† 映画 †

「脱獄」をテーマにした二つの映画から見えてくる「自由」の概念――ジャック・ベッケル『穴』×マリウス・ホルスト『孤島の王』


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【「自由」は出口の先にはなく、実は「過程」にこそある――フランス映画の巨匠ジャック・ベッケルの遺作『穴』】

 この映画には幾つかの重要なテーマが込められている。一つは、人間同士の真の「友愛」は可能かという命題、そしてもう一つは、「自由」と「世界」についての根源的な考察である。監督のジャック・ベッケルが本作を公開した年度が第二次世界大戦後のわずか二年後の1947年という点にも注意しておこう。また、これは私が個人的に感じたことだが、同じく「監獄」という場所にいた主人公を描いたパヴェーゼの代表作『流刑』とこの映画は、明らかにテマティックの点で深く通底していると言えるだろう。
 具体的に映画を紐解いてみよう。まず、五人の囚人仲間がいる。澄んだ眼差しの青年ガスパール、脱獄のプロとして知られるロラン、裏切りを許さない静かな男マニュを含め、彼らは8棟26号にいる囚人たちであり、この映画の主人公たちである。監獄では定期的に差し入れ検査があり、外部から送られてきたパンでも中身をナイフで確認されるなど、非常に厳しいチェック体制である。彼らのいる26号は狭い部屋で、共同用の簡易トイレが一つ、まさにかろうじて横に並んで眠れる程度のスペースである。彼らは紙箱を制作するだけの単純作業に従事している。そして、ほぼ全員が今後も続く「幽閉生活」に内心では絶望していた。
 脱獄への意志はいわば必然であろう。彼らは小部屋の床の板を外して「穴」を掘り始める。四人交替で作業し、一人は潜望鏡(棒に鏡の破片を装着した道具)で監視の眼をチェックする。ここで重要なのは、「脱出」しようと躍起になっているこの時の彼らは、確かに「生きている」ということだ。それは危険と緊張と不安の連続だが、だからこそ彼らは「生」を濃密に感じ取っているのである。
 囚人室にできた「穴」は以下のように「外部」を目指そうとするだろう。つまり、地下通路から鉄格子、地下倉庫、地下道、地下水道である。このルートを確立するために、彼らは鉄のテーブルの中に隠していた糸ノコギリで鉄格子を切断したり、やすりで削って合鍵を作ったりしている。まさに、「脱出」するために必要な試練である。地下水堂のセメントの壁も二、三日で貫通できると判断した彼らは、ボトル二本で30分用の砂時計を作る。そして、巡回監視の眼を免れるための人形を作り、穴掘り役二人が戻る時の合図には、足につけた紐で見張りに知らせるなどの工夫をこらす。
 この映画は「外部」に脱出するという「生きる目的」のために大部分が割かれている。それだけに、脱出した際に現前する光景の静謐さは、観客の眼を釘付けにし、「世界」とは何かの意味の実相を告知するだろう。それは、平凡なありふれた朝の街路に過ぎなかった。鐘の音、タクシー、並んだ車、マンホール……街路である。だが、それを目にしたマニュとガスパールは圧倒的な「自由」を噛み締める。そして、彼らには「穴」を穿ち、「外部」に達したことで連帯された「友愛」の感覚が共有される。
 直後、ガスパールは無実になって「釈放」されることになる。そして、その際の会話で所長に脱出計画を密告したことを仲間たちから疑われることになる。結局、彼らは「友愛」によってガスパールを信じることにする。ところが、いざ脱出しようとした刹那、マグリットの匿名的な紳士たちの群れのように凝集した無表情な監視の「眼」が彼らを捉える。全員が捕縛され、ガスパールは「裏切り者」の烙印を捺される(しかし、実際には彼は裏切っていないだろう)。最後に午前八時の教会の鐘が監獄の中で鳴って、この映画は終わる……。
 ラストの「哀れだな……」という絶望的な台詞にあるように、この映画は「偉大な脱走劇」ではない。男性同士の友愛、絆、共通理念、夢、外部の神話などは、木っ端微塵に粉砕される。ベッケルの本作は、まさにこうした一連のプロセスを、現代人の「日常生活」の隠喩として提示してみせた力業にこそ最大の魅力があると言えるだろう。これは単なる囚人の失敗談などではない。そうではなくて、これはカフカ的な現代の「寓話」なのだ。「外部」は永久に実現されず、「穴」はどこまでも続いていく。それがベッケルの提示した恐るべき「世界」であり、我々が生きるこの「現実」のひとつの解釈なのだ。この点で、本作はパヴェーゼの『流刑』の主人公が「監獄」を出る前日譚として読むことも可能だろう。パヴェーゼの主体もまた、監獄を出たのにも関わらず、日常に「見えない監獄」が屹立していることに苛まれている。そして、「自由」とは、監獄を出る日に廊下から見た空であり、その空を見ている時に感じた強烈な「生命感覚」を意味していた。ベッケルの『穴』もまた、「自由」は逆説的にも「出口を目指して穴を開通している作業過程」の内にこそ見出されるのである。すなわち、「自由」は「出口の先」にはなく、実は「過程」にあるのだ。何かを信じて一つの行為に夢中になること――それこそが、戦争で荒廃したヨーロッパの人々にとっての新しい現実認識だったのではないだろうか。


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【真の「脱獄」とは「規則」の遵守である――ノルウェー映画界の若き鬼才マリウス・ホルスト『孤島の王』】

