† ポール・ド・マン †

ポール・ド・マンのフォトグラフィー、あるいは「盗まれた廃墟――アウエルバッハ,ド・マン,パリッシュ――」読解(巽孝之/『思想』「ポール・ド・マン――没後30年を迎えて」)

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ポール・ド・マン――没後30年を迎えて

『思想』(13年7月号)の言葉
ショシャナ・フェルマン
(3)
  ▼
《座談会》ポール・ド・マン再考
(6)
土田知則・巽 孝之・宮﨑裕助
ポール・ド・マン再読
富山太佳夫
(43)
盗まれた廃墟
  ――アウエルバッハ,ド・マン,パリッシュ――
巽 孝之
(57)
傷と声
  ――ポール・ド・マンにとって言語とは何だったのか?――
下河辺美知子
(75)
いつしか見知らぬ風景のなかに
水村美苗
(95)
  ▼
弁解機械作動中
  ――ルソーの「盗まれたリボン」をめぐるポール・ド・マンとジャック・デリダ――
宮﨑裕助
(101)
スフィンクスの解読
  ――ポール・ド・マンにおける読むことと歴史――
森田 團
(128)
熊の教え
  ――ポール・ド・マンのクライスト読解をめぐって――
竹峰義和
(150)
小説とは何か
  ――カントの「おそるべき尊敬」,ド・マンの「石のような凝視」――
吉国浩哉
(168)
ロラン・バルトと構造主義の限界
ポール・ド・マン
(189)
微笑みのド・マン
今泉容子
(205)
  ▼
ポール・ド・マンと「物質性」に関する二つの解釈系列
土田知則
(210)
読解不可能性
ヴェルナー・ハーマッハー
(225)
「措定(Setzung)」と「翻訳(Übersetzung)」
ロドルフ・ガシェ
(247)
ド・マンは何かを隠したのか
柄谷行人
(293)
  ▼
〈資料〉第二次世界大戦時代の著作三篇
ポール・ド・マン
(298)
ポール・ド・マンへのインタヴュー
ロバート・モイニハン
(309)



 現在、ポール・ド・マン・ルネサンスによって「修辞学」が新たに復権しつつある。このページは、ド・マンについて語った必読論稿の一つに入っている巽孝之氏の「盗まれた廃墟――アウエルバッハ,ド・マン,パリッシュ――」を読解して私自身が考察したことを展開する。

 Paul de Man with his second wife, Patricia, and their son, in Paris, in 1955
Paul de Man with his second wife, Patricia, and their son, in Paris, in 1955

 「盗む」とは何なのか? 窃盗犯は盗んだ商品をオークションで転売したりするが、その時、犯人は「盗んだ」という事実を隠蔽する。換言すれば、「それ」を「別の何か」に意味賦与するわけだ。実はド・マンも己の過去の「罪」を「隠す」という隠喩的なドラマツルギーそのものを生きた人であった。つまり、彼とナチスとの関係である。彼は新天地アメリカへ渡る上でこれまでの人生を一度清算しようと考えていた。そこには高度な「隠喩」が働いている。より本質的に言えば、彼を読むことは我々一人一人の人生が実は「隠喩」的に構成されていることを学ぶことでもあるのだ。本論稿のタイトルである「盗まれた廃墟」の持つ意味は、あるものを「別のもの」に置き換えている(隠喩の構造)が、一体ド・マンは誰の、いかなる廃墟を、盗んだのだろうか? そして、なぜ「盗まれた」という喩えがあえて選択されているのだろうか? 我々は巽氏のド・マン論を読み解くことでその「隠喩」の意味を理解しなければならない。
 第二次世界大戦によって文学理論上にも「廃墟」が生まれた。巽氏によれば、アウエルバッハの『ミメーシス』とアドルノの『美学理論』には、ポスト・ロマン主義的な廃墟の構成物としての「断片」的特徴が見出されるという。例えば前者の『ヨーロッパ演劇の諸相』収録の論稿「フィグーラ」(1959)には、シネクドキ、メトニミー、アントノメイジア、メタファーなどの多様なトロープ(文彩)が提示されている。そこでアウエルバッハは、「…(クインティリアヌスの時代に)他の何をおいても比喩形象の名に値すると目されたのは、多様なる形式を展開するヒドゥン・アリュージョン(隠された引喩)であった」(p65)と述べ、「隠喩」が修辞学の黎明期から特権視されていた点に言及している。
 ド・マンにはアウエルバッハを経由して、クインティリアヌス以来の伝統的な修辞学上の方法論をバラバラに分解したある種のフラグメントとして提示する傾向が見出される。いわば、彼はアウエルバッハの「廃墟」から再出発したわけだ。アウエルバッハとド・マンに共通するこうした多様なトロープを駆使して論述を進めるスタイル(ド・マンの場合、それは往々にしてレトリカル・リーディング〔比喩論的読解〕と呼称される)を、近年新たに脚光を集めているド・マン論「リナンシエイション(拒絶)」の著者である水村美苗氏は「奇々怪々なる修辞学用語が跳梁跋扈する荒野」と表現している。一方、初期ド・マンの特徴を彼女は「懐かしい顔触れが暮らす文学の故郷」と表現している。実際、ド・マンは「メタファーの認識論」の中で、ロックの「抽象概念」を「あたかも雑草、あるいは癌細胞」と比喩形象化してもいた。  

