† キリスト教神学 †

ペトロ・ネメシェギ著『キリスト教とは何か』

レオナルド《岩窟の聖母》ナショナル・ギャラリー


*洗礼志願期間に勉強した記録を再掲載します*

これから、シスターさまが貸してくださった本から、洗礼前の集中学習を開始する。

ペトロ・ネメシェギ著『キリスト教とは何か』 

「イザヤは神に向って、“まことにあなたは御自分を隠される神”と叫び、詩篇も“主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく”と祈っています。
アウグスティヌスがいみじくも説明しているように、神が御自分を隠しておられるのは、人に御自分を探させるためであり、また神が無限であるのは、いったん神を見出した人に、いつまでも神を探し続けさせるためです。」



私が考えていたPage Not Found=アゲネートスなどという安直な定式は、この一文で終幕する。
神を見出しても、神を探し続けること、これが大切だと書かれている。

愛敵に関する記述もある。
汝の敵を愛しなさい、とはイエズスの教えである。
私が思うことは、すぐに考えることだが、例えばアウシュヴィッツでユダヤ人をガス室へと運ぶ人間を、果たして愛することができるか、ということだ。
不可能である。
ただ、救いを求めて祈ることしかできないはずだ。
「神の沈黙」といわれているが、計り知れないほどの巨悪を前にして、その悪である敵を愛すること……これは、何という難しいテーマなのだろうか。
今の平穏な暮らしを感謝して、慎み深く、多くの隣人を愛する人になりたい。

私が思うことは、カトリックの教えとズレないことだと思うのだが、イエズスは「人」というよりも、「神」であるということである。
御子は、御父が受肉された姿であるので、イエズスを「人」として扱う、いわゆる史的解釈、本当はイエズスがこういう人だったなどという様々な現代からの解釈は、正統的な解釈からズレるのではないだろうか。

イエズスの教えは、御父の教えなので、「イエズスという一人の男性が何かを説教しました」というような人間的な次元からでは解釈できないのである。
聖書の読み方も同じで、一般の人は研究のために解釈したりするが、カトリックでは、聖書は「信仰のための本」であって、信仰から通して書かれてあるのである。
だから、私が洗礼を受けることで、ようやく「信仰のための本」として、自分のこととして、読むことができるようになるというわけだ。

人間にとっての不幸は、神の愛を信じないことである。
ここで、はっきりと「神は愛である」と書かれている。
神は愛なのだ。
ということは、神が死ぬことは、不可能なわけなのだ。
愛のあるところに神がある。
愛する対象がいない場合はどうなるのだろうか?
そもそも、そんなことがありうるだろうか?
例えば、私は「神は死んだ」といったニーチェを愛している。
ハイデガーのデモーニッシュな霊性を含めて、彼を一人の迷える子羊として愛している。
「作家を愛する」ことも、実は愛なのだ。

恋人がいないから寂しくて、俺は孤独だ。俺は神など知らないのだ!

このように考える前に、少し待ってみよう。
教会にいる人たち、彼らは、皆、私を愛してくださっている。
私も彼らを愛しているし、そこに神はいるはずだ。
だから、「神の死」は、要するに愛を忘れている瞬間の詩人の叫びのようなものだ。

アウシュヴィッツの後にも、愛はある。

だから、神は死んだわけではない。
この点で、ラクー‐ラバルトはキリスト教を誤解している。
アウシュヴィッツで起きたことは悪だが、それで神が死ぬことはない。
何故なら、人が愛するところに、神は有るからだ。

私の愛は、シスターさまや神父さま、それに沢山の信徒さんがたと結び付いている。
特に、いつもお世話になっているシスターさまには、感謝している。
シスターさまは、私を愛してくださっている。
それだけで、私は優しい青年になりたい、と心から思えるのだ。
愛を忘れないようにしよう。

