† 建築学 †

龍安寺石庭の「間」とデリダのコーラ(chora)の相関性、あるいは磯崎新のデミウルゴモルフィスム(造物主義)について

ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり―10 years after Anyビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり―10 years after Any
(2010/01)
磯崎 新、浅田 彰 他

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コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)
(2004/04)
ジャック デリダ

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○ 「間=コーラ」


ティマイオスの宇宙論によれば、宇宙を構成する三原理はデミウルゴス、イデア、コーラ(リセプタクル)である。デミウルゴスは「造物主」などと訳されているが、本来の意味に近いのは「靴屋、大工のような存在」である。マルシリオ・フィチーノやアルベルティはルネサンスにおいて、このデミルゴスの特徴を「芸術家」と同一視した。グノーシスのヴァレンティノス派にとって、デミウルゴスは「永遠について、また永遠に反して嘘をつく大嘘つき」(ハロルド・ブルーム)とされ、その姿は明らかに「神の他者」に等しい。
ジャック・デリダ、ピーター・アイゼンマン、磯崎新など現代思想と現代建築を媒介する研究者たちが注目しているコーラ(chora)は、「あらゆる生成の、いわば養い親のような受容者」(プラトン『ティマイオス』)である。デリダの説明によれば、コーラとは以下のようなものである。

「それが暗に示しているものとは、運動のようなもの、つまり、揺れであり、諸力や種子の振り分け、選別、濾過というものが起こる地震なのですが、一方そのようなときでもこの場は依然動じることなく、決定されることもなく、形もなさぬままなのです」



デリダはまた、磯崎新らを交えた対談の中で、コーラを「超時間的な場所、あるいは非―場所」と捉えている。それはいわば「出来事」、「意味」が生起する前の「容器」であり、いかなる実体化された建造物でもおそらく表現不可能な根源的な、宇宙の起源に先立つ「場」である。ジュリア・クリステヴァはこれを「母胎」的に認識していたが、これは意味を母性的に限定化する行為だとして批判も多い。デミウルゴスは、コーラを発現させる作動主体であり、コーラは「意味賦与作業」に先立つ何か、その全ての意味を受容可能な空の器のようなものである。浅田彰は、コーラについて以下のように述べている。

「いったいデミウルゴスはどこへ行ってしまったのか。もしかするとコーラは、デミウルゴスの代替物として機能しているのかもしれない。だがそもそも、存在が理性の対象であり、生成が感覚の対象であるのに対し、<一種のまがいの推理>によってしか捉えられないとティマイオスのいうコーラ、このどこかフィクショナルなコーラとはいったい何か。それは、アトミストたちのいうケノン(空虚)でもなければ、アリストテレスのいう充満したトポス(場所)でもなく、部分的に占有された空間なのだ、とストア派のゼノンは言うだろう。空虚と存在の中間にあるこの謎の空間は、豊かな経験を可能にする文脈としながらもまさにそのことによって人を歴史の重みで縛りつけるトポスを解体するため、しかも均質なケノンの中に呑み込まれずに済むための、アンチトポス的あるいはアトピー的な足場となるかもしれない。だが、いかにしてか」



この末文の告白、「いかにしてか」は、コーラの捉え難さを端的に伝えている。場所でもなく、空虚でもなく、そこで出来事・意味が発生する根源的な場である非―場所=chora。これは、もしかすると建築学―現代思想の中で再現前化している、一種の神秘主義的運動ともいえるのかもしれない。コーラのそもそもの出自が、ティマイオスの宇宙論であるという点も、それを示唆しているのではないか。しかし、コーラは神秘主義というひとつの宗教的な「場」に帰属してしまうようなものではない。「場所を持たず」、いわば「場所」を「揺れ」によって生起させる根源である。
このコーラの「揺れ」をデリダは比喩的に「地震」を述べているが、それは果たして地上に生起する、例えば先の東北大震災に見受けられるような「場の抹消」、「意味の破壊」を伴うものなのか。磯崎新は『孵化過程』の中で、「都市の変貌は、巨大な亀裂からはじまる」と述べていた。「コーラの震動」の持つ意味とは、プレートの地殻変動によって大地が隆起して「場所」が誕生するように、けして人間には見えない「場所の根源」において働く「揺れ」のことなのであろうか。
実はこの「揺れ」も、『ティマイオス』において述べられているのである。浅田は以下のように続ける。

