† 展覧会 †

オフィーリアの変容、あるいはリアリズムの多様性――「驚くべきリアル」展/スペイン、ラテンアメリカの現代アート‐MUSACコレクション‐(東京都現代美術館)の記録


【今回の出展で特に印象的だった作品について】


 共通して感じたのは、アウエルバッハが『ミメーシス』で提示してみせた、多種多様な「リアリズム」の方法論である。これらのアーティストは共に現実をそれぞれの個性的なスタイルで「異化」している。今回の展覧会では総体的に全てを包括するコンセプトとして「リアル」――つまり、リアリズムの表現が提示されている。概念として最もこの企画に相応しいと感じさせたのは、カルメラ・ガルシアの連作《オフィーリア》の一枚だろう。ラファエル前派のミレイと比較することで、19世紀と、21世紀のそれぞれの「オフィーリア」がいかに決定的な変容を来してきたのかが判然となる。


 サンドラ・ガマーラ《ガイドツアー(リマ現代美術館LiMacカタログ)》

 本展覧会の中で最も惹かれたアーティストの一人。油彩画の味わいを感じさせる。架空の美術館のカタログという設定で、ガラスボックスの中にそれぞれ六枚ずつ「ページ」を提示している。それらは基本的に油彩画として構成され、レシートや黒いゴミ袋から地図、建物まで様々だ。六枚であることは、それらがディスプレイとして一つの作品として読まれることをも意味しているだろう。いずれにしても、架空の美術館のカタログというのは、いわば一種のボルヘス的な「架空の書物」に他ならず、その幻想性を「リアリズム」として提示するコンセプチュアルな企図に深く共感した。
 ガマーラの《ムラカミ》は、村上隆の作品へのオマージュというより、彼の作品を改めて「絵画」に置き換えたものである。それは遠く離れて見れば写真のようだが、近付くと筆遣いが明瞭に読み取れる。こうした絵画的なリアリズムの表現はゲルハルト・リヒターのフォトペインティングやアントニオ・ロペス・ガルシアの一連の室内の構成物――例えば洗面台や冷蔵庫――にも見られるが、ガマーラにもその系譜に連なる戦略が読み取れる。

※こちらのサイトのページ――sandra gamarra: at the same time (al mismo tiempo)――で彼女の他の作品が参照できる。この作品《新たな礼拝者と使徒たち》(The New Worshipper and The Apostles/2011)では、美術館への来館行為が中世キリスト教社会における「教会」への参拝行為に重ねられている。ガマーラは館内に訪れようとする人々の姿を描いているが、今回の展覧会の出展作品とも共通しているのは、「他者の作品を自作の内部に有機的に吸収する」という、その絵画的な「引用」の形式であろう。村上隆の作品をそっくり描き「写した」絵画にあるように、これらの連作でも館内のフィールドに展示されている様々な抽象的モニュメントが、そのまま写真的に描き込まれている。それはリアリティを絵画に置き換える点で、やはり概念としての「ミメーシス」を主題化していると言えるのではないだろうか。

 エンリケ・マルティ《家族》


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 ガマーラと並んで、本展覧会で最も惹かれたアーティストである。この作品では伝統的なキリスト教的な「聖家族」のイメージが不気味さによって激しく歪曲されている。悪魔に憑かれたかのような少女と、彼女の家族たちの不穏な笑顔が鮮烈な印象を残すそれらの作品はどれも油彩画の「パネル」として構成されており、方法論の点ではサンドラ・ガマーラに通底するものがある。どこにでも見られる平凡な室内だが、描かれている人物はどこか異常な行為を取っており、観る者に不穏な印象を残すだろう。ただ、この作品を単に、ヴィンフリート・メニングハウスが規定する「不気味さ」という美学上の概念から把捉することは一面的な解釈にしかならないだろう。むしろ本作で重要なのは、その表現形式が伝統的な「絵画」の手法を採用している点ではないだろうか。つまり、画家はこれらを「絵のパネル」として構成しているのであり、けして「写真」として表現していないのだ。もしも写真にした場合、我々はそこに何かしら映画的な作為性を感じ取って興醒めしてしまったかもしれない。絵画であるからこそ、つまり「絵画による断片的ディスプレイ」というスタイルであるからこそ、この不気味さにもどこかフランシス・ゴヤにも通底する伝統への回帰が感じられてくるのではないだろうか。怪奇的で悪魔的な日常のカリカチュアでありつつも、絵筆による表現欲求をけして喪失していない芸術家の野心を感じさせる大作である。
 本展覧会にはマルティの《訪問者たち》という奇怪な人形も展示されている。遊園地内のある種の「見世物小屋」に展示するために制作されたというが、人物をグロテスクなまでに誇張的に戯画化する方法が印象的である。とはいえ、私は人形作品より、彼の「油彩画」の方に惹かれるのだが。


