† 文学 †

国際的な再評価が進むキエフ生まれの前衛作家シギズムント・クルジジャノフスキィ『神童のための童話集』の世界


神童のための童話集神童のための童話集
(2013/05/24)
シギズムント・クルジジャノフスキィ

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 シギズムント・クルジジャノフスキィの代表的な短編集『神童のための童話集』は、今や我が国を代表する前衛作家としての地歩を占め、国際的な評価も進んでいる円城塔氏が推薦文を書いている注目の作品である。また、訳者の東海晃久氏の他の翻訳業も、概ね世界的に再評価が進む前衛作家の作品群に向けられており、最近目覚ましい活動をしている多くの作家たちが推薦文を贈っていることでも知られている。
 本書は哲学的な観念小説、あるいは「概念小説」といった様相だが、その多くはむしろ道化的な自動書記に近接した「表層」に滞留する特異な文体である。この短編集を読んでいて、私はむしろバンジャミン・ペレのエクリチュールを想起した。彼もまた「表層の遊戯」に滞留し続けた作家であった。とはいえ、各作品の随所には眼の醒めるような印象的な散文も見受けられる。以下のセンテンスなど、ボルヘスがどこかの掌編の冒頭に引用していたとしても不思議ではないだろう。これは、世界から全ての物たちが消滅した後の描写である。

老賢人、物たちのきれいさっぱりいなくなった空間、純粋な(すっかり出来事のなくなった)時間、さらに古くて、羊皮紙と型押しの付いた革で装丁された書物が数冊だった。(p81、訳文もゴシック体表記)


「ヤコービと《ヤーコブィ》」という代表的掌編にも、「世界」がすっかり無くなってしまった後の世界、いわば「世界の終焉」以後の特異な「思考」が描写されている。

 《ヤーコブィ》 結論はだ、そもそも無は無から、決してどこからも結果せぬということ、如何なる結論も存在せぬということ、あるのは永遠の停滞であり、その上をただぶんぶん唸る言葉の群れが旋回しているのであって、世界とは――遠い昔に失われ死滅した物たちの長々しくも退屈な目録なのだ。つまり、物たちは死滅し、その名付けは今以て音として響いている――以上だ。朽ち果ての印章が印象に押されて残っているのだ。まさかおぬしは屍の臭いを感じぬとでもいうのか。これぞ――死して腐りゆく――真理が多へと分解しているのだ。

 ヤコービ しかし、言葉が本当に何かを隠してなどおるのだろうかね? お前さんは言葉だが、自分の向こう側なんぞ覗き込めようもなかろう。しかし……名付けの下になんぞ隠されているものがあるとな?

 《ヤーコブィ》 無だ。巧妙にも《存在》に成り済ました非在にして、蝶々たる零(おぬしはつい先ほど我が輩のことを喋り好きと呼んだではないか)、《無の花》にして虚の原に縫われたるもの。その幻として入り交じる花の咲き乱れる様は存分に眺めることが出来ようが、それに手を伸べてみよ――その手が摘み取るのは《無》であるぞ。(p62〜63)



 クルジジャノフスキィがテクストの「表層」に留まっているのも、こうした記述を解読の手掛かりにすることによって、文学の本質は「不在」、「無」にあると規定したブランショの戦略と深い次元で相関していることが可視化してくる。「ヤコービと《ヤーコブィ》」には、実際に「世界」の本質とは「無」の展開したものに過ぎないという、どちらかといえば楽観的な「虚無」への志向性も窺える。

もし世界が無から出来ているとすれば、世界とは無のパラフレーズ(敷衍したもの)だ、と。(p68)


 「思考一代記」という作品では、ヨーロッパ中世文学の『薔薇物語』において「愛」が擬人化されていたが、この掌編では「思考」そのものが擬人化されている。例えば以下のように。

その“思考”が生まれたのはひっそりした七月の昼下がりのことだった。“思考”のぐるりを庭の道が囲んでいた。枝が幹から空へ伸び上がっていた。思索者の瞳を介して世界を覗き見ると、“思考”にはこんなものが見えたのだった。…(p95)


