† 文芸理論 †

文学理論を学ぶ上での最重要文献の一冊、エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス』について


ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)
(1994/02)
エーリッヒ アウエルバッハ

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 文学理論を学ぶ上での最重要文献の一冊に入っているエーリッヒ・アウエルバッハの名高い『ミメーシス』について、読解した章のレジュメを残しておこう。ユダヤ人として戦時下には亡命を余儀なくされたアウエルバッハの名は、ようやく日本でも本格的な受容が始まって多大な注目を集めているポール・ド・マンが特権的に扱うことでも知られている。一般的にヨーロッパ文学史では、スタンダールとバルザックによって「近代リアリズム文学」が開始されたと考えられている。しかし、中世にも無論その時代特有の「リアリズム」は存在した。日常的現実と、崇高な悲劇性を結合した描写という点でキリスト受難劇としての聖書のエクリチュールは、文体こそ完全に異質でありながらも実は近代リアリズム文学の特徴の萌芽である。例えばキリストが用いる様々な「喩え話」の中には、当時のイスラエル社会の生活風景を濃密に感じさせる写実的なものが多い。しかし、聖書においてはこうした「喩え」は同時にもう一つの別の事象(旧約聖書との象徴的な交換性)を意味しており、アウエルバッハによってfigural(比喩形象的)と表現されている。この特徴は何も聖書のみに限らず、古典古代末期から中世キリスト教文学においても見出されるものである。アウエルバッハが『ミメーシス』で企図するのは、主としてこのような時代の異なる様々な文学における「リアリズム」の歴史を系譜付けることである。
 『ミメーシス』が取り上げるのは各時代を代表する作家、詩人たちのリアリズムであるが、一くくりにそう言っても実に多様な種類がある。例えば聖書的リアリズム、ラブレーのグロテスク・リアリズム、シェイクスピアの魔術的リアリズム、スタンダールの政治的リアリズム、トルストイ、ドストエフスキーのロシア・リアリズムなど多種多様である。いわばアウエルバッハはリアリズムの多彩なプリズムを映し出そうとしているわけだが、実はこうした現実描写の中核に位置している概念こそが本書のタイトル「ミメーシス」に他ならない。ミメーシスとは、これほど豊かなリアリズムの表現から見ても判るように、「現実の歪曲」を本質にしているのである。換言すれば、生身の現実としての「それ」とは常に「別の」ものを「リアル」として表象するシステムこそ、アウエルバッハが注目する「ミメーシス」の本質なのだ。こうした隠喩的な構造を備えたミメーシスの概念は、その後ポール・ド・マンによって「アレゴリー」の概念として理論化されることになるだろう。

【ホメロスと旧約聖書における文体的ステータス(1章)】

 アウエルバッハによれば、ヨーロッパ文学に本質的な影響を与えた二つの基本的文体は「ホメロスの文体」と、「旧約聖書の文体」(特にイサク献身の挿話が言及されている)である。双方の差異については以下のように整理することが可能だろう。

「ホメロスの文体」

・地理的にはある限定された特定地域での物語
・主として登場人物はその地域における支配階級の人々(英雄)である
・「崇高性、悲劇性」が介入してくるが、基本的に描かれるのは彼らの「牧歌的な静穏さの範囲を出ない」緊迫感には乏しい単純化された日常である
・彼らの辿る運命は聖書に登場する人物たちよりもスタティックだが、個々のエピソードは互いに並行的にリンクしている
・登場人物には実に様々なメタファーが与えられるが(例えばオデュッセウス、アキレウス)、彼らの各々の生の閲歴は一度固定されればそれ以上劇的な変化を見せず、成長しない
・形而上学的な出来事以外は語られないので、人物たちの細やかな心境変化、あるいは時間経過による心境の変転などは捨象されている。例えば「ペネロペイアは二十年の間にほとんど変化していない」と述べられるとおり、彼らは純粋に機能的な「透明性」に溢れている。
・文体は基本的に「何ものをも包み隠していない」もので、奥行きは存在しない

