† モーリス・ブランショ †

“noli me legere”(我を読むなかれ)をめぐって/ポール・ド・マンのブランショ論――『盲目と洞察――現代批評の修辞学における試論』読解

Miranda Kerr by Greg Kadel
Miranda Kerr by Greg Kadel

【テクストの本質、あるいは“noli me legere”(我を読むなかれ)」

 本を読む行為の本質はポール・ド・マンが述べるように、作者と読者という二つの主観性が、相互に破壊し合うように恊働するプロセスを前提としている。リーディングにおいて我々は、自身に固有の同一性を忘れるように仕向けられる。作者と読者は、同じテクストを媒介にしてそれぞれ個別具体的な自己から離脱せんとする衝動によって結び付き合い、各自の個性を越えて「共通の基底」へと達する――これがド・マンの述べる「読む行為」の基礎構造である。注意しなければならないのは、読むそのたびごとにテクストの解釈が新たになるというだけでなく、書き手側にとっても、「読まれる行為」によって彼自身の企図を越えたひとつの「作品」へと変革するということである。
 ド・マンはブランショを看取しつつ、まずリーディングとインタープリテーション(解釈)には本源的な差異が存在すると述べる。解釈の本質は、リーディングによってそれとは異なる別のテクストを生成させることである。しかし、ブランショによればリーディングだけでは、我々は「何ものも付け加えない」。解釈は作品言語に対して付加された一種の「余剰言語」である、とド・マンは述べるわけだが、ここまでの段階で既に彼がアントワーヌ・コンパニョンのレクチュール論と非常に近接した内容を、おそらく意図的に記号論を採用せずに展開していることが判る。周知のように、コンパニョンは二十代の処女作でパースの記号論を看取して、「引用」に伴うテクストの記号論的な差異に着目した。例えば、ピエール・メナールはセルバンテスと同一のテクスト情報を持つ『ドン・キホーテ』を二十世紀に刊行したが、コンパニョンによればこれは原作者のオリジナルなテクストとは異なるテクストである。何故なら、テクストそれ自体がリーディングを前提にした存在である以上、読者が異なれば当然読まれ方も変化するという「解釈項」の差異の連鎖を前提にしているからである。ド・マンがブランショ論で提示している概念は、コンパニョンがボルヘス論で展開した引用論の成果である、S(A.T)の図式の枠内で説明することが可能である。Aとは作者であり、Tはテクスト、この二つの因子から成る言語システムSを、コンパニョンは「テクスト」と規定している。これは、Tが同一でも、A(作者)が変化すれば、Sそれ自体が内部変容を来すことを既に含意した図式である。ド・マンが解釈行為によってオリジナルなテクストに我々が「余剰言語」を作り出すと述べる時、テーマになっているのはまさにパースの記号論システムにおける三項図式――同じテクスト(対象)でも、読むたびごとに変化するのは、我々の「解釈項」が変容するからに他ならない――である。
 しかし、ド・マンがブランショの批評を解釈しつつ導出する概念は、コンパニョンの提示した図式だけで説明できるものではない。ブランショが興味深いのは、彼の散文が私的な経験について全く明らかにしないからである。ブランショは「作者の現前」を奪取しようと企て、存在論的な次元では常に「自己隠蔽の作用」によって統御されている。そこにはある種の意識的な、「解消と忘却」さえもが横たわっている、とド・マンは分析する。ブランショは懸命に自己を消尽させようと企てるのだが、ド・マンによればそれは常に未完了のものとして遂行される。何故なら、ブランショ自身が自ら極めて力強い口調で、まるで自己性を再確認するかのようにして「読解においては作品に何も付け加えるべきでない」と断定してしまっているからだ。ブランショは常に主体を無へと退隠させていくようなナラティブを用いたが、にも関わらず先の一点については「肯定的で力強い調子」が見て取れる――換言すれば、ブランショが「わたし」を消そうとすればするほど、逆説的にその信念が彼を際立った「個性」へと仕立て上げ、本来の非人称性からは程遠い地平へ足を踏み込んでしまうことになるのである。「これは、積極的な言明を好まないこの著者が下している断言の稀な例である」(p118)――ここでも、ド・マンはやはり作者がそれとは気付いていない「盲目性」に焦点を当てている。ブランショは、何かテクストを読むに当たっては、「まさにそうであるがままにしておこう」と、奇妙にも強く主張する。これは逆説的に、テクストへの「弛みなき警戒」を暗示しており、「読む」行為は本質的に「何も付け加えない」と断定していたブランショが、実は既にして「読む」=「解釈する」と一致させて把捉していたことが暗々裏に伝わって来る。ここでド・マンが述べているのは、実はブランショのリーディング論への極めて鋭い批判であって、彼はブランショがリーディングを行う際に、既にインタープリテーションを犯していたことを暴露しているのである――「読解が作品に端的に〈傾聴する〉限りで、それはそれ自体で解釈的な了解行為となる。読解行為についてのブランショの記述は、本来的な解釈を定義するものである」(p118)。
 ここで注目しなければならないのは、ド・マンが単に「読むとは、常に既に誤読の地平へと開かれた解釈行為である」という次章での中核的な概念の前奏を行っているわけではないということだ。むしろ、私が読解していて感じるのは、ド・マンがブランショの述べた意見とは反対の意見を述べるために、ブランショ自身のテクストの「矛盾」を緻密に浮き彫りにしていくというその知的流儀のエレガンスである。それは一種の美であり、極めて説得的な弁証法であると言わねばならない。
 ド・マンは、ブランショの『文学空間』の冒頭部を引用しつつ、「作家は、けっして自己自身の作品を読むことができない」という見解に同意する。この「自己読解の不可能性」をめぐるブランショの見解は極めて重要なので、以下に引用しておこう。

