† 貴族文化 †

19世紀フランス社会における「クルティザーヌ(高級娼婦)」の世界――基礎文献リスト


パリ、娼婦の街  シャン=ゼリゼ (角川ソフィア文庫)パリ、娼婦の街 シャン=ゼリゼ (角川ソフィア文庫)
(2013/10/25)
鹿島 茂

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パリ、娼婦の館  メゾン・クローズ (角川ソフィア文庫)パリ、娼婦の館 メゾン・クローズ (角川ソフィア文庫)
(2013/10/25)
鹿島 茂

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 ジュール・ミシュレは『女』第二部第十一章で以下のように語っている。

男は不完全である。彼は、男を作り男の歓びを作る女を、讃美し尊敬しなくてはならない。女は各時代を通して、芸術や文明と呼ばれる焔の噴出を、常に変わらぬ欲望の刺激によって男から引き出した。彼女は夜毎彼を新しい人間へと作り替える。


 19世紀のフランス社会では、基本的に結婚した女性には非常に強い「貞潔」が求められていた。トニー・タナーが『姦通の文学』で述べているように、「不貞の妻というのは、社会的に言って自己抹消的な存在、つまり、社会的にかつカテゴリー上は姦通を犯す女などは存在しないと言うことができるように、社会が容認したがらない存在なのだと考えられよう」。フランスのadultérer(姦通する)という言葉には“偽造する”という意味が含まれているように、一度でも婦人は浮気をして別の男性に抱かれてしまうと、後はその「秘密」を隠し通すために様々な苦労を強いられたのである。その一方で、この時代には逆に男たちの欲望の捌け口を仕事にして生きている女性たちも存在した――そう、courtisane(クルティザーヌ)である。
 19世紀フランスでは、高級娼婦のことをファム・ギャラント、あるいはクルティザーヌと表現する。第二帝政期には特に、demi-mondaine(ドゥミ・モンデーヌ)、あるいはlionne(リヨンヌ)と呼称された。主としてクルティザーヌたちはラクロシャージュ(通りすがりの男)には声をかけず、一戸建ての邸宅で上流階級の男性客から金銭を得ていた。この時代の名高い高級娼婦として、ラ・パイーヴァ、アンナ・デ・リオンなどが贅沢に耽った。第三共和政期では、プルーストの『失われた時を求めて』に登場するココット(高級娼婦)、オデット・ド・クレシーのモデルの一人とされるリアーヌ・ド・プージィ、あるいはエミリアンヌ・ダランソンなどが名を馳せた。因みに、デュマ・フィスの『椿姫』のヒロインのモデルは、これまた実在したマリー・デュプレシス(本名ローズ=アルフォンシーヌ・プレシー)に他ならない。


よみがえる椿姫よみがえる椿姫
(1995/09)
ミシュリーヌ ブーデ

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デュマ・フィスの『椿姫』については、ミシュリーヌ・ブーデによる研究書『よみがえる椿姫』が参考になる。

 当時の高級娼婦の相場は幾らくらいだったのだろうか? 低い順番にランク付けすれば、最低ランクの娼婦は2フランで体を売っていた(19世紀の1フランは現在の日本に換算すると約1000円)。二流娼婦は10フラン、パリの高級店になると、1回30分で20フランだった。因みに、「シャバネ」、「ワン・トゥー・トゥー」、「スファンクス」などの高級遊郭になると、見学料だけで35~50フランした。
 ゾラの『ナナ』では、ナナはミュファ伯爵から月12000フランと、ヴァンドーヴル伯爵から更に10000フラン受け取る豪奢な生活を送っていたが、快楽的な浪費家の彼女はそれを湯水のように使い果たし、常に「足りない」状態であった。ナナは、19世紀の娼婦という形を借りた、資本主義社会における飽くなき「消費主義」のシンボルであるが、実は彼女にも実在のモデル(ナナの設定におけるインスピレーションの源泉と言われる)が存在している。それは無論、ナポレオン三世の最後の愛人の一人として一世の風靡したヴァルテス・ド・ラ・ビーニュである。


わたしの修業時代 (ちくま文庫)わたしの修業時代 (ちくま文庫)
(2006/03)
シドニー=ガブリエル コレット

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19世紀のクルティザーヌの貴重な証言記録としては、シドニー=ガブリエル・コレットによる上記の書が参考になる。


