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† マルセル・プルースト †

最良のプルースト入門書にして、プルーストの「小説作法論」としても非常に貴重な一冊――鈴木道彦『プルーストを読む』


プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界 (集英社新書)プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界 (集英社新書)
(2002/12/17)
鈴木 道彦

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 このページでは、文庫版『失われた時を求めて』の訳業で日本翻訳文化賞と読売文学賞を受賞した鈴木道彦氏の『プルーストを読む――『失われた時を求めて』の世界』について紹介しよう。本書はプルースト入門書として最適であるだけでなく、プルーストの小説の「方法論」について分析したひとつの「小説作法論」としても非常にl重要である。

【創造的自叙伝という新たな方法】

 イギリスのプルースト研究者で伝記作家でもあるペインターは、『失われた時を求めて』はプルーストの「自叙伝」ではなく、「虚構としての自伝」――すなわち「創造的自叙伝」だと規定している。換言すれば、そこに描出されているのは実は自画像ではなく、プルーストの「反−自画像」であり、一般的に主人公の名前として取り上げられる「マルセル」も、「マルセル・プルースト」とは全くの別人である。そもそも、「マルセル」という名前自体、語り手が仮にもしこの物語の「わたし」に名前を与えるのだとすれば〜、という「仮定」を設けた上で表現した記号に過ぎないのである。
 プルーストは1908年頃に、後に『失われた時を求めて』に変貌してゆくエッセイ「サント=ブーヴに反論する」の中で以下のように述べている。ここで、いわば彼は小説を「異なった自我の所産」として素描している。

一冊の書物は、我々が日頃の習慣や、交際や、悪癖などの中で示している自我とは異なった自我の所産である。このもう一つの自我を理解しようと思うなら、それに成功するためには自分自身の奥底に降りてゆき、自分の内部でこの自我を再創造する以外にない。(p42)


 また、鈴木氏はビュトールの「小説における人称代名詞の用法」中の以下の記述を引用している。

小説家は、望むと望まざるとに関わらず、また本人が知っていようがいまいが、自分自身の生活の諸要素から登場人物を作り上げるものだし、彼の作中人物たちは、作家がそれによって自分を語り、自分を夢見ている仮面なのだ。(p43)


 ここで興味深いのは、プルーストが作家の「想像力」について語った記述である。彼は作中で以下のように述べている。

私のこれまでの人生の過程で、現実が何度も私を失望させたのは、その現実を知覚する瞬間に、美を享受する唯一の器官である想像力が、不在のものしか人は想像できないという避けられない法則のために、その現実に適用されなかったからである。(p213)


