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† 表象文化論 †

「仮想化された故郷」、あるいはモダニティからスーパーモダニティへ――レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語――デジタル時代のアート、デザイン、映画』


ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画
(2013/09/14)
レフ・マノヴィッチ

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【仮想世界におけるディエゲーシス、あるいは世界の「ダンジョン化」】

 レフ・マノヴィッチ(ニューヨーク市立大学大学院センター教授)によれば、現在見られる大半のゲーム(3D空間を歩くようなタイプの)は、「仮想空間を航行する」という点で共通する。彼が挙げている二つの代表的なゲーム、《ドゥーム》と《ミスト》では、プレイヤーは動き回ることで初めて「地図化」されるような空間を与えられる。どちらのゲームでも、まずプレイヤーは出発地点に投下され、ゲームのナラティブ(物語の叙法)の結末に辿り着くまでに地図化し得るほぼ全ての空間を訪れることになる。日本でも有名な《ゼルダの伝説》や《ドラゴンクエスト》、《ファイナルファンタジー》のシリーズは、基本的にゲーム内の「時間」それ自体を、「3D空間上の移動」と同一視することができる。換言すれば、プレイヤーが世界の謎を少しずつ解き明かしていくにつれて、その世界の「縁」が次第に後退していき、自ずとナラティブはエピローグへと運ばれていくことになるわけだ。
 ゲームにおけるナラティブを一般化した最初の学者であるミシェル・ド・セルトーは、「ギリシャ語では、ナレーションはディエゲーシスを呼ばれる。それは道のりを確立すると共に、通り抜ける」と述べているが、これはまさにゲームのプレイヤーの空間航行そのものである。ここで重要なのは、マノヴィッチがまず従来の文学理論における「語り方の方法」であるナラティブを、「ゲームの進行プロセス」にまで拡張して捉え直している点であろう。ゲームをプレイし、仮想世界を見ることが、いわば物語が進むことと同義となっているのだ。これはRPGだけでなく、無論《バイオハザード》や《サイレントヒル》などの代表的ホラーゲーム、あるいは世界的にヒットした《ラスト・オブ・アス》のような別個に新しく驚異的なリアリティを実現したゲームにも妥当する「ゲームの一般規則」として特筆されるべきだろう。すなわち、ゲームとは本質的に「空間の航行」なのだ。いずれのゲームも、我々が暮らすこの実在世界とは異なる仮想世界を構築し、提示する点では同じである。この仮想空間を「サイバースペース」という概念で捉えたのは1947年に『サイバネティクス』を刊行した数学者ノーバート・ウィーナーである。彼によれば、そもそも「サイバネティクス」という言葉は、古代ギリシア語で「舵取りが上手い」を意味する「キベルネティコス」に由来している。キベルネティコスは、セルトーの「ディエゲーシス」と同じく、ゲーム空間を旅することの本質を意味する概念である。
 仮想世界は通常、伝統的な線遠近法によって描出されているが、構造的には互いに関連のないばらばらの「エリア」の集積として構成されている。したがって、3Dシミュレーションはルネサンス時代への退行であるとする批判は根拠がないと言わねばならない。パノフスキー的に述べれば、仮想世界は実は「ルネサンス以前の空間」なのであり、未だに空間を「全体」ではなく「断片」として構想することのできた古代ギリシア哲学と深い類縁性を持っているのだ。《ドラゴンクエスト》をプレイすれば判明することだが、それぞれの「村」、「城」、「ほこら」、「ダンジョン」などは同じフィールド空間に設置されているとはいえ、常に「離散的」なレベルで構造化されている。