「旧約聖書の文体」

・世界の原初から終末までの全てが描かれる
・個々の物語はホメロスに較べると明らかに「断片」の寄せ集めであり、構成を欠いているが、それらは横の繋がりが弱いものの、「神」の中心原理から垂直的に配置されている
・「崇高性、悲劇性」は突如として稲妻の如く訪れる(例えばアブラハム、ヨブ)
・登場人物は時間の経過によって成長し、老化する
・描かれる人物たちの運命はホメロスのそれよりもダイナミックである(中世ヨーロッパまでの人々は、聖書の物語を当時の生活の日常現象として受け止めることができ、現代よりもはるかに聖書はリアリティーに富んで受容されていた)
・聖書のテクストでは、その宗教的教義と来臨への約束が分ち難く肉化しており、「神」を中心とした絶対的な原理によって貫かれている。(アウエルバッハはこれを「物語の独裁権」と表現する)
・文体は比喩形象に満ちており、一つの喩えが常に神学的な別の意味を担っている(パウロと続く初代教父たちは、ユダヤ教の聖典である旧約のテクストをキリスト来臨を指し示す比喩形象とみなし、これをローマ帝国に広めていった)


【『トリマルキオの饗宴』と『失われた時を求めて』のリアリズムにおける共通点(2章)】

 古代諷刺文学の白眉であるペトロニウスの『トリマルキオの饗宴』における語り手「わたし」のナラティブの特異性は、アウエルバッハによるとプルーストとの相関が見出される。この喜劇的な特徴を持つ作品で採用されている古代のリアリズムの極限形式は、古代を突き抜けてむしろ近代リアリズムの表現方法に近接している。特に人物の平凡な会話を一切様式化することなく「模写」する点などに(しかもその会話は一世紀の南イタリアの解放奴隷出身の成金たちが集う「トリマルキオ邸」で繰り広げられる)、アウエルバッハは同時代の作品群との顕著な差異を見て取っている。この点をアルエルバッハは『失われた時を求めて』と比較しているが、そこで挙げられているのは「ホテルの支配人エメとかそれと同類の連中のお喋り」である。時代の異なるこれら二つの作品に共通しているのは、感覚的かつリアリスティックに当時の上層志向の高い階級のスノビズムが描写されているという点である。
 ペトロニウスの作品には、「事件の全貌を俯瞰して〈上から〉書く」という特徴が見受けられるが、これは本論で挙げられるタキトゥスの『年代記』にも妥当する(絵画の次元との相関を見出せば、例えばアルトドルファーの《アレクサンドロス大王の戦い》における、上空で戦士たちを俯瞰している神の眼の装飾がこれに相当するだろう)。ペトロニウスは喜劇的な作風を採用してはいるが、当時の一般大衆からは判らないような技巧的な社会的・心理的動機に基づいており、モデル読者としてはエリート層を想定していたと考えられている。
 ペトロニウスが初めから読者を上流階級に限定していたのに対して、新約聖書の大半は直接全ての階層に向けて書かれたものであるとアウエルバッハは解釈している。新約の文体は、旧約に登場した様々な象徴的表現を比喩形象として取り込んでおり、イエス降臨は旧約を読み解くことで証し立てられるような構造になっている。つまり、リアリズムという観点から見た場合、新約聖書の文体は古代のリアリズムの伝統(ペトロニウスやタキトゥスに見られるような)には属していないのだ。


ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈下〉 (ちくま学芸文庫)ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈下〉 (ちくま学芸文庫)
(1994/02)
エーリッヒ アウエルバッハ

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【シェイクスピアにおける「悲劇」と「喜劇」の婚姻(13章)】


