† 映画 †

トレバー・レズニックとは誰だったのか?――ブラッド・アンダーソンのサスペンス・スリラー映画『マシニスト』を解体する


マシニスト [DVD]マシニスト [DVD]
(2005/09/22)
クリスチャン・ベール、ジェニファー・ジェイソン・リー 他

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 カンヌ国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭などのヨーロッパの名立たる賞を何も受賞していないにも関わらず、ミニシアター系の映画には時に個人的に深い印象を与える作品というものが存在する。ブラッド・アンダーソンのサスペンス・スリラー映画『マシニスト』(原題: The Machinist)は、まさにそんな映画である。
 メイキング映像にもあるように、この映画は7月から8月にかけて、バルセロナのうだるように暑い夏にわずか40日間という制限下で集中的に撮影された。アメリカの俳優を使っているが、製作会社はスペインである。そして、本作の舞台はロサンゼルスという設定だが、実際はバルセロナをロスに似せて撮影したという。主演を務めたクリスチャン・ベールはこの映画の撮影のために「歩く骸骨」と脚本に注意書きがあるほど、「自己破壊のように痩せて」挑戦した。悪臭を放つ下水道を素足で走る場面なども、実際の場所をクリスチャンが走っているという入魂の一作である。実際、この映画には喩えようのない何か研ぎ澄まされたauraが宿っている。ストーリーや設定などはアルフレッド・ヒッチコックを髣髴とさせる古典的なものだが、それを越えて訴えかけてくる何かがあるのだ。その何かとは、一体何なのだろうか? 我々はここで、『マシニスト』の真の魅力に迫ってみたい。

⑴「記号」の多用

 この映画には、仕掛けとして幾つもの「記号表現」が登場する。不思議なことに、それは主人公トレバー・レズニックの部屋に、本人の意図とは無関係に存在している。日常生活に不穏さを与えるシグナルとして、いわば謎めいた記号のパズルが与えられているのだ。 
 
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 『マシニスト』が全篇を通して我々に投げかける最大のテーマ――それは、「私とは何者か?」という哲学的な問いに他ならない。この映画は、このソクラテス以来の伝統的な形而上学問いに対する応答を、物語構造に溶け込ませた「メタファー」として発信している。トレバーは普段は機械工として働いており、趣味といえば娼婦のスティービーを抱くか、閑散とした空港のカフェで働くマリアと話をするくらいである。だが、ここに既にトレバーが「自己」の上に「他者」を纏わせている見えないヴェールが存在しているのだ。

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 先述したように、トレバーは部屋に謎めいた絵が存在している理由を知らない。しかし、その奇妙な形象は彼に様々な妄想を抱かせる。この映画では、主人公の想像が力動性を伴って「行為」が生まれる構造を持っている。換言すれば、トレバーは妄想的な世界に囚われているのだが、実はそれは彼が真の「自己」に出会うためのイニシエーションでもあるのだ。

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 トレバーは映画中で自分の名前を署名する。「トレバー・レズニック」――どこにでもいるような平凡な男の名前だ。彼は、メイキングで脚本家がカフカに言及しているように、いわば匿名的な主体である。トレバーは「K」でも良かったし、「モロイ」でもあり得るのだ。彼は不眠症に悩まされていて、現実と妄想の区別が付きにくくなっている。そして、妄想的世界の意味を現実に被せるのだ。あたかも、火傷を指先まで覆えるヴェールで隠すように。
 現実と虚構の「境界線」の抹消という概念で読み解けば、この映画は他の多くの作品と同じくフッサールを始祖とする現象学的な概念を映画的次元に応用したものに過ぎなくなる。この手の映画では、たいてい主人公は情緒不安定にあり、現実と妄想の区別が限りなく曖昧である。次第にどちらが現実か定かではなくなり、起承転結の「転」の場面で主人公が大きな事件を引き起こして、「結」で全ての謎が解き明かされる――つまり、主人公は悲劇的にであれ「現実」を復元するのである。『マシニスト』もこうしたステレオタイプを確かに採用している。だが、この映画に宿っている魅力はそれだけではない。