 数々の賞に輝いたマリウス・ホルスト監督による『孤島の王』(2010)もまた、監獄の島に囚われた少年たちの脱走を生々しく描いた名作である。だが、私はこの映画を観ていて、ふとある違和感を抱いた。これは実話を基にしている映画だが、それを踏まえた上でも、観ている時に感じた何か曰く言い難い違和感については言及しておかねばならない。
 舞台は1915年の北国ノルウェーの、フィヨルドに存在しているバストイ島である。主人公は二人いて、一人は新入りのエーリング、もう一人は11歳の頃から収容されている模範囚オーラヴである。この映画は、島の厳格な規則への「抵抗」を描いている。厳しく不条理な監獄生活を現実社会の荒波のメタファーとして解釈することもできるし、シリアスな少年同士の友愛、絆をテーマにしていると捉えることもできる。だが、少なくとも見落としてはならないのは、この映画での「寮長」の描写である。一度視聴すれば判るだろうが、寮長はけして「悪人」として描かれてはいない。この蛇のような眼をした俳優に憎まれ役が当てられているのは事実だろうが、少なくとも気弱な少年に対する「男色」の罪は、寮長が真顔で弁明していたように、ある種の「慰め方」であったとも想像できる。また、模範囚オーラヴが晴れて島を卒院する日に、寮長に対して見せた態度も私には甚だしく愚かしいものという他なかった。寮長はこの時点で、オーラヴに対して純真に「卒院おめでとう」と言ったはずであるし、演出上にも他の悪意ある意図は感じられなかった。オーラヴが握手を拒絶したことに対して、寮長が彼を囚人番号で呼び返すという言動も、寮長からすれば遺憾であったに違いない。私がこの映画を観ていて感じたのは、監督が「事実」を囚人たちの側に感情移入できるように演出しているという点であり、その割りには、奇妙にも寮長を完全な悪人として描き切れていない点である。
 映画を最初から最後まで観終わった時点で、少なくとも悪の権化のように少年たちから忌み嫌われていた寮長に、私は何か最も印象的なものを感じた。この男は、自身が認めるように、権力の犬である。支配関係の秩序を心得、上司の命令には忠実であり、現ポジションから獲得できる「蜜」をそれなりに愉悦するだけの欲望も兼ね揃えている――いわば何処にでもいる平凡な中年男性に過ぎない。彼は「仕事」で、規則に背く反抗的な囚人たちを罰しているのであって、それは彼の上司も同様である。そして、この上司であるステラン・スカルツガルト演じる島の王も、実は政府の一介の役人に過ぎず、上にはやはり上がいるわけである。寮長は、いわば国家権力が不可避的に帯びる「支配の正当化原理」(P・ブルデュー)の擬人化であり、彼に少年たちが憎しみを抱くのは、むしろ少年たちが未だ「権力関係」について肌身で理解していないからに過ぎない。その証拠に、島内で「模範囚」として評価されている少年たちは、皆一様に「規則」に忠実であり、その規則の範囲内でそれなりの楽しみを持っている。ただ、規則から逸脱することしかできない「性向」も「出自」も劣悪な少年のみが、この映画の「英雄」であるかのように描出されている点に、まず私は本質的な違和感を抱いたのだった。 
 無論、映画は上演され、事実を審美化したものである限り、そこに映画の限界を見て取ることも可能だろう。また、私は別に寮長が少年に対して行っていたであろう性的な行為を正当化するつもりもない。ただ、以下の点だけを指摘するに留めておこう。すなわち、島内の規則の範囲内では、寮長が弱い存在を性的に搾取することは常に可能だったのであり、そのような幹部たちの怠慢を容認するような特質が、既にこの島の支配システムそれ自体を巣食っていたのだ、と。
 次に、模範囚とされた少年オーラヴに対する違和感に話題を進めよう。この少年は、当初我々が最も感情移入し易い登場人物として描き出されていたはずだった。だが、彼は性向の悪い新入りのエーリングに煽てられる形で、いわば「島の内乱」に加担することになってしまう。それも、卒院式の日、船出する直前に寮長をわざわざ「殴りに行く」という狂乱ぶりである。オーラヴほど「規則」に嵌れる少年であれば、出所してから出世して寮長を支配下に置くことさえ可能だったはずだろう。この辺りの演出にも、やはり形骸化したアンシャン・レジームを、「良心的で素朴な市民」の代表が革命的に転覆させるという、ある種の審美化の原理の縮図が見出される。島の武力を全て持ち寄っても、政府の軍事力に叶うはずがないのだから、この「革命」は最初から失敗に至ることが約束されている。
 この映画において可視化されるのは、映画人口が一般的に「弱き者の味方」という使い古された規則に忠実である点である。その点で、この映画は恐ろしく形式主義的、かつ画一的なストーリーにまで還元されている。だが、実際、生き延びるためには少年は「規則」を学習しなければならない。そして、「規則」の範囲内で「快楽」を得ることは、おそらく寮長の隠された信条でもあったろうが、これは上司から厳しく叱責され、解雇されるほどの問題にまで発展しているので、そもそも「規則」外の行為であったと考えられる。つまり、寮長も規則から逸脱していたわけである。このように、本作では徹底的に「規則」が神聖視されつつ、誰一人それを守ることができないという人間存在のパラドクスを提示してみせた点にこそ、その真の価値があると言えるだろう。


 












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