 シェイクスピアにおいては、「悲劇」と「喜劇」における様式的な混合が見受けられる。例えば『ヴェニスの商人』では悲劇的な主題が採用されているものの、ラストでは快活さが前景化する構造になっている(シャイロックは悲劇の主人公ではない)。こうした喜劇的要素の混在はモーツァルトのオペラ・ブッファにも往々にして見受けられる特徴の一つである。アウエルバッハによれば、実はシェイクスピアは庶民階級の人間をけして悲劇的主体としては描写しなかった。彼はこの劇作家の様式上の特徴を以下のように分析している。

「悲劇的なもの、崇高なものに対するシェイクスピアの想念は、徹底的に貴族主義的である。このような身分上の制約を別にすれば、人物の描写における様式混合は非常にはっきり現れている。悲劇的なものと喜劇的なもの、崇高なものと低俗なものが、その全体の正確からいってたいてい悲劇である彼の作品の中で、緊密に混ぜ合わされている」(下巻p97)。


 『ロミオとジュリエット』の場合、二人の恋愛の燃え上がりは喜劇的に演出されるが、やがて二人は悲劇的なカップルとしての運命を強めていく。ここでもモーツァルトの『魔笛』に見出されるような、ブッファからセリアへの変換、ないし二つの様式の見事な浸透が見出されるのである。シェイクスピアの偉大さ――それはまさに「崇高」と「卑小」の絶妙極まる混合、あるいは悲劇性と喜劇性の交叉にこそ求められるのだ。その具体的な実践として、シェイクスピアは文体を意図的に変化させている。悲劇的で格調高い箇所もあれば、明らかに陽気でグロテスクな箇所も存在する。こうした様式上の驚くべき一体化は、実は古代ギリシア劇にはけして見出されない斬新な特徴として評価されている。
 では、なぜシェイクスピアは様式的には既に確立された悲劇に「喜劇」の要素を盛り込んだのだろうか? 何が彼にそうさせたのだろうか? アウエルバッハはその理由の最たるものとして、16世紀ヨーロッパにおけるキリスト教の道徳律の衰退を挙げている。それまでの天国観念と恋愛観念の結合(「死んで天国において幸せを掴む」という表現に見られるような彼岸への脱出)によるキリスト教的な悲劇の概念がメインテーマではなくなるのだ。代わりにこの頃から芽生えるのは、「運命」によって人生を左右される悲劇ではなく、社会的個人の「自由」によって引き起こされる個人的な悲劇である。実はこうした個人の意志が誘発する悲劇という形式はソフォクレスの『アンティゴネー』やエウリピデスの『メディア』にも見受けられるが、文学の形式として社会的個人が輪郭化する――そこに「モデルニテ」の萌芽を見出すことも可能だろうが――のは、16世紀を代表するシェイクスピアにおいてである。
 シェイクスピアと古典古代の悲劇は様式的に何が異なるのだろうか? まず本質的な差異としては、後者は国民が共通して抱く神話・歴史に取材しているので、悲劇の主体が喜怒哀楽における「葛藤」の性質のみを浮き彫りにし、ほとんど近代的な「個人性」を主張しないという大きな特徴がある。換言すれば、古代の悲劇では個人のパーソナリティと運命は直接的には結び付いておらず、むしろ外的な「運命」の魔力がはるかに強いのである。しかし、シェイクスピアの登場によってこうした悲劇の伝統に新たな要素が加わる。悲劇はそれまで抑圧していた「喜劇的なもの」を有機的に吸収し、劇的主体は以前よりもはるかに多様性を持った存在へと生まれ変わる。そこには無論、異文化の流入(ヘレニズム文化とユダヤ・キリスト教文化の融合)という当時の社会的背景も関与しているが、初めて悲劇の主体に深み、豊かな喜怒哀楽を導入し得たのはシェイクスピアであった。アウエルバッハはこれを「遠近法的な歴史把握」と表現している。
 シェイクスピアの演劇では、古典古代よりもポリフォニックな空間が実現しており、純粋悲劇に「喜劇的」側面が付加される。より具体的に言えば、シェイクスピアの作品群を総称する「世界オーケストラ」には、基調として「崇高」な悲劇的旋律が奏でられていながらも、オーケストラピットには「茶番」や「荒唐無稽」な要素も共存させられているのだ。考えてみれば、一人の人間は本来「崇高」や「悲愴」の感覚様態のみを持っているわけではない。人間は笑い、踊り、冗談を愉しみ、酔い痴れる存在でもある。つまりこれまでの悲劇の伝統から除外されていた「喜」怒哀「楽」における、「喜」と「楽」の要素をシェイクスピアは本質的な課題として取り込んだわけだ。この点を別の図式から解釈してみよう。「世界オーケストラ」の起源は、その系譜を遡れば中世に流行したキリスト教的演劇にまで辿ることができる。それは聖書を民衆に判り易く伝えるための演劇であるが、ストーリーは(1)原罪、(2)神の犠牲、(3)最後の審判という三つの大きな要素を辿るように構造化されている。シェイクスピアは実はこうした世界のモデルを、一人の人間の「内面のモデル」に置換したのだ。つまり、個人のアイデンティティの確立が演劇の構造に読み取れるわけであり、そこにはキリスト教的演劇を代補した以下の三つの要素――(1)葛藤の始まり、(2)危機、(3)悲劇的解決が見出されるというわけである。
 アウエルバッハはこのように、シェイクスピアを悲劇と喜劇のカップリングとして捉えているが、本論の後半ではより詳細にこの点を解剖している。彼の作品には悲劇/喜劇の単純な二文法では捉え切れないような幾つも要素が存在するというのだ。例えば、「童話性」、「超現実性」、そして「悪魔的な世界への逸脱」である。リアリズムの観点から言えば、シェイクスピアは明らかにファンタジーに近い志向の持ち主であった。それは彼の有名な以下のテクストに顕現している。