 カルロス・ガライコア《地はなぜこんなにも自らを天に似せようとするのか(Ⅱ)》

 非常に高い上空から撮影したような都市の俯瞰図、あるいは天使が天国に帰る前に「想い出の写真」として撮影した人間界の夜景と言えるだろうか。それとも、この光の航空図そのものが実は天国の俯瞰図なのだろうか。本作はそのようなロマンティックなイマジネーションを掻き立てる「夜の地図」である。

 カルメラ・ガルシア《無題「楽園」シリーズより》

 この作品も、本展覧会の中で特異なauraを放っていた。海――前方には二人の女性がいて、一人は小岩の上で水面を眺めている。遠景には小さな岩盤状の小島があり、青い服の女性が水平線の彼方を眺め、右側にいる軽装の女性が座りながら別の方角を眺めている。特に惹かれるのは、この小島の存在だ。映っている女性たちは皆、それぞれが「内奥の秘密の島」を抱えているのかもしれない。個人的な記憶になるが、私は大阪で暮らしていた頃、淀川河川公園の一角でこの小島に似た光景を目にしたことがある。そこは一種の「秘密基地」であり、子供たちが率先して渡ろうとする聖域、釣り人たちにとっての憩いの場だ。それを「楽園」としてノスタルジックに提示するガルシアは、明らかに「島のイメージ」を神話的に扱っている。
 ガルシアの《無題「オフィーリア」シリーズより》は、ラファエル前派のミレイの同名作品と比較すると、その表現形式の歴然たる差異に圧倒されるだろう。ミレイもやはりリアリスティックにオフィーリアを表現しているが、ガルシアのそれは水中で奇怪に泳いでいる一人の俯せの女性の写真である。そこには、「オフィーリア」というタイトルが喚起させる上での最少限度のミニマル・イメージしか存在していない(例えば水中に沈んでいる一人の女、というミレイとの共通点)。真実のオフィーリアは、むしろこれに近いとでもいうのだろうか。タイトルの伝統性に対して、表象されたものはその上を滑空している。

※こちらのサイトのページ――Carmela GARCÍA――で、《オフィーリア》連作を参照できる。ガルシアにとってオフィーリアとは、おそらくどこにでもいる若く美しい女性への「比喩」であって、あくまでもリアリティに貼付される形象としての価値を帯びているように思われる。つまり、オフィーリアという使い古された絵画上のテマティックは、あくまでも写真を形容するための記号に過ぎない。


 ハビエル・テジェス《保安官オイディプス》

 リアリズムとは何なのか? それを考察する上で参考になるための映像装置の一つだろう。何故なら、この作品はオイディプスの神話を「西部劇」にパロディ化しているだけでなく、人物全員に日本の「能」の仮面を被らせ、キャスティングを全員精神病院の患者から得ているからである。我々が通常イメージする「オイディプス神話」が、いかにステレオタイプ化され、ギリシア的なイメージを「正統性」として無意識に規定してきたのかということを本作は浮き彫りにしている。テジェスのオイディプスはいわば、マイノリティなオイディプスであり、辺境性、余白性、周縁性といった概念によって再構成されたものだ。

 ホルヘ・ピネダ《無邪気な子供》

 この作品を理解するためには、作品の時代背景を把捉する必要があるだろう。しかし、本展覧会の「リアリズム」というコンセプチュアルな戦略から解釈を試みれば、もっと自由な何かが得られるのではないだろうか。少女は壁の中に隠れている。それは何かに対する恐怖、不安から身を隠すためなのか、あるいは「隠れる」という所作を採用することによって逆に我々を「不安」にさせるという遊戯的な精神のためなのか、それは明確には判らない。しかし、子供、あるいは「神」(遊びの全能なる主体としての)は我々の眼から隠れている。隠れながらも、足下だけはしっかり現前している。






【常設展示室で印象的だった作品】


 映画「他人の顔」と三木富雄

 表象文化論や美学の研究者から言及されることの多い安部公房が脚本を自ら制作した映画『他人の顔』の資料が展示されていた。今回知ったのは、美術担当が三木の他、建築家の磯崎新も加わっていたという点である。三木がデザインした、「医師の診療室」の空間配置には、レオナルドの名高い《ウィトルウィウス的人間》が二枚、隣り合って映し出されている。内臓的/器官的でありながらも、室内は高度に幾何学的/数学的な近代合理主義的な精神で満たされており、冷たさの中にも洗練された美を感じさせる。

 マルレネ・デュマス《ツイステッド》

 ショップに彼女の画集が二つも目立つように並べられていたのが印象的だった。フランシス・ベーコン、ジェニー・サヴィルと同じく、「肉のイリュージョニズム」を感じさせる裸体描写が鮮烈である。デュマスは初期のベーコンと同じく、やはり「キリストの磔刑」を主題にした油彩画を制作している。しかし、デュマスの身体はサヴィルのようにグロテスクなほどの圧迫感を感じさせない。一度観ると忘れられないインパクトを放っているが、官能性はどこか抑えられている。


(2014/5/5鑑賞)




 
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