† 文学 †

パルス・プロ・トト(全体に代わる部分)としての神――ハンガリーを代表するポストモダン作家にして名門エステルハージ家の末裔、エステルハージ・ペーテルの代表作『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―ドナウを下って』の世界


ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―ドナウを下って (東欧の想像力 3)ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―ドナウを下って (東欧の想像力 3)
(2008/11/30)
ペーテル エステルハージ

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 エステルハージ・ペーテルは現代ハンガリーを代表する小説家で、ハンガリーの名門エステルハージ家の末裔である。彼は二十代の頃から小説を書き始め、『生産小説』(1979)のポストモダン的作風で賛否両論を巻き起こした。彼の作品群はヨーロッパ圏を含め世界20カ国以上で翻訳され、現在はハンガリーを代表する作家という地位を確立している。日本ではこの「東欧の想像力」シリーズの三冊目として刊行されているが、本書『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―ドナウを下って』は特に前衛的な作風で注目に値する。
 方法論としてまず印象的だったのは、「人称変換」である。「僕」から「旅人」に変換され、再度戻るものの機能的には同じ主体である。また、ヒトラー、ゲッペルス、エヴァ・ブラウンの三者による「演劇台本形式」の掛け合いや、ハイデガーへのインタビュー、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』からのオマージュ的な引用(これは物語から枠組みをそのまま借り受ける、かなり長いものである)も存在する。この小説の書き手らしい兆候もメタ言語的に以下のように盛り込まれている。「僕は個々の文はよく覚えているくせに、全体の記憶となるとからっきしだめだった」(p127)――この一文が示唆しているように、本書はドナウ川周辺を旅する主人公の「旅の記憶の断片」である。おそらく旅行中に随所に閃いた考え、想念などをノートに書き記し、それを後で小説として再構成する上で「一本の小説としての統一性」という必要性に駆られたエステルハージは、「かっこいい叔父ロベルトを探しに行く」という〈探求の物語〉(血縁の叔父は、いわばもう一人の自己であり、こうして自己探求の旅というテマティックが実現できる)を選択したのだろう。私には、この作家の特徴としてまず「断片性」があり、それらを有機的に統一するために「叔父」の存在が後から仮構されたように考えられる。それは、「神」を以下のように規定する彼の考え方からも伝わってくる。「神――パルス・プロ・トト(全体に代わる部分)……」(p25)
 小説におけるメタ小説の機能とは、自分が今書いている物語についての「方法論」を読者に提示することで、作者がいわば書き手である自己を「観察」行為の外部性に設置し直せる点にある。エステルハージは以下のようにこの作品自体に対する自注を挿入している。

「書きおろす」とピリンスキは言う。文は頭の中ではなく、紙の上で生まれる。旅は旅の途上で生まれる。だから私は、少しずつ小刻みに歩を進めていかざるをえなかった。(p32)

 すでにお話ししたが、私は「私」を消去した。私は人を新しいやり方で構築すべきことに思い至ったのだ。話法やことわざ、無意味な言及、いわく言い難い精妙なニュアンスを使って。「この人を見よ」、ひとりの人間を、あるひとりの。
 …次に頭の働きを整理し、地理を挿入し、夢のあれこれの断片を組み込んで、そうしておいていったんは放擲する。動機的、心理的に関連づけることはいっさいしない、ただあらゆることを開始するだけ、そして終えることはしない。すべてが開かれたままの反統合。(p169−170)



 これらのテクストはまさに作者による自作の解説であり、「方法論」の紹介である。作家がわざわざ自分の書き方を告知するのは、自分でも何を書いているのか判らないという問題があり、いわばそれが小説そのものの語りを要請していると考えることもできる。彼はあらかじめテーマを持っていない。だからこそ、旅が必要なのである。「神よ願わくば、文を与え給え」(p32)という冒頭の叫びにもあるように。
 しかし、エステルハージは果たして本作で「私を消去」し得たのだろうか? 

 西ヨーロッパの人間はものについて話す。ものがあって、それを観察する、ときにはかなり個人的に。対するに、東、中央、中間ヨーロッパの人間は、自分を中心に話をする。まず自分がいて、それについて話す、ものを通して。(p73)


 東欧の人間は「もの」ではなく「自分」について語りたがる、という彼の見解の通り、エステルハージはあくまでも自分自身のモノローグにこだわっている。「私の消去」とは、ベケットの『名付けえぬもの』やブランショの『わたしについてこなかった男』にこそ与えられる表現だろう。
 名門貴族の出自に生まれた彼だが、自分を「お坊ちゃん」扱いする人々には一定の距離を置いている。バルザックやスタンダールは貴族を描いているが、彼らは貴族階級に生まれたわけではない。華やかな社交界を描いたプルーストも、貴族に憧憬を抱いたブルジョワ階級の出自である。他方、イタリアの貴族出身のランペドゥーサは『山猫』の中で貴族階級の男が歴史の交替で威信を失う様を描いている。また、ユルスナールは貴族の血を引く自身の出自を、自伝的に描き出している。
 このような「貴族と文学」というテーマでエステルハージ・ペーテルを捉えた時、本作はどこか特異な存在であることが判る。何故なら、彼はそもそも自分が「貴族」であることに何のメリットも感じていない。

 出身と経歴――くだらないことだ! 誰もかれもがエーテボリかケーニヒスブルクの出身で、おおかたが黒い森で最期を迎えるのだから。(p169)


 彼はどちらかというと、メルヴィルの『ピエール』に登場する、満たされた生活から世界の実相の方へと歩み出すピエール・グレンディングに近いのではないだろうか。その証拠に、『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし』も、貴族の城や豊かな蔵書、家具、交友関係などについて一切触れず、ドナウ川を気ままに旅する構成となっているのだから。
 叔父ロベルトを探す旅の途上、主人公は以前叔父と愛人関係にあったダルマという年上の女性と出会う。そして彼女とベッドを共にするのだが、その描写はあまりにも短くて唐突だ。

「何も考えなくていいの。抱いて!」
 僕は丸太を抱くように彼女を抱いた。女が年をとっているのが恥ずかしかった。シガレットホルダーの匂いがした。髪が薄くなっているのが見えた。彼女の頭のてっぺんにキスをした。(p210)


 なんとも物悲しい描写だが、私はここに作者自身の「実体験の痕跡」を感じる。ダルマを審美化して描き出すことも可能だったはずだが、作家はあえて「ありのままの彼女」を描いたのではないだろうか。つまり、彼は実際に旅行中にダルマに出会い、彼女をかなり忠実に物語に吸収したのではないだろうか。この物語がヘンリー・ジェイムズの『アスパンの恋文』と構造的に類似していたとしても、大きく違ってくるのはこの点である。ジェイムズの場合、ジェフリー・アスパンの元恋人は、かつて非常に美しかった老女として登場する。いわば女性たちが夢中になった大詩人と美女は、ヴェネツィアの叙情性も相俟って淡いロマンティシズムに包まれて神話化されている。『アスパンの恋文』の場合、アスパンの死後に研究者である「わたし」が彼の評伝を編むために旅をするという設定である。エステルハージの場合も、主人公が「とある男性」(叔父)が歩いたドナウ川一帯を巡り、以前彼と関係していた「女性」と出会い、話をして、最終的に彼に出会うという筋書きは同じだ。だが、ジェイムズが「物語の統一的な美」という、ルネサンス的な調和の美学を重視しているのに対して、エステルハージの美学はポップアートに近接している。彼はここぞと言う時に、あえて逆手を取るようなユニークな感性の持ち主だ。




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