターンに嵌るのをはっきり拒むテクストが『パンセ』の中にあるかどうか、ということである。ただし、仮に弁証法的なパターンに嵌るのを拒むテクストがあったとしても、それはそうしたテクストが、これとは異なったトロポロジカル(比喩論的)なモデルに沿って構造化されているからではない(そうしたモデルは弁証法モデルを確かに多様化させはするが、必ずしも無効にするわけではないだろう)。弁証法と同じパターンで論証が進められてゆくような運動を、そうしたテクストが破綻させるからに他ならない。(p122)


 このページ(p122)は、何度も再読されるに値する極めて深い考察に達しているド・マンのメタファー論の白眉の一つである。ここで重要なのは、まずド・マンがパスカルの文体の特徴を(1)「正から反への絶えざる逆転」、(2)「対立する二項を交叉配列によって交差させる」という二つのモデルの数知れない変奏として把捉している点であり、パスカルが用いる「弁証法的な論法パターン」とはまさにこの二つの特徴を指しているという前提である。だが、パスカルの全てのテクストがこの二つの原理によってのみ作動しているわけではない。仮にこの原理がパスカルのエクリチュールの「システム」だとすれば、あらゆるエクリチュールには常に既に書き手によって自覚的/無自覚的にであれ採用されている「型」を「破綻」、「頓挫」させてしまうような箇所が生起するということである。これは弁証法からすれば実は「例外」ではなく、「システム」の維持のために必要な一つの変数として解釈可能である。だが、なぜそもそもシステムがシステムを意図的に失効させるような運動を犯すのであろうか? これが我々の問いである。
 その謎を解くのに必要な概念が、ド・マンの「美的なもの」についての解釈である。カント論で既に述べられていたように、「美的なもの」には自分自身の「美」を破壊し、それに逆説を投げかける批判的な潜勢力が本来的に備わっている。それは生命の進化プロセスにも見出すことができるだろう。つまり、同じ環境下にいるよりも、種は新しい種へと成長してゆくために意図的に環境を変化させていくという考えがそれである。これは人間のエクリチュールが詰まるところ、脳内のニューラルネットワークを駆使して作動していることとも相関している。換言すれば、人間には常に同じ空間、同じ原理、同じ書き方で在り続けることに「危機」のシグナルを送信する特徴を持っているのであり、パスカルのエクリチュールは、たとえ彼が己の弁証法を「美的なもの」として愛用していたとしても、そこに不可避的に倦怠を、あるいは倦怠から出来する「逸脱」を招来せずにはいない。このように、ド・マンは「テクスト」という存在を単なる物質ではなく、明らかに脳内のニューラルネットワークの「メタファー」として捉えているかのような深い地点にまで達しているのである。
 もしもテクスト=ニューロンの生成過程であるとすれば、なぜ小説を書く者がスランプに陥ったり、あるいはストーリーが停滞したり突如として急展開を見せたりするのかという点も、この考えから一定の解釈を与えておくことが可能であろう。すなわち、ストーリーが急激に展開するのは、実は作者によってあらかじめ構造化されていたストーリーラインの自律的な機能を「破綻」させようとする作者自身の無自覚的なパフォーマティブの顕現として解釈できる。スランプが、もしもテクストの構造的な行き詰まりであるとすれば、それはいわば小説空間の物語構造を一度、「破綻」させることで新しい展開へと繋げるシグナルでもあるというわけだ。ずっと同じ場所で椅子に座っていられる時間には限りがあるように、人は息抜きにサイクリングしたり散歩したりするだろう。これと同じような情動性が、いわばテクストの論理的な空間においても作動しているということである。この限りで、いわばテクストとはトマス・ド・クィンシーが暗示していたように、「脳髄」をrepresent(表象=代理)していると考えられる。
 