一週間に一度しかミサがなくても、私を愛してくださっている人は、沢山いるのだ。

ボルヘスを私が愛しているのも、実は神が愛であることと同じだ。
ボルヘスは既に逝去されておられるが、私は彼の作品に敬愛の念を寄せ、彼を尊敬している。
「ボルヘスを愛する」ことも、例えば日常生活で他の人から冷たいことをいわれたような場合、愛が覚醒する瞬間なのだ。
愛は、実は世界中に沢山ある。
別に、恋愛ドラマ風の愛だけが神の愛なのではない。
花への愛、小鳥への愛、子犬への愛、雲への愛、絵への愛、沢山ある。
愛するものを沢山持てば、それだけ神さまに近づけるかもしれない。
神さまの道から外れないようなもの。

奇跡」は、「しるし」である。
イエズスの奇跡を信じられない人がいるが、これは本当は「しるし」であって、全ては何らかの教えの暗喩なのだ。
イエスを通して人に向けられた神の言葉を信頼するよう、人を招くもの」だ。
けれども、これは新約を読めば、実はそうだと気付くこともできるはずだ。
というのは、例えばイエスが嵐を沈めて凪にする箇所がある。
これは現代人から「胡散臭い」といわれるかもしれない。
だが、実はこれは、そういう意味で書かれていない。
これは、「嵐のような荒々しい感情を捨て、凪のように穏やかな優しい青年になりなさい」という意味だと思う。
私はイエスの奇跡を全て教えの暗喩として読んでいた。
ここでネメシェギ氏も同じ解釈をしておられる。

イエスの愛は、愛の頂点だ。
愛は、友のために命を捨てる、というところまで向った。

「彼の死は二重の愛の頂点なのです。イエスの死こそ神の愛を完全に表しています。十字架上で死ぬ時にこそ、神の御子とは一体どのような者であるか、ということが表れました」



二重の愛(愛にという不滅の福音を告げ知らせ、そして人類への愛ゆえに御受難にさえ合われたということ、この二つの愛の最高形式であるキリスト)……何か想起しないだろうか、そう、デリダの贈与論だ。
アブラハムは、最愛の息子イサクを捧げよ、と神にいわれた。
そして、イサクの命を神に捧げようとした瞬間、それが神によって止められる。
アブラハムは無論、懊悩していた。
しかし、彼は神に忠実であることを示そうとした。
「死」によって、神のアブラハムへの愛と、息子イサクが還ってくる、という二重の愛が示されている。
キェルケゴールやデリダが論じた有名なエピソードだ。

イエスの死は、「イエスの死を与えることで、逆説的に人類への最大の愛を贈与する」という、神の二重の御業の賜物ではないだろうか。

だが、イエスは死んだのではなかった。
復活したのだ。
これは、何と言う愕くべき概念だろうか!
復活」である。
神は、「イエスの死を人類に贈与することで、愛の最高形式を世界に到来させた」。
そして、それだけで終わらせずに、イエスを「復活」させたのだ。
これは、どういうことか。
イエスの教えが不滅であることだろうか。

イエスの復活を信じることは、キリスト者の信仰の真髄です」とある。
もしも、イエスが復活していなければ、神の教えは、イエスの死を持って終わってしまうのだろうか。
イエスの「復活」は、「キリストはもはや死ぬことがない」ということである。
神は死ではなく、愛を愛しておられる。
だから、神はイエスを復活させたのだ。
愛が不滅であることを証した。
それは、「救い」だ。

「イエスが体をもって復活したという教えは、十字架上で死んだイエスと、復活したイエスとが同じ一人の人物であるということを明らかにするのです。ナザレのイエス、神と人々に対する純粋な愛の具現としてわたしたちの間に生活し、その愛の証人として死んだイエスこそ、今、復活した主として永遠に生きているのです」



ネメシェギ氏はそう語る。

神の死は、感性論の問題である。

神は愛なので、愛あるところに神はあり、したがって死ぬことはない。

愛から遠ざかろうとすることは不幸である。
そして、愛そのものであるキリストの死は、復活という希望の光によって、「永遠」に教えが存続することの証明である。

死の後には、復活がある。

私も、死ねば、シスターさまと同じところへ行けるのだ。
それは何という素晴らしいことだろうか!
死の後で、私たち信徒は、再び優しくて美しい天国で会えるのだ。
愛は不滅なのだ。