作家は、けっして自己自身の作品を読むことができない。作品とは作家にとって厳に近付き得ぬものであり、対峙することの叶わぬ秘密である。…自己読解の不可能性は、次のような発見をすることに等しい。すなわち、作品が開いた空間に更なる創造が付け加わるようないかなる余地もないということ、したがって唯一の可能性は、当の作品を繰り返し永遠に書き続けるという可能性だということである。…作家特有の孤独とは…作家が作品にあっては、常に作品に先立つものに属しているという事実に由来する。(p119)


 上記のブランショのテクストには、それ自体で汲み尽くし得ないほどの魅力が宿っているので、もう少し深く考察しておこう。既に述べたように、作家の自己読解が不可能であるのは、彼のテクストを「対象」と規定した場合の「解釈項」が、常に書き手の「余剰」に達するから(換言すれば、他者の解釈項の無限連鎖へと開かれているから、必然的に自己読解は有限的かつ閉鎖的に成らざるを得ない)である。これは自明の理であって、ド・マンもブランショも特に際立った内容を述べているとは思えない。例えば作家志望者は応募作を出版社に投稿するに際して、当該作品を再読する機会に常に見張られているわけだが、この時、彼の自作へのリーディングは他者による「解釈」の開かれた地平からすれば、限りなく盲目的であらざるを得ない。制作者の自己分析の上空を常に旋回し、滑空するものとしての他者の「解釈」は、書き手自身の盲点を暴き出すだろう。だが、これはド・マンの概念化を待つまでもなく、作家を目指したり現役で活躍している者にとっては暗黙の掟であり、同じような考えは易しい言葉で他にも多様に見出すことが可能である。むしろブランショのこのテクストで最も読み手側の解釈の多様性を誘うのは、後ろの二文「…唯一の可能性は、当の作品を繰り返し永遠に書き続けるという可能性だということである。…作家特有の孤独とは…作家が作品にあっては、常に作品に先立つものに属しているという事実に由来する」という箇所ではないだろうか。特に、同じ作品を繰り返し永遠に書き続けるという行為は、エクリチュールの「反復」のテーマへと接続する。
 晩年は盲目となったボルヘスは、「鏡」、「原型/変奏」、「夢」、「他者」、「迷宮」、「永劫回帰」、「可能世界」などの共通テーマを、常に幾度も更新された形で作品化している。換言すれば、ボルヘスが所持している創作上の戦略素の数は実はごくわずか(その大部分は、ドゥルーズが分析するようにライプニッツ哲学の残滓である)であって、全てはその多様な「変奏」なのである。しかし、これは彼にとってこれらのテーマが常に理解できないほどの余剰を帯びていたということを既に含意しているのではなかろうか。神秘的なものの解明を意図して書くのではなく、常に神秘をそれとして保存する彼のナラティブは、まさに幾つかの概念を核にして「永遠に書き続けられる」ものであり、そこにはボルヘス自身によるこれらのテーマへの「盲目」(理解不可能性)が表裏一体となっていたのではないか。彼は解明し切れないテーマだけを文学に吸収するのであって、目的は常に「未知」へと開かれている。ブランショであれば、それを「孤独」と表現することもできたのだろう。
 ド・マンの視点は常に文学を創造する者の内面心理へと深く入り込んでいく。彼によれば、詩人ないし作家が自らの作品を開始し得るのは、始まりとみなされたものが実は以前の「挫折」の反復に過ぎず、この挫折が新たに開始し得なかった「無力」に由来しているということを当の詩人が「忘却」する瞬間である。ここでド・マンが前提としているのは、書き手自身の一種の「存在不可能性」である。もしも書き手が自己読解のプロセスそのものを作品として生成させようとしても、それは自己忘却あるいは盲目性の構造的な二重化が生起するだけであり、彼らは本質的に常に自らのテクストについては永久的に盲いた状態であり続ける。ブランショがド・マンにとっておそらく極めてラディカルであるのは、彼が「書く行為」そのものを内省的に、かつ自己読解として提示しているからであるが、その自己読解の不可能性をド・マンはブランショの当の自己読解の軌跡を逆照射する形式で立証しようとしていると考えられる。