「コーラは、内に含んだ諸要素の運動によって揺さぶられ、またそれらを揺さぶり返して、ふるいのように機能するという。それがトポスの持つ創造機能――デミウルゴスとしての?――なのだ。空虚と存在の中間にあってリズミカルに振動するコーラ。唐突な連想が許されるとしたら、それは日本でいうMa<間>と共通する点を持っているのではないか」



これを受けて、磯崎が述べている「間=コーラ」についての記述は、特に興味深いところである。

「間とは、日本語において、二点間の距離、二音間の休止区間などの空白部分を指す言葉で、芸術表現の全域だけでなく、日常生活における均衡感覚などにも深く関わり、それらを解読する鍵概念となったものである。ここでは、感知される存在よりも、それらの周辺または中間に介在する空虚を注視することが要請され、その見えないものの感知には気の呼吸を介して肉体化する手段が採られている。当然ながら、ここには唯一者はない。むしろ無数の中心、そして拡散し、流動しているなかで、創造する主体は単に任意の一地点を占めるに過ぎない。たま(遊離魂)、空白の祭壇に水平移動しながら降臨するカミ(ひもろぎ)、余白を多く残した絵画、ふすま(可変性)とたたみ(互換性)に貫通された建築、指揮者を欠いた合奏、消滅へ向かうすさび(衝動)、転移の瞬間のうつろひ(注視)など、間に関わる芸術表現は、いずれも固定された主体の位置を否定し、明滅する状態にそれを追い込んでいる。
間は、間隙、距離、亀裂、ズレ、剥離、転位、境界、休止、拡散、空白、虚空のいずれでもある。そこで、J.デリダのespacement=becoming space(空間生成)に限りなく近い働きをしているとも言うことができる。
デミウルゴスとしての建築家は、この間がままならぬものとして抱え込んでいる場所(コーラ)の中でのbecoming spaceに深く関与しているが、ここで特記すべきは、産出されていく形象は一定せず、決定的なものから常に離れさせられていく。そこでその行為を記述すれば、ab-から始まる全ての言葉といった趣を呈する。すなわち、ab-dication、ab-duction、ab-erration、ab-jection、ab-negation、ab-normal、ab-omination、ab-rogation、ab-ruption、ab-scission、ab-sence、ab-surdity」



念のために、「コーラ=間」的な接頭辞ab-から始まる磯崎が列挙した単語の意味をリスト化しておこう。

ab-dication(退位、放棄、棄権)
ab-duction(誘拐、外転)
ab-erration(脱線、異常、収差)
ab-jection(下賎、卑劣)
ab-negation(拒絶、放棄)
ab-normal(病的な、異常な)
ab-omination(憎悪、忌まわしい)
ab-rogation(廃棄、廃止)
ab-ruption(剥離)
ab-scission (脱離、部分切除)
ab-sence(不在、留守、欠席、欠勤)
ab-surdity(不条理、矛盾)
 



このように、どれもがネガティブで、サスペンス映画に一回は登場してしまうような単語である。だが、例えばab-sence(不在)であるもの、権威的な思想からはab-omination(憎悪、忌まわしい)とされているもの、ab-surdity(不条理、矛盾)を孕んだもの――これらはどれも、デリダが形而上学的体系のparergon(余白)から回収し、再評価して光を照射する際に用いた戦略素そのものであることが判る。

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「間=コーラ的な場としての竜安寺、石庭」

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「平安末期に記された『作庭記』(11世紀)にも記されているように、日本庭園は海景、河景、湖景をモデル化しており、磯崎はこれを<海のメタファー>と呼んでいる」

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(北脇昇『竜安寺石庭ベクトル構造』)


浅田はまた、ディコンストラクティビズムの果てにあるものとして、やはり「間=コーラ」を見出している。

「問題は、東洋の形而上学的体系を脱構築し、<気>をそこから解き放ってやることだろう――ジャック・デリダが西洋の形而上学的体系を脱構築し、コーラをその底無しの基底として再発見したように。その時、それらは<存在の場所>でも<無の場所>でもなく、両者のはざまにあってすりぬけるplacing/spacing(間)として現れるだろう」