 庶民階級に生まれた容姿端麗だが貧しい女性が娼婦として名を上げるのは並大抵のことではなかった。パリの公認売春宿である「メゾン・クローズ(閉じられた家)」は、主として1830年から48年までの七月王政の初期に興隆したが、地方のメゾン・クローズは若者の集うクラブやスナックのような趣であった。どんな娼婦もヒモ(金銭を貢がせている情夫)を抱えていたが、19世紀では彼らsouteneur(ストゥヌール:下から支える人)は、barbeau(鯉)などの魚の名が俗語として用いられていた。第二帝政期に入ると、オスマンのパリ改造計画によって娼家そのものが激減する。とはいえ、19世紀のパリの「娼婦」の働き方には、少なくとも以下のような種類が存在したという。

・ブラスリ

ウエイトレスが接客する振りをしながらサービスを提供するもの

・メゾン・ド・ランデヴー

パートタイム制の素人専門の売春所

・街娼




娼婦 〈新版〉 (上)娼婦 〈新版〉 (上)
(2010/11/17)
アラン・コルバン

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娼婦 〈新版〉 (下)娼婦 〈新版〉 (下)
(2010/11/17)
アラン・コルバン

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十九世紀パリの売春 (りぶらりあ選書)十九世紀パリの売春 (りぶらりあ選書)
(1992/04)
アレクサンドル パラン・デュシャトレ

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アラン・コルバンの『娼婦』と、アレクサンドル パラン・デュシャトレの『十九世紀パリの売春』はこの分野における基礎文献である。

 アラン・コルバンは『娼婦』の中で以下のように述べている。

何軒かの娼家では変装を計画的に行っていた。男たちの幻想に応えるため抱え娼婦らは花嫁衣裳を纏ったり、修道女や、あるいは総裁政府時代の“メルヴェイユーズ(奇を衒った洒落女)”に身をやつしたりした。服装は室内の服飾と調和させてあることが多かった。(p139)


 この時代の娼婦たちはどのような格好をしていたのだろうか? それを知るためには、フランスにおける「コルセットの歴史」について理解する必要がある。基本的に、コルセットが女性たちの身体を支配したのは1810年から1910年までの百年間と言われている。つまり、ディレクトワール様式(ハイウェストのゆったりしたギリシャ風ドレス)が衰退し始めたナポレオン帝政末期の1810年から始まり、その後、王政復古、第二帝政、第三共和制と時代が進むにしたがって胴体の締め付けは厳しくなっていった。女性たちがコルセットから解放されたのはポール・ポワレが1910年前後にディレクトワール・スタイルのドレスをリヴァイヴァルさせてからであり、実質的には比較的最近まで「コルセット」は長く身体を規格化していたのである。
 その一方で、19世紀はミニスカートから覗く太腿だけでなく、スカートの下方からわずかに覗く「靴」がフェティッシュの対象だった。基本的に女性は胸がはだける形のドレスを身に纏わねばならなかったので、男性たちの欲望の眼差しは自ずと下半身の露出部に向かったのである。これに乗じて、娼婦たちもコルセットで縛り付けられながらも、露出度の多い刺激的なコスチュームを身に纏うようになる。同時期にランジェリーメーカーや下着店はフランス中に拡大していった。
 上流、下流を問わず男性たちはそれぞれの階層で手が出せる範囲で娼婦たちに夢中になった。この時代の男女の欲望の激しさについて、最もエロティックに表現した文章の一つはフロベールの『ボヴァリー夫人』(1856)に存在する。作家はその中で、エンマとレオンのセックスを描写するに際して、馬車が目的も方向性もなく進み、二匹の馬が汗だくになりながら迷走するという強烈な描写でrepresent(表象=代理)している。サルトルはこの箇所を『家の馬鹿息子』の中で注釈しており、「二人が性行為において費やすエネルギーは、二頭のやくざ馬が愚かしい作業を行うために用いるエネルギーの量に等しい」とすら述べている。いわば、獣のように互いを貪り合うセックスが、二匹の馬が狂ったように走り回る描写に「転移」しているのだ。ある出来事を、「他の何か」で表現すること――これこそ、「隠喩」はもとより、ド・マンが規定する言語それ自体の本質的な特徴に他ならない。





 

  





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