仮に我々が、作品を「書こうとする意志」そのものの運動を小説化し、デッサンや構想段階の素描その他も含めて作品に有機的に吸収したとしても、それらは常に自己読解と言うには値しないものだろう。そこには書き手だけでは明かし得ない盲目性が横たわっているのであり、ド・マンが炙り出そうとしているのもこの点であると考えられる。もしも、読む行為が常に既に「誤読」であり、「書く行為」においてすら自己読解が不可能であるとすれば、一体テクストとはそもそも何であるのか? それは誤読と誤解の絶え間ない再生産のプロセスに堕すのであろうか? 否、けしてそうではないだろう。だが、ブランショの極めて印象的なテクスト――noli me legere(我を読むなかれ)――を引用しているド・マンは、この問題を非常に重く受け止めていると思われる。もしも、キリストが復活した直後にマリア・マグダレナに最初に告げた名高いnoli me tangere(我に触れるな)が、テクストの本質を表出していた定式であったとすればどうだろうか。これはド・マンを読解しながら私が獲得したイメージであるが、テクストの記号表現とは別に、「テクスト」それ自体のような何かイデア的な実体が存在しているのではないだろうか。そのように仮定した方が、私にとってド・マンの主張はいっそう研ぎ澄まされ、秩序付けられたものになる。何故なら、この「テクスト」なる実体は、究極的には我々が言語化しようとしても表現できなかった「意図」や「思念」、「直観」などを保存しているような場だからである。テクストを読む上で誤読が生起するのは、「テクスト」にまで到達できないからではないのか。そして、「テクスト」とは、地下鉄の平凡なピクトグラムから聖書の全テクストも含めた全てのテクスト=宇宙の総体を指すのではないだろうか。(デリダの『エクリチュールと差異』に収録された、ジャベスの書物=宇宙論などを読解した神秘的な論稿を想起しよう)。
 ライプニッツはかつて、「何故、そもそも有るものがあって、むしろ無ではないのか?」(なぜ、この世界には様々なものが存在しており、むしろ無ではなかったのか?)という、ハイデッガーが重視した存在論の出発ともなる問いを提示したが、ド・マンが本書で提起しているのは、以下のような本質的問いである。これは、テクストに関わる全ての者にとって、おそらく最高に本源的な問いの中の問いであり、むしろこの一なる問いを問うだけで、我々に与えられた時間は過ぎ去っていくだろう。それは、「なぜ、そもそも書き手は自らの作品を読むことができないのか?」という問いである。これは、読み手にも妥当する。何故なら、ド・マンは読解行為の本質を「誤読」として規定しているからだ。所与のテクストは、このように書き手、読み手の差異に関わりなく「未知」なる地平を常に指し示している――それが「テクスト」である。おそらく、現代において真に重要であるのは、「書かれたことを理解せよ」という命題ではない。そうではなく、書かれたことを読む我々の「誤読」が、なぜ時に書き手の意図を越えて他の読者の共感をも獲得するのか、あるいは、作者の意図を大きく乗り越えるのかである。もしくは、「書いたことがない」(エクリチュールからの切断)とか、「書かない」(エクリチュールの忌避)とか、「書かない方がいいのです」(バートルビー的なエクリチュールへの倦怠)といった命題は、いかなる新しいナラティブの地平を開くのか? 書く、とは、書いていない空間(パレルゴン)を生成させる行為に他ならない。だとすれば、書かれたテクストから、その余白となる白紙地帯をいかに「読解」することが可能なのであろうか? そこに、ヨハネによる福音にあるあの究極的な命題「はじめに言葉があった」の意味が秘匿されているのであろうか?(まるで、無限に続く砂丘の連鎖の果てに垣間見えるオアシスの一隅の如く……) どのようにすれば、これを開示することが可能なのか……? それは、ド・マンが我々に遺産として残し、おそらくは「批評」ではなく、「小説」としての形式で問い続けることを期待しているであろうものである(そして、これはおそらくド・マンに対する私の最大の「誤読」でもあろう)。