「人類史全体の目的は、イエスを通して聖霊の助けによって、すべての人間が自由に神の愛を信じ、神の愛に心を合わせて、愛のうちに生きるようになるということです。」



イエスは、単なる「人」ではない。
彼は確かに人なのだが、神の教えそのものの受肉なのだ。
つまり、イエスの口から出ることは、全て神の御意志なのだ。

「イエスは父なる神と同一の方ではありません」



ここで大切なのは、聖三位一体論だろう。
父なる神、子なるキリスト、聖霊、これらは三位一体なのだ。

ネメシェギ氏は、「受肉」について、こういう。

「それは、一人の男性の人生において、神の御子であることの本質、すなわち、すべてを父なる神から受け、すべてを父なる神に返すという本質を、人間の次元で展開し、すべての人を御自分の子たる身分にあずからせるためでした」



みことば」が、イエスに受肉したのである。
「みことば」は神であり、イエスはその受肉した姿なのだ。
イエスは、愛を伝えるために世界に来てくださった。
イエスは神と同一ではないが、神と一体なのだ。
つまり、三つの位において、それらは正三角形のそれぞれの頂点のように、一体となって形を作っているのである。
どれも欠けてはならないし、イエスの教えが神の「みことば」そのものであることには変わらない。

神は一体であるが、その存在は、三つの位格(父と子と聖霊)の永遠の関係から成り立つ。

私は思うのだが、「キリスト教は弱い人のための宗教だと思います」という人は、何か誤解していると思う。
「弱い人」というのは、特定の人ではなくて、人類のことなのだから。
「悩んでいる人のカウンセラー」のような先入観で、教会を考えている人は、何も知らないのだと思う。
日本では、特にキリスト教について何も知らない人が多すぎると思う。
彼らがキリスト教とは…などと語ること自体、私は「信徒でないのに何故語れるのだろうか?」と思うのだ。

カトリックであることは、生きることそのものであって、「宗教」でさえないと思う。
宗教という言葉に対して、日本人のような無神論者は、過敏に「なにか如何わしい」などと考え込みやすい。
彼らは、こんな素晴らしい教えを知らないわけだから、私は彼らが「可哀想だ」といいたい。
とりわけ、私は、アウシュヴィッツで起きたことを哲学的に深く研究しているような人間でもない限り、「キリスト教は如何わしい。そんなものは現代には通用しない」ということはできないと思う。
そして、先述したが、神は愛なのであり、愛は神なのであるから、神が死ぬわけがないのだ。
付け焼刃の知識で、「キリスト教は…」と語れる人が、どこにいるのだろうか?
私は、そういう点では、日本人らしくないのかもしれない。
だが、私の人生において、カトリックであることは、最高の幸せである。
カトリックであること、それは私の誇りであり、唯一最大の悦びである。

今後、私はきっと多様な次元で「反キリスト者」に出会うだろう。
だが、私は、実は、既に心に決めている。

“私は彼らに何も反論しないでおこう”と。

彼らの生き方は、彼らの生き方だ。
どれほど福音を告げても、全ては本人次第である。

私は彼らと喧嘩する気もないし、水掛け論をする気もない。
イエズスさまとマリアさま、そして全ての信徒さんたち、シスターさま、神父さまたちに申し訳ないからだ。
だから、私は、「沈黙」を守る。
「反キリスト者」は、日本各地、どこにでもいる。
どれほど素晴らしい業績のある人でも、よくその思想を見ると、キリストの教えと逸脱している人など、いくらでもいる。
だが、彼らを「拒む」ことをしてはならない。
彼らを愛するのだ。
そういう彼らをこそ、愛するのだ。
沈黙しながら、静かに、彼らを受け入れてあげよう。

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