“We are such stuff
As dreams are made of, and our little life
Is rounded with a sleep.”
(我々は夢と同じ糸で織られているのだ。
ささやかな一生は眠りによってその輪を閉じる)



 彼は文体の手札を多く持ちつつも、日常的な写実性からは一歩外に踏み越えるような特質をも併せ持っている。こうした特徴はスペインの中世文学、例えばカルデロンにも見られるのだが、そこでは庶民的な喜劇の側面が際立っており、世界秩序を変えるほどの悲劇的な出来事は生起しない。
 いずれにしてもシェイクスピアは、悲劇の主体を貴族階級の人間に、喜劇的存在を庶民階級の人間に限定していたという点で一貫している。これはモーツァルトの『魔笛』において、「夜の女王」が伝統的なオペラ・セリアの様式で作曲され、社会階層としてはアンシャン・レジームを象徴するのに対して、鳥人間の道化役「パパゲーノ」はオペラ・ブッファの手法で滑稽に描き出され、喜怒哀楽も豊かでありつつ、社会階層としては来るべき市民階級を象徴している点とも相関しているだろう。シェイクスピアの演劇で起きている融合は、実はモーツァルトのオペラにおいても妥当するのだ。例えばゲーテの『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』とシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を比較した場合、前者には市民階級特有の精神が見出されるが、後者では市民階級はあくまでも喜劇的存在として位置付けられていた点を明瞭に確認することができる。「一市民の娘の処女性をめぐって生じる悲劇的な葛藤などというものは、エリザベス時代の文学においては一個のナンセンスに過ぎない」(p123)。
 プラトンの『饗宴』における「真の悲劇詩人は同時に喜劇詩人でもある」という箴言にもあるように、シェイクスピアはこれを史上初めて完全に実現した存在であった。つまり、プラトンの長年の夢想は、16世紀のイギリスにおいて叶えられたのである。


