† 展覧会 †

あらゆるものを焼尽させる不穏な「黒」から、明るい「土」色の《永遠の幸福》へ――ジャン・フォートリエ展(東京ステーションギャラリー)の記録

 これは、東京ステーションギャラリーで開催中のジャン・フォートリエ展の記録である。
 フォートリエといえば、一般的に「アンフォルメル」の画家という位置付けがなされることが多いが、今回の展覧会の構成ではそうした解釈を、画家の人生を俯瞰することでより広い眼で総体的に再解釈し、この画家が「具象」から「抽象」へとシフトしていったプロセスを丹念に追跡している。二つの戦争という「傷」によってずたずたに引き裂かれたヨーロッパ――フォートリエの作品群は、こうした「傷」の描出において稀有なスタイルを発揮している。本展覧会は関西では国立国際美術館にも巡回する予定であり、知る人ぞ知るこの重要な画家の作品群を眼の前で観る絶好の機会である。

 ジャン・フォートリエ(Jean Fautrier、1898年5月16日 - 1964年7月21日)は1908年にパリからロンドンに移住し、ロイヤル・アカデミーで絵画を学んだ。初期フォートリエは具象的な作品群を幾つか残している。例えば「黒の時代」以前の一連の「裸婦」シリーズは、まだ「かたち」を明瞭に主張している。特に顕著なのは《管理人の肖像》であり、これは彼がロイヤル・アカデミーで修練を積んでいた時代のエッセンスを結晶化しているようで、この作品自体には固有の魅力があると言って良いだろう。《愚か者》はどこかゴヤ的な不穏な印象を与えるが、奇異さ、滑稽、そしてグロテスクの内に込められたある種の「高貴さ」という点で《管理人の肖像》と並んで印象深い作品である。
 画家が若い時代に何を対象に選ぶかという点は、その画家の性質を反映している。フォートリエの場合、それは裸婦をモデルにした何枚もの作品から窺うことができるだろう。裸婦とはいえ、フォートリエの描くそれはエロティックなイメージではない。たとえ画家が裸婦(実質的には娼婦たち)たちと戯れ、青年的な満足を満たしていたとしても、彼の描いたそれはどこか「暗黒的」とも表現し得る不穏な雰囲気を帯びている。そこに第一次世界大戦の黒い予兆を読み取ることもできるだろう。
 若きフォートリエは、ある時期を境に「黒の時代」と後に呼称される表現様式へとシフトする。これはピカソの「青の時代」と同じく洗練されているが、こちらはよりいっそう根本的な変容を来している。つまり、「具象絵画」から「抽象絵画」への移行の片鱗がここに見て取れるのだ。フォートリエが「黒の時代」で描いているのはやはり娼婦たちの裸体なのだが、彼女たちはあたかも「磨りガラス越し」に捉えられたようにぼかされている。半透明、不鮮明であり、その身体は少しずつ輪郭を溶解させているのだ。フォートリエがこのような抽象に進んだ背景には、当時のフランスで「プリミティブ」が評価されていたことにも由来している。裸婦たちは個別具体的な「肉」の形象を失い、黒褐色で半透明、あやふやな匿名的存在へと変容するのだ。
 この時代の作品群の中で、私が画廊で特に強烈な印象を与えられたのは、実は《羊の頭部》であった。展覧会のカタログで確認しても、この絵の真の鮮烈さは理解できない。この一枚が圧倒的な実在感を主張しているその由縁は、実は羊の頭部にこびりついている筋肉繊維を、絵筆の荒々しいタッチによって「塗り付けるように」描いた、その「野蛮さ」にあるのではないだろうか。無論、フォートリエは《管理人の肖像》で披露したように、客体を極めて精緻に、ディテールまで細やかに描くことのできる画家である。だが、ここでは対象の持つ「生々しさ」が、まさに「絵を描く行為」に宿る「生々しさ」によって表現されているのだ。ディテールではなく、あえて絵の具の荒っぽい塊を残存させることによって、《羊の頭部》は羊でもなく、頭部でもなく、そして絵画ですらない、何か得体の知れない「獣の神」の如き禍々しさを発揮している。
 初期の代表的作品に含まれる《兎の皮》も、《羊の頭部》と同じく「死んだ動物」をテーマにしている。フォートリエの選択する対象は「裸婦」にせよ、機械人形の如き《管理人の肖像》にせよ、どこか不安で孤独な心象世界によって捉えられているような印象を与える。私は《兎の皮》を離れて観た時、この絵が皮剥ぎされた家畜にはどうしても見えなかったことを告白しよう。これは「皮」ではなく、「皮のように貧弱になった修道士の群れ」ではないのか? あるいは、「逆さ吊りされた黒焦げの修道士の死体」ではないのか。フォートリエの作品世界が、このような「隠喩」的な読みを許す「暗黒」に包まれているという点が、この画家を私の中で特別な存在にしている。
 同時期の作品には他に、燃焼後の黒焦げになった《花》という作品が存在する。この静物画を、例えば「花の画家」と称されたファンタン=ラトゥールやボタニカルアートの父祖ルドゥテのような画家の美しく気高い花たちと比較すれば、どれ程衝撃的であるかが一目瞭然になるだろう。フォートリエの《花》は、最早「花」であることに安らってはいない。「花」は火焔で炙られ、その植物的な皮膚を焼尽され、灰=死骸になる寸前で留められた姿形のままフリーズされている。まさに、「黒の時代」のフォートリエのスタイルが、こうした静物にも及んでいたことを感じさせる。フォートリエの「黒」は全てを汚染し、浸蝕し、対象から本来的な色彩を強奪して「炭」に変わる一歩手前で画布の上へ放り投げるのである。「黒の時代」以後、フォートリエは本格的に具象から「抽象」へと変化していく。その移行期に位置する画家が選んだ対象群に、「果物」がある。強烈なスタイルの持ち主である彼の場合、選ぶものは平凡でありきたりなもので十分なのだろう。
