† ポール・ド・マン †

あらゆる「私小説」はなぜ虚構化するのか?――ルソーの「マリオン事件」についてのポール・ド・マンの分析

 Gustav Oehme in 1843 ベルリンの少女たち
1843 Carl Gustav Oehme trois fillettes berlin daguerréotype

【知られざるルソーの罪「マリオン事件」】


 ルソーには周知のように以下のような有名なエピソードが存在している。彼はかつてとある邸宅でリボンを盗んだことがあったが、その罪を同じ使用人の少女マリオンになすりつけ、マリオンはこれによって解雇されてしまう。その際、ルソーは自著の中で当時を回想しながら、リボンを盗んだのはマリオンのことが「好きだった」からと告白している。この奇妙なapology(弁明)にはこれまで多くの研究者が注目してきたが、その中でもデリダとド・マンの解釈が最も印象的である。ド・マンはルソーが「告白」という形式で自身の罪とその悔恨を「上演」していることに厳しい眼差しを向け、その「自己露出の享楽」を「真に恥ずべきもの」と批判した。ここで批判の対象になっているのはルソーが犯した罪を、自ら言語化し、その弁解として「好きだった」という真偽の程が誰にも検証できない情で訴えようとしている点である。つまり、ド・マンはルソーの「人道性」に首を傾げているのであり、少女マリオンはルソーの犯した罪悪によって解雇されてしまっただけでなく、ルソーの著作によって言語的にも陵辱されてしまったというのだ。
 そもそも、ルソーは本当にマリオンを愛していたのだろうか? もし愛していたとすれば、なぜ窃盗の罪を彼女に擦り付けたのだろうか? 事実報告を雇用主に求められて、咄嗟にたまたま浮かんだ言葉として、なぜ「マリオン」という名前をあえて用いたのだろうか? 既にマリオンは窃盗犯として解雇されてしまっているが、後にルソーはこの事件を回想して、自ら弁明を試みている。この際、ルソーはconstative(事実確認的)な言語を用いたと言えるのだろうか? そこに巧妙にperformative(行為遂行的)な発話を挿入したのは明らかである。つまり、より我々読者が共感できるように、窃盗の理由を劇化し、「好きだった」という要素を付け加えたとも考えられる。いずれにしても、ルソーにおける自己弁明はいつの間にか「自己上演」と化している。ここには、constativeな言語の次元からperformativeな次元へのmodulate(移調)が見出されるだろう。modulateとは、単なるmove(移行)ではなく、重点そのものの移動である。そして、こうした特徴こそあらゆる「告白」のエクリチュールの本質でもあるだろう。
 ここで一度ルソーの挿話から離れて、我々は巷の書店に陳列されている「自伝」や「回想記」、「告白録」の形式を持つ一般書に眼を向けてみよう。あるいは、文学的には「私小説」のカテゴリーに入る小説作品を対象にしても良い。これらの「自己言及」を含む全てのテクストには、ルソーと同じように必然的に「自己上演」的な要素が含有されている。やや大袈裟に言うことを赦されるならば、あらゆる私小説にはルソー的な「露悪症」のきらいがあるとも言えるだろう。ルソーの弁明のように、一つの構文が幾つもの解釈の地平を開いていく場合、修辞学ではこれをanacoluthon(アナコルソン/破格構文)という。
 実は、この「盗まれたリボン」の挿話には、言語、フィクションという概念について考察するための重要なポイントが全て揃っている。デリダとド・マンがこの奇妙な弁明を分析したのも、この分析を通じて「言語」それ自体の本質が摘出できると考えたためだろう。「フィクション」というテーマでこのエピソードを捉えた時、我々はある根本的な問いに直面することになる。
 そもそも、マリオンは本当に実在していたのだろうか? 少女マリオンは、実はルソーが著作で自分の犯した罪を「正当化/審美化」するために「捏造」した架空の存在(空虚なシニフィアン)ではないのだろうか? 仮にマリオンが実在していたとしても、ルソーのこの告白はヘルダーリンが規定した「無垢なもの」としてのフィクションでは最早なく、実際に「害を与えたフィクション」(現にマリオンは解雇された)である。ここで可視化するのは、現実の虚構化はどれ程客観的に事物を正確に記述しようとしても、常に生起しているという点である。より正確に言えば、事物について何かを報告しようとすることは、既にその事物をある解釈に基づいて意味賦与していることなのである。
 なるほど、「好きだった」というルソーの弁解は確かに最強のものである。だが、それは同時に「弁解の不可能性」を提示してもいる。ルソーにおける「弁解」とは、犯した罪を取り除くために新たな罪を犯して自らの罪を隠蔽してしまう点に特徴があるわけだが、これこそ言語がexcuse-machine(弁解機械)というメタファーで表現される最大の理由である。言語に内在するexcuse-machineは、作者の意図とは無関係に、虚構化という罪を犯し続けるようプログラムされている。ルソーは「言語」(あるいは彼が所有する「文体」、「レトリック」などの文学資本)によって嘘をつくように仕向けられた、とも言えるのだ。ここでも、ド・マンのAllegoryの概念が呼び起こされる。Allegoryとは、「あるもの」が、常に「別のもの」を指示してしまうという、言語そのものの隠喩的構造に力点が置かれている。ルソーの挿話におけるapologyも、allegoricalな現象なのだ。
 ここで我々は一度、大江健三郎のレイト・ワークの「標題」に眼を向けてみよう。周知のように、大江は自身の小説を仕上げるたびに、奇妙にも「これで最後の」という意味合いを込めてきた。例えば、『最後の小説』、『さようなら、私の本よ!』、『晩年様式集』などである。よくよく考えてみれば、これはどこか奇妙なタイトルであろう。おそらく、大江は自分の「最後の小説」が何になっても良いように、その都度決定的なピリオドに相応しいタイトルを着想しているのだろうが、実際には作家自身が存命であることによって、このタイトルの「意図」が行為遂行的に「裏切られ」続けている。すなわち、大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』というタイトルは、作家の存命によって「事実」にはなりえず、performativeな次元へと開かれているのだ。この「未決性」は、大江健三郎の持ち味である「道化の手法」の一様態であるとも考えられる。いわば、「最後の言葉」も「続き」を持つ開かれたコンテクストへと組み込まれていくのだ。あるいは、「最後の小説」という自己制限をあえて設けることで、その制限を自ら裏切る一種の「自己侵犯」の欲望に身を委ねているのかもしれない。これは、まさに「書くことの快楽」そのものの原理である。







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