† 美学 †

プルーストが愛した少年の一人エドガー・オベールの「写真の裏側」の謎――ジョルジョ・アガンベンの小さな写真論「最後の審判」(『瀆神』所収)について

ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール撮影「パリ、タンプル大通り」 1838年
ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール「パリ、タンプル大通り」 1838年

 現代イタリアを代表する美学者ジョルジョ・アガンベンは『瀆神』所収の「審判の日」の中で、ダゲールの「タンプル大通り」のダゲレオタイプを「最後の審判」のイメージとして読んでいる。この写真には「天使の潜勢力」が秘められているという。それは平凡なパリの街並であり、無名の、今ではほぼ忘れ去られた人々が黒い点のように写っている。アガンベンは彼らが「名前」を要求していると述べている。なぜなら、「名前」は根源的な暴力にもなり得るが、「存在の証明」という肯定的なものでもあるからだ。
 アガンベンは本書で、自分の書斎について以下のような黙示録的なテクストを綴っている。

(わたしが仕事をしている書斎の、机のわきの家具の上に、いつも厳しい眼でわたしを見つめているようにみえるブラジル人少女の顔の――これはこれできわめて有名な――写真が置いてあるが、わたしは絶対そうだと確信している、今日わたしを裁いているのは彼女であり、最後の日にわたしを裁くのも彼女だろう、と)。(p36)


 そのブラジル人少女の写真は、彼にとって「贖罪の要求」である。それは写真についてのひとつの「解釈」である。また、アガンベンは同論稿でプルーストが愛した少年の一人エドガー・オベールの「写真の裏側」について言及している。そこには、"Look at my face: my name is Might Have Been; I am also called No More, Too Late, Farewell."(わたしの顔を見よ。わたしの名は「そうだったかもしれない」である。「もはやない」、「遅すぎる」、「さらば」とも呼ばれている)と記されている。このテクストは、まさにダゲールの「タンプル大通り」における無名の人々――彼らは我々でもある――を意味している。というより、このプルーストの言葉こそ、「写真」の本質を意味していると考えることが可能だろう。




「参考文献」


涜神涜神
(2014/01)
ジョルジョ アガンベン

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