【ブランショにおける批評と物語の相関性】

 いかにかつて書かれたテクストの堆積物を「忘却」するか――ド・マンが求める流儀はこの「忘却の作法」である。何故なら、我々はテクストの起源(個人的な書く上での動機から、インターテクスチュアリティも含めて)を忘却すればするほど、おそらく新しい作品を無垢な眼差しによって創出(正確には再生産)することが可能だからだ。ラシーヌに魅入られている作家がいたとして、何らかの契機を境にラシーヌなる存在を忘却した時、彼の中で痕跡として残っている悲劇的なるものへの強靭な美的創造性が、彼を「新たなラシーヌ」へと生成させる。すなわち、ド・マンが述べるように、文学創造とは究極的には「忘れんとする意志」であり、これによって作品は初めて存在可能となるのである。彼はこの忘却を、「本来的な言語の発明へと通じるひとつの積極的な概念となる」(p121)とすら述べている。これは見方を変えれば、テクストは全て再生産に過ぎないという半ばメランコリックで保守形骸化した文芸理論への、ほとんど唯一と言ってもいいほどの「総括」であり、総決算的な解決法=出口ではなかろうか。バフチン、クリステヴァ、バルト、そしてコンパニョンを含め、テクストは再生産の産物であり、全てのテクストが本質的に「引用」の織り目であるとする理論がこれまで優勢を占めていたのは事実である。だが、ド・マンは何かが違う。彼はこの素晴らしいブランショ論でこの迷宮の「出口」を、少なくとも我々に半ば粗暴な形式で提示したと言えるのではないか――すなわち、「忘れよ」と。己が愛し、畏敬をすら抱く過去の偉大な作家、詩人たちをいかに「忘却」の淵へと追いやるか――いかに、意識の余白へと彼らを抑圧してしまうか。換言すれば、いかにして記憶しつつも「反―記憶」を意志するか。
 かくして、ド・マンは「反―記憶」を、逆説的ながら文学創造の「源泉」であると規定するに至る。ボルヘスを愛する作家志望者の場合、いかにしてボルヘスを忘れるのかが、ここで問題となっている。重要なのは、ボルヘスを我々が完全に忘却できないということであって、「反―記憶」への意志は、抑圧された記憶を何らかの新しい形式で再現前させるということである(幽霊的に現前する記憶の人フネス、あるいはピエール・メナール、そして畏るべきエウフォルブス、バベルの図書館の優秀かつ奇怪な司書たち……)――おそらく、この「反―記憶」と「記憶」のめまぐるしい相殺と苦悩に満ちた絶え間ない試行錯誤の末に、ようやく彼は遺産を引き継ぐのだろう。ド・マンによれば、忘却の「想起」は、書く行為ではなく、もっぱら「読む行為」においてのみ生起するのだという。換言すれば、「読む過程」の記録を残すことこそが、新たにエクリチュールへ向かうための発火源となるのである。読む、とは、書く行為の一様態であるばかりか、読解そのものが新たなテクストの生成であって、確かにそこには元のテクストに内在する内容とは異なる「解釈項」を創造させる契機が秘められている。