 しかし、とりわけ興味深い掌編はやはり「神が死んだ」というニーチェに対するオマージュ作品ではないだろうか。「神の死」の現場を、クルジジャノフスキィは以下のように具体的に描写している。

 すると、アザジイルの叫喚が鳴り響いた、「神が亡くなられた! 神が亡くなられたのだ!」。
――亡くなられたのだ……ありて日の老いたる者は亡くなられたのだ、――その声は大群から大群へ、星辰から星辰へ、大地から大地へと伝わり響いた。一方、ケルビムのアザジイルは見開いた瞳にて彼方を目で捕えたが、何一つ変わるところはなかった。神は亡くなられた――なのに、何も変わるところがない。幾つもの瞬間が瞬間の周りに円を描いていた。凡ては嘗てのままであった。一条の光とて星辰のもとで微動だにしなかった。一つの軌道とてその楕円を打ち破るものはなかったのだ。(p254)


 これはカトリックで洗礼を受けた私でも、まことに興味深い描写という他ない。神は亡くなったとされているが、彼が死んでも天国では「何も変わるところがない」。凡ては同じように平凡に続いている――あたかも、神など最初から存在していなかったように……。クルジジャノフスキィは、天国だけでなく地上でもこれと同じであることを繰り返し描写している。

事実、何一つ微動だにしていなかったし、凡ては以前の場所にあったし、以前の状態のままであった。ところが、凡てのものから生じたのが――空虚、それはまるで誰かが短い梃でもって文字からは音を、光線からは光を抜き取って、目には死んだような直線の縁だけを残して去ってしまったかのようだった。凡ては以前のままであったが、最早何もそこにはなかった。(p257)


 考えてみれば、「神の死」とは奇妙な表現ではないだろうか。元々「不可視」であったものが、たとえ死んだとしてもその「死体」など現前しない。だから、「神の死亡証明書」など実在し得ないし、ましてや「神の死亡推定時刻」とか、「神の死体解剖」といったレトリックも、神学的には何の意味も成さないだろう。しかし、クルジジャノフスキィはこうした点をあえてパロディ的に利用していると考えられる。例えば、以下のように。

仮に二二〇四年の二月に新聞各社に神の死を伝えたとしても、先ず一社とて、紙面数三十二頁の〈ツェントロ=ストーヴォ(中心たる言葉〉紙でさえ、この事件に二行八ポイントの記事すら割くことはなかったであろう。(p257)


 やがて「神を信仰すること」それ自体が、人類の煩ったひとつの大きな「病理」であった点が描写される。「フィデオコックス(信原体)」という人に信仰を宿す病原体が発見され、信仰は「マニア・レリギオーサ(宗教狂)」、あるいは「モルブス・レリギオーサ(宗教病)」として症例呼ばわりされることになる。
 ここで描かれているのは、キリスト教の黄昏ではないだろうか。いわば、ユダヤ・キリスト教という一神教の宗教システムの「終焉」が寓話化されているのではないだろうか。しかし、クルジジャノフスキィは以下のようにも述べている。

起こったのは、起こるべくして起こることだった。つまり、嘗ては神がいた――だが、信仰はなかった。そして神が死に――信仰が生まれたのだ。これが生まれたのは、まさに死んだからなのだ。自然が〈空虚を恐れる〉のではなく(昔のスコラ学者たちは間違っていたのだ)、空虚が自然を恐れるのである。…(略)…神はいなかった――だからこそ、誰もが心から信仰し、崇拝し、こう口にしたのだ、神はいる、と。(p263)


 神が死に、現在のヴァチカンも廃墟と化する。しかし、人類は新しいヴァチカンを建造し、再び教皇を立て、信仰に身も心も委ねていく。このプロセスは、まさに人間が「何かを信じる」ことなくしては、決して生き得ないという心理システムを表現したものであろう。
 このように、シギズムント・クルジジャノフスキィは現在も世界的に再評価が進む極めてラディカルで、前衛的で、そしてどこかポップな童話性を感じさせもする作家である。





 






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