【「美的なもの」と「政治的なもの」の共犯関係――パスカルのパフォーマティブ】

 本論で展開されている、パスカルが説得のために技巧的に採用していたメタファーについての分析から得られた要諦は、実はド・マンに学んだイェール学派のショシャナ・フェルマンがオースティン論『語る身体のスキャンダル』(本書は同時にモリエールの『ドン・ジュアン』論でもある)で展開した言語の本質的な行為遂行性――すなわち「パフォーマティブ」についての概念へと発展するものである。ド・マンはまず、パフォーマティブなテクストは自らコンスタティブな事実であろうと振る舞うこと、言い換えれば認識的に正統的であろうと振る舞おうとする点を指摘する。既に述べたように、パスカルは接続詞を極めて修辞的に用いる術を心得ており、例えばainsi(こうして〜)という語を、本来はパフォーマティブな次元で扱われているテーマ(例えば「正義」や「権力」)を語る際に、あたかも事実確認された客観的叙述であるかのように付け加える。いわば、説得のために本来はfaire(する)の次元で真偽が宙吊りにされるようなテマティックを、savoir(知る)ものとして扱うのだ。論証において「こうして」、「すなわち」、「したがって」などという語は、パスカルにおいて「説得のアレゴリー」として修辞的に機能しているのであり、ド・マンはこのようにメタファーが審美化=政治化されてテクストを自ら「正当化」する瞬間、その現場を克明に活写しているのである。
 そもそも、パスカルは「人間」をどのように定義しているのだろうか? 実は、その定義の中に既に「誘惑の言語」という表現が含まれている点に注目しなければならない。「人間とは…快楽と誘惑の言語に影響され易い存在である」(p99)、あるいは「真理と快楽との間の均衡が疑わしいものとなり…」(p100)という表現からも窺えるように、パスカルは人間を「言語的存在」として、なおかつ「誘惑の言語」(パフォーマティブ)に感化され、説得されてしまい易い存在として規定しているのだ。このような厳格な定義付けを行いつつ、パスカルは自ら「誘惑の言語」によって、単なるdefinitio nominis(名目的定義)に過ぎないものを「始源語」へ掏り替えていく(例えば「権力」のように抽象的な概念を規定する際、パスカルは力のある者に「正しさ」を結び付ける)。つまり、自らの定義のコンスタティブな側面を、今度は実演/パフォーマンスするのである。ド・マンによれば、パスカルの定める「始源語」の意味論的な機能は、実は「比喩」として構造化されているというのだ。換言すれば、何かを名目的に定義しようとする論述のプロセスで、不可避的に「比喩」を多用したdefinitio reo(実在的定義)を採用せざる得ないという構造が透けて見えてくるのであり、ここに我々はパスカルの「説得のアレゴリー」の作動する条件を認めることができる。
 以上から、ド・マンはパスカルの『パンセ』を代表とするテクスト群に往々にして見出される、ある共通した「文体の特徴」を以下のように規定する。一つ目は、「真理の言語」について述べるパスカルであり、この際の彼は正しいことを述べているが無力であり、いわばコンスタティブな叙述を行っているのみである。二つ目は、必ずしも正しくはないが、極めて強い力を持ち、「好みのままになされる」パフォーマティブな言語であり、コンスタティブな言語が「認識的」であるのに対し、こちらは「様相的」と表現される。パフォーマティブな言語は「快楽の言語」とも呼称され、フェルマンのいう言語が備える「美的なもの」の持つ誘惑的、かつ悪魔的な力としての「ドン・ジュアン性」を本質にしている。重要なのは、「アナコルソンは遍在する」というド・マンの簡潔な表明にも見られるように、これら二つの側面がパスカルという一人の人物において別々に採用されているのではなく、決定不可能なほど分ち難く交叉し、浸透し合ってテクストの正当化に寄与しているという点である。逆にいえば、コンスタティブな言語がパスカルにおいてパフォーマティブな身振りを正当化するための装飾として機能しているのであり、我々はド・マンの本論においても、言語の持つ「美的なもの」が「政治的なもの」と共犯関係を結ぶという一貫した図式を見出すことが可能である。
 



「参考文献」


美学イデオロギー美学イデオロギー
(2004/12/10)
ポール・ド・マン

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