 ド・マンが「読む行為」に新たな作品創造への根源的な契機を見出している箇所は以下からも明らかである。「実際ブランショは、読むことを通じて初期著作『謎の男トマ』初版から第二版へと進むことができたのだし、それを可能にした読解は、“…増幅させられた才能の力によって反復する”という企てとしてなおも説明されることができた」(p121)。ただ、ここで興味深いのは、『謎の男トマ』と『期待 忘却』との創作上のスタイルにまつわる根本的な差異である。ド・マンによれば、処女作である『謎の男トマ』には、ブランショがある種のテーマを無自覚的に追跡していたからこそ、一つの決定的なオリジナリティに溢れた主題が読者の読解をして前景化したのであった。換言すれば、ブランショは自作が持つテーマにおいてある種の「盲目」に達していたからこそ、読者の解釈に触れて事後的に自身の主題系を追認したと想定することができる。しかし、『期待 忘却』では、処女作で認知されたテーマに作家自身が「自覚的」になったため、ド・マンの規定する意味での「盲目性」は破れ、既に「完成した作品」と、その「作者」とのあいだの関係の必然的な結果にしか成り得なかったとされる。ただ、注意しなければならないのは、ド・マンはここで『期待 忘却』を否定的に把捉しているわけではなく、むしろこの作品においては、盲目性を破ろうとするブランショ自身の企て――「自己読解の不可能性」そのもの――が、読者に対してテーマとして提示されているということである。つまり、『期待 忘却』は作家が読者の批評を受容し、「自己読解」を試みるという戦略と、そこに既に内包された「挫折」の総体の提示である。ド・マンが、「自己解釈の不可能性がそれ自体として主題になっているのであり、今度はそれが読まれ解釈されることを要求しているのである」(p122)と述べているのは、まさにここである。
 ブランショという作家を捉える上で、ド・マンは彼の批評活動にこそまず注目している。何故なら、先述したようにブランショにおいては批評が「自分自身の読解への準備」になっているためだ。すなわち、「ブランショの批評作品と物語的散文との関係は、前者が後者を準備するものだという観点から理解されなければならない」(p122)。この後、ド・マンはブランショにおける批評と物語創造の関係性から、ほとんど目を見張るほどの瞠目すべきテクストにまで達するのであるが、それについてはこのページの後半で言及されることになるだろう。まずもってここで確認しておかねばならないのは、ド・マンがまるで我々に、汝のテーマを持つな、とでも言いたげな趣旨の見解を提起していることである。「自分のテーマ」に自覚的になるということは、そのテーマの枠内に閉域化された「モデル読者」を仮設、想定する行為に他ならない。ある作家が渾身の力を込めて書いた処女作には、本人にも予見できない読解可能性と、そこから編み出される無限に豊かなテーマが宿っている。もしも、作家がたった一つの作品だけで「これを読者が求めているようだ」と安易に想定してしまうと、結局、ド・マンが『期待 忘却』と『謎の男トマ』を比較分析している時に浮上した一種の「失望」を、卓越した読み手には感じさせることになるだろう。つまり、我々がもしも十分に時の風化に耐え得る作家を真に目指す者であるならば、作品のテーマに一定の期待値を見出すモデル読者の意識に、我々の「作家像」を抱かせてはならないし、ましてや自分の中で「私らしいテーマ」を確立「してはならない」のである。このように、ド・マンは改めて「批評」行為を通じてエクリチュールを強化し錬磨させていくことを我々に強く促している。読む行為こそが、実は書く行為における文学的発明を実現させるのである。
 
 


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