これは《RPGツクール》によって実際にフィールドに「城」などを設置すると理解できるだろうが、制作者はボタン一つで「城」を「村」に変えることもできる(接続するエリアを変換するだけで良い)。つまり、ゲームにおいてはそれぞれの「場所」は「エリア」としの集合体として構造化されており、更に「城」であっても、「廊下」、「王座」、「武器庫」などで更に微分的に階層化されている。換言すれば、仮想世界は断片化した場所の集積なのである。実はこれはゲームだけではなく、インターネットの世界を構成するそれぞれのページが実質的に常に離散的であり、検索すれば並列化されて表示されることと相関している。Web空間はマノヴィッチが考察するように、原則的に「首尾一貫した全体性・秩序」など持っていないし、初めから目指していない。Web空間は厖大なファイルの集積であり、ハイパーリンクで接続され連関付けられてはいても、それらを一望に監視するような近代的なパノプティコン(一望監視施設)、あるいはそれに相当するパースペクティブは原理的には存在しない。ここでも重要なのはユーザー側の「空間の履歴、航跡」であり、要するに必要な情報をセレクトして新たに「空間を再構成」するという視座である。これはゲーム世界におけるキベルネティコスにも妥当する点である。
 以上の考察から結論できる点は、我々が認識する「空間」概念がWeb、コンピューター技術の躍進によってコペルニクス的に変革されつつあるという事実である。従来まで、我々の暮らす「空間」は実在する世界を前提にしていた。しかし、マノヴィッチの予言によれば、21世紀初頭、「空間」はダンジョンRPGのように「エリア」ごとに集積され、オブジェクト化して認識されつつあると考えられている。いうなれば、「世界のエリア化/ダンジョン化」である。このような「ポスト近代」の新たな空間概念を、マノヴィッチは「スーパーモダニティの空間」と呼称している。しかし、それほど仮想化を施しても、それぞれのエリアはその空間が置き換えている実在世界の既存の物理空間をモデルにして生産されたものである。この点で、変化したのは「空間」の構成単位ではなく、むしろ空間の構成方法であると言えるだろう。例えば《サイレントヒル3》の序盤に登場する「ショッピングモール」や「遊園地」、あるいは主人公が暮らす「アパート」などの舞台設定は、実在する都市の「写真」から新たに再構成されている。変化したのはそれらの「配置・構成」であり、ここに新たなリアリティが賦与されているわけだ。
 では、このようなフラットなWeb世界に象徴される新たな空間概念は、いったいどこから生まれてきたのだろうか? マノヴィッチが指摘するように、無論このような仮想世界には成立の起源となるイデオロギーというものが存在する。それが、アメリカの民主主義である。
 マノヴィッチによれば、歴史がまだ浅く独立精神の強いアメリカはヨーロッパのように長い歴史を持つ地域よりもヒエラルキーと中央集権的な支配を極度に怖れる傾向を持っている。実はこうしたアメリカン・デモクラシーはWebという「新しい西部」にも無意識に適用されており、アメリカ人は基本的にWebは民主的であり、個人的な人権を尊重し合い、自由で、どのページも理論的には同じ価値を有し、ハイパーリンクで関連付けられたどんな情報も等価である、という考えを共有している。アメリカには初めから「統合的なパースペクティブ」を回避する傾向が強いが、このような思想はアメリカの都市空間だけでなくWeb空間にも適用されていると考えられている。このように、新しい「空間」概念を捉える上で、アメリカの西部開拓史というのは、単なる譬喩以上の重みを持っているわけだ。実はここに、今後Web社会の未来が辿る一つの歴史的縮図が顕現していると考えることも可能なのである。すなわち、GoogleやAmazonのような一部の巨大企業が他の国家のWeb企業に対して強力な権力を発揮するという「支配/従属」のモデルが、「白人/現地人」のモデルの再現前として解釈できるのである。
 