⑵「母親」の二重化

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 トレバーは映画中で母親のアルバムを読み返す。そこには、彼がかつて母と遊園地に行った写真が収められている。トレバーにとって「母親」と「遊園地」は特権的な次元で連合しており、いわばそれらは原初的な「楽園」を構成している。記憶の中の母子一体的な楽園を、トレバーが「喪失」していると感じているであろうことは、彼とマリアとの対話から如実に窺える。

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 空港の深夜のカフェで働くマリアという女性は、いったい何者なのだろうか? まず、「マリア」という名前は我々に即座に「聖母マリア」を意識させる。実際、マリアには夫がおらず、幼い子供が一人いるだけである。マリアは娼婦のスティービーとは異なり、穢れがなく、慎ましく静かな生活をしている。その母親としての姿は、即座にトレバーの実の母親(「母の日」に彼は墓参りに向かうような母想いの男である)に重なる。

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 トレバーはマリアをデートに誘うことになる。興味深いことに、その場所こそが「遊園地」なのだ。あらゆる遊園地は、周囲が壁に囲まれており、空想的な王国として構成されている。そのメカニズムは実は宗教装置と類似しており、この空間内では皆、空想を享楽するというイリュージョニスティックで特異な魔力に感染し、アトラクション=「聖域」を渡り歩くことになる。そして夜になっていざ外に出ると、我々はひとつの夢から目覚めるのだ。あたかも、一夜限りの神秘的な魔法が解けてしまったかのように。

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 そこは、まぎれもなく母子一体的な「楽園」の現実的な表象である。したがって、マリアと息子とトレバーの三人が遊園地に行く行為は、実は彼に幼い日の記憶を喚起し、自分をマリアの「夫」の地位へ補完させる役割を担っていると考えられる。


⑶「独身者の機械」の擬人化

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 この映画の最大の魅力は、現代人が担う存在論的孤独をトレバーというどこにでもいる男に託し、なおかつその姿をミステリアスに描出した点にこそある。彼は毎日、疲弊した身体を鞭打って職場に向かう。そこは灰色の壁の、どこにでもあるような機械工場である。この映画の「工場」や「街路」、そして何よりも「トレバーの部屋」の場面はどこか無機質で味気なく、ほとんどデ・キリコを髣髴とさせる幾何学的な冷たさすら感じさせるほどだ。毎日同じ工場で、同じ単純作業に従事し、同じようなものを食べる日々。トレバーはこの映画のタイトルにあるように、本質的に「マシニスト」である。ただし、この場合のmachinistとは、機械的な自動性を帯びた孤独な存在者という意味を帯びている。この点で、彼は生ける「独身者の機械」(ミッシェル・カルージュ)の擬人化、その身体化であると考えることも可能だろう。

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 存在論的孤独から逃れる術はない。全ての人間は一人で生まれ、一人で死ぬのである。だが、孤独を忘れさせてくれるものなら無限に存在するだろう。人と人との「温もり」を求めているトレバーのお気に入りが、年増の娼婦スティービーである。全ての娼婦と男がそうであるように、二人はいとも容易く「まともな生活を二人で送ろう」と囁き合う。肉体的な結び付きほど、精神的な絆を演出させるものはない。そして、最初の出会いが肉体的であればあるほど、男性はいとも容易くその女を捨てるものである。だが、トレバーとスティービーには互いが必要だったのだ。少なくとも、彼が妄想に支配される前までは……。

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 この映画で最も印象的な台詞――それはマリアに口にするこのトレバーの訴えかけだ。彼は「未来」について言及しているが、これは実は顛倒された「過去の実体」を意味している。何故なら、トレバーは過去を隠蔽して生きているからだ。いわば、自分に別の何か他の意味を纏わせて生きているのである。そのヴェールを一枚一枚脱がしていった時、そこに初めて彼が求める「自己自身」が顕現するだろう。存在しないはずの影の男であるアイバンとは、実はトレバーの「分身」である。

⑷総評

 以上、振り返ってきたように、この映画は単なるサスペンス・スリラー映画を越えた幾つかの魅力的な「設定」、「戦略」の上に成り立っている。厳選された登場人物、物語上の全ての機構が緊密に関係し合う、無駄のないプロットである。そして、けして奇を衒うことなく王道的な結末を迎えるものの、我々に何か深い印象を与え、リアリティーの新たな再構成を迫る。サスペンス映画には、生の本質が描かれている。トレバーとは我々なのだ。

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