† 展覧会 †

「イメージは鑑賞者なしには成立しない」――《フィオナ・タン まなざしの詩学》(東京都写真美術館)の記録

(C) FionaTan Inventory のコ
(C)FionaTan Inventory

 このページでは、現在多くの研究者から多大な注目を集めている、東京都写真美術館で開催中の《フィオナ・タン まなざしの詩学》展の記録を掲載する。

『影の王国』(2000)ドキュメンタリー、50分

 フィオナ・タンが写真家や写真に特別な感情を寄せる人々を中心に取材したドキュメンタリー作品。
 幾つか重要な概念が提示されていた。

⑴「偶然性」

 写真は狙いを定めて撮影するものだが、フィオナは「偶然映り込んだもの」に特別なものを感じている。不本意な形で写真に挿入されてしまったもの。世界の「生」の姿を露顕させたものとしての写真。

⑵「写真=イメージ」

 写真は視覚的な「事実」ではあるが、同時にそれは虚構としてのイメージでもある。写真を即座に「客観的事実」と解釈してしまうのではなく、むしろ写真に対する「意味賦与作用」(フッサール)こそが重要である。換言すれば、幾つかの写真を並べ立ててディスプレイを変更しただけでも、写真は新たな「事実」を獲得するに至る。この点で、写真は「イメージ」の源泉であり、「事実」そのものではない。写真における意味を常に宙吊りにされた、アモルフなものとして規定すること。解釈次第で、その写真は斬新な意味も帯びるし、引き出しの奥に封印されもする。「イメージは鑑賞者なしには成立しない」、とフィオナは言う。写真の意味を事実化する主体は常に「鑑賞者」である。

⑶「断片性」

 写真は世界の「断片」であり、全体像を復元することはできない。この点で、写真は人間の知覚と相関的でもある。写真の写し方、方法論は人によって千差万別だが、これは事物の「見え方」そのもの、事物への「意味賦与作用」がそれぞれ個別化されているからである。個々の解釈によって写真は生まれる。そして、「断片」的に世界を「収集」することのできるメディアでもある。

⑷「虚構化」

 本作には、鏡を持って歩く人が幾度となく撮影されている。映像を流れるのは鏡面に映る車道である。これは一種のメタ言語的な実践とも考えられる。つまり、映像の本質とは、歩行による「揺らぎ」のようなものを常に帯びたメディアであり、そこでは事実は常に「虚構化」される。本来の車道はけして揺れていないが、鏡面の映像では揺れ続ける。この「揺らぎ」こそ、映像・写真と実在する世界との差異である。

『興味深い時代を生きますように』(1997)ドキュメンタリー、60分

 フィオナ・タンが自身の血脈を辿った旅のドキュメンタリー。
 自分とは何か、identityを確立することの不可能性がテーマになる。フィオナの家系は華僑(「黄色いユダヤ人」)に由来するタン一族であり、彼女の近親者には世界中に散らばる中国系の富裕層が多い。中国人の父は西洋にリベラルな家庭に育ち、母はメルボルン大学で彼に出会った白人である。この作品には、中国のファミリーに非常に親密に接待されながらも、西洋人への根深い憧憬のためにけして中国に同化できない苦しみ・痛みが前景化している。彼女の視点は西洋的に中国を捉えており、あくまで他者として扱っている。「文化とは宮廷であり、監獄だ」と述べるフィオナにとって、真の「居場所」は常に不在のままだ。こうした民族的なハイブリットゆえの苦しみは、プラハで暮らしドイツ語で小説を書いていたユダヤ人であるフランツ・カフカにおけるidentityの不可能性、その形象としての『城』や『アメリカ』にも通底するものである。

『インヴェントリー』(2012)ヴィデオ・インスタレーション

 ジョン・ソーン博物館に展示されている複数のオブジェを多視点的に、大小六つのスクリーンで映し出している。
 この作品はフィオナ自身の「作品鑑賞行為」、つまり「見る」ことそのものをテーマにしている。とはいえ、スクリーンそれぞれには微妙な映像の質的差異が見受けられ、おそらく複数の鑑賞者の「見る」行為それ自体を追認しているとも考えられる。一つのオブジェに視点が集まると、それとは別の角度から同じオブジェが映し出される。それらは全て、「見る」とは何か? に対するフィオナの解釈として機能している。特に、写真のように「ある一つの空間・時間を切り取る二次元のメディア」とは異なり、映像では様々な角度から「流れ」として映し出すことができる。とはいえ、視点が滑らかに連続して移り変わることはなく、六つのスクリーンはどれも間歇的・断片的に博物館を「再構成」する。

『プロヴィナンス』(2009)、ディジタル・インスタレーション

 モノクロの映像で、六名前後の男女の日常の「断片」が映し出されている。いわば「動く写真」。読書する老人から、部屋のブランコで気晴らしをする少女、母に抱かれながら眠る少年、憂い顔でノートパソコンを見つめる女性など、彼らはそれぞれの「日常=断片」を生きている。映像は限りなく写真的に構成されている。

『リフト』(2000)、シルクスクリーン

 この作品は、『興味深い時代を生きますように』(1997)の三年後に制作されているが、ある種の「居場所」についての省察として解釈することができる。フィオナは自分のルーツを探る旅をして、結果的に「identityを証明することの不可能性」に到達した。結果として、彼女は浮遊する=「風船に乗って地上を乖離する」。気球のようなマシンではなく、「風船」であることは意味深長であろう。それは鳥の群れが横切るだけで「破裂する」。つまり、空に見出したはずの最後の居場所も、結局は一過性の儚い夢幻に過ぎないことを暗示させる。どこまで行っても「自己の居場所」など存在せず、人間は永遠に「ユダヤ的な流浪」を繰り返すことになる。


「本展を鑑賞して考えたこと」


 幾つかの明確な問いが浮上した。まず、絵画と写真の差異の問題。写真と映像の差異の問題。そして、人間の知覚行為と写真・映像のアナロジーの問題である。フィオナ・タンはこの中でも、特に「映像」と「写真」のあいだを往復しているように思われる。マルセル・ブロータースのように高度に抽象的かつコンセプチュアルな映像作品ではなく、フィオナの制作する映像はどれも明確に「意図」を持っている。例えば、「居場所の不在」、「鑑賞行為」など。そして今回は特に、フィオナ・タン自身の「自分とは何者なのか?」という問いの切実さが印象的だった。これは東京のように全てが記号的に構成された匿名的な大都市で生きる都会人にも共有できるテーマである。つまり、「自分とは何者なのか? それを探るためにはいかなる〈文法〉が必要なのか?」。この問いに、フィオナは「映像」で応答している。
 
(2014.7.26鑑賞)









 
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