 言うまでもなく、この記述は彼が現実をありのままにそっくり写し取って記録したような科学的な自伝ではなく、「想像力」によって現実を審美化し、異化したもの――すなわち彼の規定する「小説」――にこそ「美」を見出している点を浮き彫りにしている。つまり、この記述はペインターの言う「創造的自叙伝」の存立根拠となっている。その決定的なメルクマールこそが、他でもないアルベルチーヌである。周知のように、彼女はプルーストが「イメージ」して作り出した架空の女性である。そのモデルは元運転手で秘書をしていたプルーストお気に入りの青年アゴスチネリである。アゴスチネリはオスマン大通りの住居に一部屋を与えられていたが、1913年に突如として出奔し、翌年南フランスのアンティーブで飛行訓練中の事故死を遂げた。この「死」の哀しみがプルーストにアルベルチーヌを創造させたわけだが(「精神の力を強化するのは、悲しみのみである」)、ここで特筆すべき「異化」が生起している点に注意しよう。それは、そもそも実在モデルが男性であるという点である。そして、彼の突然の行方知らずが、「消え去ったアルベルチーヌ」として作品に取り入れられている点である。しかし、アゴスチネリの死は第一次世界大戦以後なので、当然『スワン家の方へ』には「アルベルチーヌ」の名前は登場しない。だが、これは奇妙な現象ではないか。
 そもそも、プルーストの採用したナラティブである「無意志的記憶」は、マドレーヌ効果に代表されるように、人間の意識の隠喩的構造を浮き彫りにしている。だとすれば、『スワン家の方へ』にアルベルチーヌの名前が「思い出され」ないのはどこか不思議ではないだろうか。無論、鈴木氏が述べるように事実が戦後の出来事だという点はあるが、これはむしろ「書く」ことそのものが、当初「意図」していた戦略を作家自身が知らず知らずのうちに逸脱していくという、ド・マンの言う「作者自身の盲目性」(書くことは常に構想していた筋書き・戦略素を撤回し、予期し得ない軌道を描くというもの)の一例として位置付けることもできるだろう。
 「創造的自叙伝」を、「現実の隠喩化」と言い換えた場合、作中の画家エルスチールの存在が新たな意味を帯びてくるだろう。というのは、エルスチールの絵は、ちょうど「言語における隠喩の機能」に類似したものとして捉えられているからだ。絵画であれ、文学であれ、現実の「ミメーシス」にその本質を持っている点は同様である。しかし、プルーストの場合、そのままそっくり自然に模倣するのではなく、芸術作品として成り立つように審美化を施し、「本来的なわたし」が最も語り易い世界、人物を設定する。それは現実には髭を生やしたマルクスから「髭のないマルクス」(ドゥルーズ)を作り出すようなものだ。
 また、鈴木氏は作中での「審美的体験」を以下の二つのタイプに分別している。一つは、「無意志的記憶」に繋がる「マドレーヌ体験」である。もう一つは、過去のある場面と直接結び付かなくとも、とにかく何か素晴らしい「印象」を与える「マルタンヴィル体験」(鐘塔の眺め)である。
 『失われた時を求めて』には様々なテマティックが内包されているわけだが、その中でも特に重要なテーマが「レクチュール/エクリチュール」、すなわち読むこと、書くことに関するものである。この点で、サルトルの自伝『言葉』と相関している。「書くこと」については上記で整理したので、次にプルーストの「読書について」の考えに触れてみよう。彼によれば、書物とは作家にとって「ひとつのincitation(促し)」に過ぎない。これはショーペンハウエルが『読書について』で、あるいはニーチェが『ツァラトゥストラ』で「読書する怠け者」を叱咤する点とも相関しているだろう。一冊の本が自己発見の旅である限り、プルーストにとって「読書」は常に「書く」ことに開かれた「素材」なのだ。「自分で創造を切り開かねばならない」――彼はそう強く主張する。

【シャルル・アース、あるいはシャルル・スワン】

 スワンの死について、作家は以下のように述べている。

シャルル・スワンよ、あなたが墓場に近く、しかも私がまだ幼かった頃、私はろくにあなたを知りもしなかったのだが、あなたが嘴の黄色い若造と考えておられたにちがいない男があなたをその小説の主人公にしたればこそ、ふたたびあなたは人の話題になり、またおそらく生き続けることになるのだろう。ティソの描いたロワイヤル街クラブのバルコニーの絵の中で、あなたはガリフェ、エドモン・ド・ポリニャック、サン=モーリスらにまじっておられるが、この絵に描かれたあなたのことを人があれほど噂するのは、スワンという人物のうちにあなたの特徴が認められるからなのだ。(p137)


 まことに意味深長なテクストという他ない。御存知のように、スワンのモデルはシャルル・アース(1832〜1902)という実在したユダヤ人株式仲買人の息子で、上流社交界の寵児(サラ・ベルナールを含む数知れない貴婦人たちから熱愛された)であった。アースの姿は、ジェームズ・ティソの《ロワイヤル街クラブのバルコニー》(1868)の右端に描かれている。 
 また、スワンとオデットの娘「ジルベルト」は、「ゲルマントの方」と「スワンの方」という、『失われた時を求めて』の構造上の二つのベクトルを合体した女性である。というのは、彼女はサン=ルーと結婚するからだ。

【ユダヤ人社会の分析】

 プルーストは作中で、同級生のユダヤ人ブロックを「下層ユダヤ人」の最たる特徴として描いている。また、ユダヤ人社会と同性愛がアナロジーによって相関させられてもいる。

【シャルリュス男爵について】

 プルースト自身、「ル・キュジアの経営する」如何わしい店に通っていた。こうした体験が、作中の「ジュピヤンの宿」での倒錯的な描写に反映されている。

【フランスのナショナリズムへのシニカルな態度】

 第一次世界大戦中のシャルリュス男爵はドイツ贔屓であり、サン=ルーは愛国者であるが、しかしこの二人には同じ特徴が存在する。それは、「戦争」を審美的に、芸術的に捉える特異な視座である。特にサン=ルーはフランス側に立っているにも関わらず、ドイツ軍のサイレンの音をワーグナーの《ワルキューレの騎行》になぞらえる。「パリでワーグナーを聴くためには、ドイツ軍の到来が必要なんだ」と。こうした台詞に、プルーストの戦時中での態度が隠喩的に表明されている。
 






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