【二十世紀文学――ウルフ、ジョイス――における新しいリアリズムの創造(20章)】

 アウエルバッハは『ミメーシス』の最終章でヴァージニア・ウルフを取り上げているが、彼はこのイギリス人女流作家を極めて高く評価している。ウルフの名作『灯台へ』は、一般的に「意識の流れ」を採用したナラティブで知られている。しかし、注意深く読むと実は人物のいない所で「水の流れる」描写が存在したり、「部屋の窓際」についての描写が所々に散見される。このような方法論的な逸脱について、我々はどのように解釈すれば良いのだろうか? 素朴に考えると、登場人物のいない空間での「物」矢「自然」についての描写は、「作者」の視点によって書かれたものであると解釈することができるだろう。しかし、ウルフ自身は実はそのように捉えていなかった。彼女によれば、これらの視座は"certain airs, detached from the body of the wind"(風の本隊と分かれてきた空気の流れ」と表現される。意識ではなく、「空気の流れ」だというわけだ。ここから敷衍して、アウエルバッハはウルフによる先の方法論的逸脱を「霊的存在」による視覚であると規定する。つまり、それは登場人物でも作者自身ですらなく、何か亡霊的な存在によって誰もいないところで眺められたものが文章として「介入」しているというのだ。このように考えると、『灯台へ』という作品の見方が『ねじの回転』のように奇妙な捻れを持ち始めることに気付くだろう。
 アウエルバッハは本作に流れる「時間」の特徴を分析している。「意識の流れ」は具体的にどのように時間を描き出せるのだろうか? まず、以下の場面を思い出してみよう。ラムジー夫人は顔を上げて家具を何気なく見やる。次に彼女は夫のために編んでいる靴下を彼の足に当ててみる。この間の外的時間は比較的短いものである。しかし、ウルフはこの短い行為の間に、ラムジー夫人に驚くほど濃密で豊かな「内的時間」を与えている。つまり、彼女は何気ない動作の間にも様々な意識を巡らせており、ウルフはそれを描写しているのだ。ウルフにおいては、むしろ外的な出来事は内面心理を細やかに描写するためのひとつのきっかけとして機能していると考えられる。従来までの文学では、外的な出来事の「解釈」として、内的な時間が描かれてきたという伝統がある。ウルフのように内面心理のために外的なさり気ない出来事が選択されるということはこれまでになかったのだ。「しかし、靴下の寸法測りというような細々した些細な出来事を通して、何という現実の深みが究められていることであろうか!」(p473)。
 ウルフにおけるこのような時間の転移は、ホメロス的なエクリチュールに流れる出来事と出来事の接続よりも「滑らか」だが、その分、劇的な緊張感はなく、あくまでも平穏な日常性を描く上で効果的な方法であると言える。アウエルバッハによれば、ウルフは「時間の深みへと扉を開いている」。

ここで注目すべきことは、ささやかな外的事象を契機にして、想念また想念の連鎖が惹起され、外的事象の現在の時点を越えて、これらが時間の深みへと際限なく広がってゆく、ということである。それはあたかも、一見単純な作品に注解が付けられることにより、あるいは音楽の単純な主題に展開部が付随することにより、本来の内容が顕現するのに似ている。このことからまた、時間と先ほど検討した多人称的意識描写との、密接な関係が理解できる。意識内に生ずる想念は、それらが喚起されるきっかけとなった現在の時点の外的な出来事に束縛されてはいない。(下巻p457)