 「戦争の世紀」を生きたフォートリエ(彼は戦時中からパリに戻った)について再考する上で、けして避けては通れないオブジェが「彫刻」作品である。彼は画家であると同時に彫刻家でもあり、彼の頭部彫刻をマルローは高く評価していた。例えば代表作《悲劇的な頭部》は、第二次世界大戦が終わる三年前の1942年に制作されている。ヨーロッパが不穏な黒雲に包まれ始めた頃、フォートリエもまたゲシュタポに捕まってしまう。それ以後も彼は塔に実質的には「幽閉」状態にありながら、用意されていたアトリエでひたすら自己表現に向かう。驚くべきことに、今日世界的にフォートリエの代表作として知られている名高い「人質」シリーズはこの塔のアトリエで生み出されているのだ。フォートリエの《人質》連作――それは、やはり同時代を生きた画家フランシス・ベーコンに通底する「肉の量塊性」をテーマにしている。だが、ベーコンが身体の表面に内臓的(筋肉、器官)を露出させたような歪曲化を行うのに対して、フォートリエは「内臓」そのものを「顔」として提示する。両者の作品を比較すると、ベーコンがいかにまだ「具象」に位置しているかが判然とするだろう。とりわけ「顔」ほど個別具体的な器官は存在しない。他方、フォートリエが提示するのは「それが誰のものか」判らない、匿名的な「内臓」であり、彼にとってはこちらこそが「顔」なのだ。石井洋二郎氏が『身体のフランス文学』所収のロートレアモン論でドゥルーズ=ガタリを緩用しつつ表現したテクニカルタームを用いれば、いわば、「身体なき器官」(ジジェクのそれとは別の概念としての)の「顔貌化」である。そして、描かれた「顔」たちはどれも「黒い傷」を負っている。鼻が欠損していたり、銃痕と思しき穴が開いていたりと、そこでは抽象的に表現されながらも明確に具象的要素が保持されている。(※1)
 戦後、フォートリエの色彩は少しずつ「暖色」を取り入れ始める。「黒」から「薄紫」への変化は、彼にとっては大きな精神的変化を表現したものだろう。それまでは死体の符牒ですらあった黒褐色は、やがて大地、砂の明るみの方へ変化するのだ。暗黒的な作品を数多く残したフォートリエの中でも、とりわけ1958年にようやく完成した大作《永遠の幸福》は、彼の心象の中でようやく「戦争」が終わったことを意味していたのではないだろうか。ここでは、かつて不気味で不穏な黒い被膜に包まれていた「裸婦」が、大地として砂の明るい形象にまで変換され、いわば無機物的でありながらも芽吹き始めた「新しい命」の胎動を感じさせる。ディテールに注目すると、《永遠の幸福》の身体は、樹木の粉末(木屑)を直接まぶしたような土色である。それは触知的な「裸婦」であり、幸福に到達して大地に身を横たえ、樹木や砂と一体化した女の姿である。フォートリエはこの次元において、我々に「平和」の意味を暗示したかったのではないだろうか。
 後期フォートリエの、便宜的に「アンフォルメル」とカテゴライズされる作品群は、実はどれも自然界の「繊維」のような単位によって構成されている。描く対象がたとえ無定形であっても、タイトルが「雨」、「草」などであることが印象的だ。《永遠の幸福》以後、彼はいわば「大地的なもの=母性的なもの」(神話的には大地母神デメテル)を、たとえ不定形であれ描き続けることにある種の美学を感じ始めたのではないだろうか。そこには「繊維」への愛が感じられる。自然界のミクロな構成単位としての、様々な質感(例えば樹木の、砂の、粘度の、そして皮膚の)が、それ自体として提示されるのだ。戦後発展していくヨーロッパの諸都市を横にして、都市でもなく、人物でもなく、女性ですらなく、ひたすら「自然界の繊維」を描いたフォートリエの後期作品群には、モデルニテに対する強烈な嫌悪とアンチテーゼの意図が感じられるのだ。
 「アンフォルメル」という呼び名についても、「この定義自体に意味はない」という言葉が画廊内で上映されるビデオ作品で繰り返されていた。この15分間のビデオでは、ジャン・ポーランとジャン・フォートリエの貴重な対談が収められているが、中でも印象的なのは「描くフォートリエ」の映像だ。彼はあたかも、パンを作る菓子職人のように粉末をまぶしながら描いている。それは、彼が大地から「繊維」を取り出し、それを画布に「再構成」するスタイルを確立している様を印象付けている。



「註」

※1)――アニメ作品『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する「アダム」というキャラクターのデザインは、フォートリエの「人質」のための幾つかのデッサンに類似している。横線が上にもう一本ある「十字架」のマークを刻んだ頭部によって、画家は「人質」をいわば類型化しているのだ。
 










関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next