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名もなき一人の聖者の奇蹟――モーリス・ピアラ『悪魔の陽の下に』(カンヌ国際映画祭パルムドール)


悪魔の陽の下に [DVD]悪魔の陽の下に [DVD]
(2014/02/22)
ジェラール・ドパルデュー、サンドリーヌ・ボネール 他

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 カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したモーリス・ピアラ監督の『悪魔の陽の下に』(1987)を観た。
 「悪魔」とは何かを考える上での貴重な作品の一つである。メジャーなハリウッド映画では悪魔を実際に怪物的な姿で登場させてしまうことが往々にして観られるが、ヨーロッパ映画ではもう少し本質を捉えている気がする。何より、音楽が実に素晴らしい。
 ストーリーは至ってシンプルだ。主人公のドニサン(ジェラール・ドパルデュー)は青年司祭で、背中を自分で鞭打つほど厳しく己を律して生きている。一方、交替して描かれる少女ムシェットには複数の愛人が存在し、その一人である侯爵を殺害してしまう。ドニサンは何かに呼ばれるように隣街まで徒歩で向かうが、その先でムシェットと「偶然」出会うことになる。今、私は「偶然」と書いたが、実はこれはおそらく何かがドニサンをしてムシェットに出会わせたものだと解釈することができる。何故なら、ドニサンは道中の宏大な平原で一人の奇怪な男に出会ってるからだ。この時、悪魔は親切を演じる一人の男性として登場している。示されるがままに進んだ道の果てでムシェットと出会ったドニサンは、彼女の心の中を見てしまう。目にした瞬間、その未来や抱えている苦しみが伝わってきた様子であり、この辺りを境にこの映画の焦点はムシェットの悪魔祓い(そもそもそれは描かれない)ではなく、ドニサンの「奇蹟」に焦点を当てたものになる。
 ムシェットは罪の意識からか、自ら命を絶つ。呼ばれてもいないにも関わらず駆けつけたドニサンには彼女の迫り来る死が見えていたのだろう。自殺者の死体を祭壇に運んだことが問題となるが、ドニサンはそれからも奇蹟を起こす。死んで間もない一人の少年を、「私の命の代わり」でもいいと願いながら蘇生させるのだ。この言葉通り、彼は間もなく教会の中でひっそりと息を引き取る。これがこの映画の粗筋だ。
 この映画で重要なのは、悪魔が「人間の心」の問題として描かれている点だろう。ムシェットの場合は誰にでも身を預けてしまう「肉慾」(七つの大罪の一つ)に憑かれてる。ドニサンにはきっと肥大化した人間の罪が見えてしまうのだろう。もう一つ重要な点は、ドニサンが「奇蹟」を起こしたということだ。ラザロの復活のように彼は少年を蘇らせ、ムシェットの死を遠隔で察知した。こうした力は「列聖」(聖人としてヴァチカンが後から位置付ける運動)のための条件である。ルルドの泉の聖ベルナデッタがそうであったように、全ての聖人は何らかの「奇蹟」を行う。ドニサンは列聖される以前に死んだ村の青年司祭という設定だが、もしかすると歴史上にはこのような人々が他にもいたのかもしれない。むしろ、知名度のある聖人の影に、真の大いなる「奇蹟」が存在していたのではないか……。この映画の後、そんなことを考えた。
 





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