 ウルフの文体にもしも「哲学」が存在するとすれば、それはアウエルバッハの考察にあるように、「意識は客観的な現在の事象には拘束されていない」点を限りなく先鋭化させた点にこそある。むしろ、この定理に彼女の代表作は貫かれているといっても過言ではない。
 「意識の流れ」の方法を極めた作家としてまず我々に思い浮かぶのは、無論プルーストである。そもそも、アウエルバッハによれば彼の『失われた時を求めて』は一人称の主観主義小説ではない。つまり、生身の現実に対する厳密な意味での一人称的な接近がそこでは生起していないというのだ。何故か? それは、プルーストが「無意志的記憶」によって書いているからである。アウエルバッハはこれを「時間的遠近法」とも表現しているが、この「想起」の作用が現在の出来事を「異化」しているのだ。この点をウルフとの比較で判り易く整理しておこう。ウルフの「意識の流れ」では、時間の外的な流れとは無関係に意識の流れが描かれる。それぞれの内面描写はプルーストのように「過去」という参照点を常に持っているわけではなく、あくまでも意識のブロックが間歇的に生起して進行するというものだ。しかし、プルーストの「意識の流れ」の場合、現実のある出来事は、それによって「想起」させられた過去のある出来事との関係性を媒介にして綴られている。つまり、現在は過去という地層の持つ厚みを伴って秩序付けられているわけであり、これによってプルーストのエクリチュールは単なる現在中心主義的な主観性を越えた、「過去」という新たな角度を与えられるのだ。プルーストが「映画の時間意識」に対して批判的であった理由も、この点を軸にすれば理解し易いだろう。実際、アウエルバッハも映画における空間・時間の演出をそのまま文学に取り込もうとする安易な作家に対して批判的である。「映像」と「文字」ではまず構造的な差異が横たわっているので、映画における美的原理をそのまま文学に応用しても、読者はそれを文字通り「映画のように」受け取るわけでは毛頭ない。むしろ、文学は映画にはできないエクリチュールの可能性を探らねばならないのだ。
 伝統的な文学の形式では、「大きな外的な出来事の年代順の記述」という原理が働いていた。そして、ラストでは大団円を迎えて完結するというのが作品の統一性を意味してもいた。しかし、これがヨーロッパ文学で採用されていたのは、トーマス・マンの二十代の傑作『ブッデングブローク家の人々』が最後であるとアウエルバッハは位置付けている。換言すれば、ある人物の人生一代記、ないしある家族の壮大な歴史を順番に単線的に物語っていくタイプの「大きな物語」は終焉を迎えたのだ。その決定的なメルクマールこそが、アイルランドが生んだジョイスの『ユリシーズ』である。
 『ユリシーズ』はそれまでの文学史にいかなる衝撃を与えたのだろうか? このホメロスの『オデュッセイア』の異名を冠せられた小説は、実は一人の家庭教師とジャーナリストの些細な「日常的断片」の記述に過ぎない。しかし、そこにはこれまでのヨーロッパ文学の様々なエッセンスが織り込まれ、これまでに存在し得たほぼ全ての「文体」が便覧的に結集している。この作品は本質的に映画化不可能である。『ブッデングブローク家の人々』のような「人生」を描いた壮大な文学とは異なり、ジョイス以降の文学では「たった一日」を特異な文体によって捉え、新たなリアリティを再構成する構造を持つものが増加していく。いわば文学におけるリアリティの演出方法は、ジェリコー的な「四肢切断」を来したわけだ(「人生」という全体を描く文学から、「一日」という断片へ)。この変容は実は16世紀以降、遠近法の発明によって発展してきた人間の「視の制度」の拡張が、第一次世界大戦以降から解体され始めたことと相関してもいる。
 二十世紀において、ウルフやジョイスのような作家が現れて新たなリアリズムを開拓したことを、アウエルバッハは当時の時代背景を視野に入れつつ、そこにはやはり「戦争」による不安の影があることを指摘する。『ユリシーズ』のあまりにマニエリスティックな文体には、「自らが描き出す現実に対する敵意のようなもの」が感じられるといい、ウルフの作品にも彼は「実体のない悲しみと生への疑惑」が常に漂っていると考えている。つまり、二十世紀という二つの大戦によって大陸も精神もばらばらに切断されてしまったこの特異な時代こそが、このような現実描写の方法論を開拓するための土壌を与えたというわけである。








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