【「仮想化された故郷」、あるいはモダニティからスーパーモダニティへ】

 1863年、ボードレールは重要な評論「現代生活の画家」で以下のように語った。「完全な遊歩者にとって、情熱的な観察者にとって、数の中に、波立つものの中に、運動の中に、うつろい易いものと無限なるものの中に住まいを定めることは、涯しもない歓楽である。わが家の外にいて、しかも、どこにいてもわが家の気持ちでいること。世界を見ながら、世界の中心にいながら、世界に対して身を隠したままでいること」。ベンヤミンはこれを受けて以下のように語っている。「群衆とはヴェールであり、見慣れた都市はファンタスマゴリー(幻像)と化して、このヴェール越しに遊歩者を招き寄せるのである。ファンタスマゴリーの中で、都市はある時は風景となり、またある時は部屋となる」。この、ボードレールからベンヤミンへと受け継がれた「遊歩者」の概念は、仮想世界の「航行」を考察する上で、より正確には「ポスト近代の空間」を考察する上で極めて重要な示唆を与えている。
 我々はこれまでの伝統的な社会における緊密な結びつき(ゲマインシャフト)から、今や近代社会の匿名的な結びつき(ゲゼルシャフト)に至っている。この点も踏まえて、マノヴィッチが新たに提示するのが、都市の「遊歩者」と森の「探検家」という空間航行のタイプである。どちらにも共通しているのが、「アイデンティティを持たない」という点であり、前者はWeb空間において「データ・ダンディ」、後者は「ネットサーファー」として再現前している。従来のナラティブとは異なり、Web空間やゲーム空間特有の新しいナラティブは、全ての情報、文字配列を等価なものとして扱い、物語には常に一つの結末ではなく無限に豊かな分岐点が存在することを示唆する。これはホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編「八岐の園」や、近年の日本文壇では円城塔の特異なナラティブに、マノヴィッチのいう「新しい空間」との相関を見出すことができるだろう。
 円城塔のナラティブは、Web空間のデザイン・コンセプトとして規定される以下の六つの方法を、その叙述において取り込んでいる。すなわち、(1)物語を場面/空間ごとに「リンク」させること、(2)情報は世界において常に「検索」された状態で提示されること、(3)事物を描写する際に、単なる感覚ではなく情報の「配列化」を優先させること、(4)あらゆる物語は実は相互に接続し合っており、「階層化」していること、(5)登場人物の特徴、場面などが互いに「類似性」に基づいていること、(6)全ての物語を概念地図として「マッピング」可能であること、(6)ある物語が、別の物語の「ガイド」としての機能を併せ持っていること――これら六つの特徴は、どれも円城塔のSF作品を含む文学活動において往々にして見出される「定理」である。換言すれば、マノヴィッチのいう「ニューメディアの言語」に非常に近接したエクリチュールを彼は展開している。
 ベンヤミンはかつて実際に都市を遊歩していたが、我々の時代の遊歩者は実在空間ではなく仮想空間をも遊歩することが可能である。この「空間の仮想化」こそ、マノヴィッチが「近代空間」から「スーパーモダニティの空間」にシフトしたとする最大の要因である。スーパーモダニティの空間では、自室にいながらも「森」や「城」を遊歩できる。つまり実在空間においては「非場所」であるはずが、画面には「場所」として仮構される。
 戦後世代にとって、焼け野原は悲惨な記憶の場であるだけでなく、建築家磯崎新が指摘したように、奇妙にノスタルジックで始原的な場でもあった。だが、都市開発が進み、海辺や野原を奪われた状態で生まれてきた80年代以降の世代にとって、「レトロゲーム」は実は「仮想化された空間」であるにも関わらず、奇妙にもノスタルジックで「居場所」めいた安らぎを感じさせる特異な場を提供している。例えば、《ゼルダの伝説》にしても、最近の美しいグラフィックで構成されたソフトではなく、あえて「神々のトライフォース」のような古いが全ての出発点となったレトロソフトがリメイクされているのも、このような「仮想化された空間」に対する郷愁と相関している。ゲーム空間は、今や人々に「懐かしさ」や「居場所」の感覚を与えるほどに実在空間との「差異」を失効させつつあるのだ。こうして、「スーパーモダニティの空間」は、ユーザーを「孤独な連帯性」へと導いていくが、同時にそれは匿名的な共同体を形成することにもなるだろう。
 「故郷の仮想化」を実現した記念碑として特筆されるべきなのが、《ぼくの夏休み》である。このソフトでは、満員電車で毎日似たような憂鬱な顔触れを眺めながら出勤する疲れ果てた会社員など登場しない。彼らがまだ大都市の循環機構に毒される以前の、「少年時代の黄金郷」が描き出されるのである。そこでは「虫取り」もできるし、「肝試し」もできる。「花火」もあれば、切ない「恋心」も芽生える。このように、仮想空間は今や、現代の都市空間で「居場所」を喪失したカフカ的主体に、新しい平穏さを提示し、故郷の快復、復元を企図する。資本主義社会は、まさに「仮想化」を実現することで、自らを自己治癒する方策すら編み出したのである。これを近代社会の夢と陸続きである新しい「ユートピアの編成」と解釈することも可能であろう。
 最後に、マノヴィッチ自身が整理している以下の要点を抑えておこう。「空間」の質はいかに変化したのか?

1、モダニティ➡スーパーモダニティ
2、階層的なナラティブ(ツリー)➡データベース、ハイパーメディア、ネットワーク(リゾーム)
3、客観的な実在空間➡主観的に空間を選び取り、「航行の履歴」がア・ポステリオリに「空間」を形成する
4、静的な建築➡リキッド・アーキテクチャ
5、文化・社会の分析に向けた理論的モデルとしての幾何学とトポロジー➡理論的カテゴリーとしての軌道、ベクトル、フロー


 





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