Paul de Man with his children Patsy and Michael, in 1964
Paul de Man with his children Patsy and Michael, in 1964

 巽氏の論稿から見えてくるもの――それは、概念は実は「文彩」に交換可能であるという図式である。ここで再びド・マン自身の人生に戻ろう。巽氏は以下のように二つの大戦によって荒廃した時代を「生き延びる」ことの本質について鮮烈に述べている。「うそをつきつづけることで生き延びることを学び、それによって自伝すらも虚構であり、虚構こそ自伝に他ならないこと」(p61)――これこそ、ド・マンが「他者の本」を読み解くことで、逆説的に自分がいかに「生き延びて」きたかを隠喩的に我々に告知した論稿「摩損としての自伝」(1978)の持つ意味である。自分の履歴を偽って生きざるを得ないこと、スパイ的な生、隠喩としての軌跡については、ヴォネガットの『母なる夜』(1961)、『スローターハウス5』(1969)でも主題化されており、巽氏はド・マンの人生との共通点を示唆している。

 Paul de Man with Renée and Theodore Weiss, Bard College, in 1949
Paul de Man with Renée and Theodore Weiss, Bard College, in 1949

 巽氏の論稿は、私が何故これほどド・マンに惹かれ、時間を忘れて読んできたのかの実相に触れている気がしてならない。巽氏の以下の言及は、ド・マンにとってレトリカル・リーディングが単なる文学理論上の実践だけでなく、己の人生を再構成するためにも不可欠であったこと(すなわち生き延びる戦略としての「隠喩」的思考)を如実に物語っている。

 肝心なのは戦勝国出身か敗戦国出身かという問題ではない。どの国に属するかという問題に関わりなく、戦争こそが、自らの人生そのものを暗号化せねばならぬ主体を生むと共に、文学テクストの歴史をあたかもひとりの人間の暗号化された生涯であるかの如く解読しようとする主体をも生むのだ。その意味で、ポール・ド・マンが戦後ベルギーからアメリカへ渡る過程でナチ加担問題、ユダヤ人差別問題以上に自らの経営する出版社の詐欺問題まで抱えていたがために、そうした過去を一切清算しつつ、新世界で自己の主体そのものをゼロから造り直そうと試みた足取りは、自己の新たな人生がたとえ伏せ字だらけの暗号めいたものになっても生き延びようとする意志と、文学テクスト内部に隠喩に先立つ言語のドラマをあたかも暗号のように解読していこうとする意志の双方に貫かれている。(p61)


 巽氏の上記のテクストに、彼が論稿中で引用している以下のテクストを照らし合わせてみよう。これは、イェイツやワーズワスの研究で知られる英文学教授スティーヴン・パリッシュの言及である。

 とりわけ、抽象概念を理解し評価するためには、書き手が繰り出す様々な隠喩を検証することが不可欠だ。というのも、隠喩こそは自己と他者の思考のあいだに横たわる差異の上に架かる橋だからである。テクストを読み返す時、読者はまず隠喩に行き当たり、その背後にひそむ抽象概念をあれこれ推測する。ここで改めて類比されるのは、クリプトグラフィー(暗号学)だ。まずは暗号化されたテクストを前にして、その背後に潜むメッセージを炙り出すこと、これである。(p58)



A Portrait of the Critic as a Young De Man
A Portrait of the Critic as a Young De Man

 ド・マン自身の人生における「隠喩」という永遠のテーマは、その他多くの知の巨人たちにも妥当するだろう。例えば、祖父は農夫、父は平凡な新聞配達夫という田舎の村で生まれ育ったピエール・ブルデューの科学的自伝である『自己分析』と主著『国家貴族』を比較した時、我々は彼がリセで味わった呪わしいまでの「劣等感と羞恥」が、膨大な統計データを綿密に駆使して導出される厳格な社会的規則(代表的なものとして、文化資本が総体的に高い者ほど学歴資本が高く、次世代にも同質の水準を再生産するというハビトゥスの原理)として、いわば概念化しているのを目撃する。ここで起きているのは、概念の比喩形象化ではなく、比喩形象あるいは感性的で詩的な出来事を「概念」へと止揚する強靭なまでの欲望である。我々は今や、ブルデューのテクストをレトリカル・リーディングの格好の素材として読むことが可能だろう。彼らは純粋に抽象的でいかなる個別具体的なケースとも関係しない知的なことを述べている時でさえ、実は自己の生々しい人生を隠喩化して表現しているのである。換言すれば、文学とは実は未だ理論形式化されていない哲学なのであり、あらゆる哲学もまた小説化されていない文学である。ド・マンは、「言語」に関与する限り、全ての人間は常に既に「ルソーである」ことを明かしているのだ。




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