ここで浅田が「風水」、「気」といった東洋的な思想を再評価している点は注目に値する。ただし、彼は以下のようにも付記している。

「…フィクションがフィクションに過ぎないことが忘れられる時、それは形而上学的体系となるか、悪くすればニューエイジ・オカルティズムに堕してしまうだろう。しかし、一切のフィクションを排し、表象しえない何かをただ沈黙のうちに指し示すとしたら、それもまた否定神学的な神秘主義に陥ってしまうのではなかったか。とすれば、フィクションを――しかも可能なら複数のフィクション(デカルト的なグリッドも含めて)を、それらがテンタティブなフィクションに過ぎないことを意識しつつ、積極的に利用し、互いに衝突させることで、語りえぬものについてあえて語らねばならない。例えば、最も現代的な建築を設計するにあたって、風水というフィクションを利用してみること――ジョン・ケージが、チャンス・オペレーションのために易経を利用したように」



浅田彰は東洋の神秘主義、とりわけ「気」や「風水」に注目しているが、磯崎は『見立ての手法』でも概念化されていた「間」の操作子である「うつろひ」について、明らかに「コーラ」ともリンクさせて以下のように述べている。

「仏典に由来する<空>、老子の<虚>、すなわちこの宇宙全域に空虚が浸透していると考えられたが、古代日本ではそれを<うつ>として認識していたと思われる。<うつ>は文字通りの空洞。物体はそれが神聖視されると内部に空洞を抱え込んでいると見られた。想像された空洞である。その<うつ>に<ひ(霊)>が吸引される。仏教や道教の概念が超越的であるのに比較して、この<うつ>は具体的で即物的だった。自然界にみられる洞穴、古代住居の内部など。ここには開口部はなく、暗闇である」



この「内部の空洞に<ひ>が充満する」容器を、ティマイオス、デリダがchoraと呼称しているのであり、この概念を核にして、まさに現代思想と現代建築は深い神秘的な繋がりを見出すのである。因みに、磯崎はこの容器を「間」の中でも特に「うつろひ」と関係させ、代表的な女性アーティストとして宮脇愛子のワイヤー作品を例示している。彼女もまた、「うつろひ」の世界を表出していると解釈される。

造物主義論―デミウルゴモルフィスム造物主義論―デミウルゴモルフィスム
(1996/03)
磯崎 新

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○ デモウルゴモルフィスム(造物主義)


これは磯崎が『造物主義論』で展開した理論であるが、2010年の浅田彰との対談で再びスポットライトを浴びている。

⑴tentaive folm

「仮説的であり、実験的であり、異領域的であり、未見であり、不快感を与え、マイナーで、他者たりうるようなフォルムを創出すること。ここでは、歴史的文脈において承認されていないこと、共同体内への帰属が確定していないことが必須条件である。それだけに違和感を持ち、居心地も悪い。だが、必ずしも古典主義的言語を、一方的に排除もしない。転移、非連結、重層化などの操作によって、安易にその内包する意味を脱落させることも可能だからである。コーラに常に応答していること。それ故にtentativeであり続ける」



⑵主体・客体の互換性

「唯一者ではなく、任意の誰か(anyone)であることは、主体と客体が容易に交換可能であることを示している。そこでは他者を受け容れるだけでなく、それと同居もなされる。その関係のなかに間=主体性、共通感覚、公共性などといった概念の投入をはかるのではなく、互換性を持つ断絶状態に置くべきである。そのとき、視線の交換、主客の転倒、異文化との遭遇、異種混交といったダイナミックな視点が獲得できる。



⑶トポスの虚構化

「計画を推進する視点から見ると、今日の世界は大きく三つに仕分けできる」

A リアル

各々の歴史的コンテキストを保存してきた都市。ヨーロッパ・東洋いずれも歴史的な都市、変動の少ない定住社会。

B シュルリアル(アンリアル)

コンテキストとは無関係に、あらゆる種類の要素(古いものと新しいもの、西洋と東洋、等々)が混在させられている、東京のようなメトロポリタン都市。

C ハイパーリアル/シミュレーテッド

いかなるコンテクストも欠き、虚構と人為的技巧に基いている、ディズニーランドのようなテーマパーク都市。

「この三種に分類できる諸都市に対して、その場所の特性に応じて提案は組み替えられるだろうが、いずれにおいても見られる共通性は、意味の充満している場所が、他者の介入によって変質することで、特徴的には、事物の定着性が薄れ、浮遊状態がおこり、故郷喪失が発生し、デラシネとなり、挙句に場所が虚構化していくことである」




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