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鈴村智久の研究室

表象文化論、美学の研究者鈴村智久です。哲学・思想ブログランキング総合2位。

海のrhetoric――夏の稲村ケ崎の想い出

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

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 あらゆる言葉が常にanything elseを指示するように、「夏」という言葉もまた他の言葉へと常に開かれている。「夏」――それは私に「波打ち際」という言葉を連想させる特異な語でもあった。「夏」という一つの言葉には、あたかも一つの葡萄園に数知れない葡萄の房が実っているかのように、「海辺」、「蝉」、「氷菓子」、「田舎」、「絵日記」、「川遊び」「肝試し」、「プールサイド」、「誰もいない夕暮れの校庭」といった幾つかの言葉をたちどころに生み出していく。「夏」には、おそらく全ての語が実質的に内包されているだろう。
 ここに、まず最初の一枚の写真がある。これはいったい、どこなのだろうか? あるいは、この写真はなぜ私にとって「夏」の中でも、おそらく最も想い出として凝縮されたものを感じさせるのだろうか。これは私と彼女が経験した、「夏」の形象である。偶然にもそこに子犬を連れた婦人がいたのだ。あの広く、小石と貝殻と流木と砂粒以外には何もない波打ち際で、私は駆け寄ってきた子犬と戯れる彼女を撮影した。私にはこういった出来事はまったく予想していなかった。
 その日、私と彼女は「夏」らしい場所の中でも関東圏では最も人気のある「江ノ島」へ向かうことにした。私たちは電車に乗って、一時間ほどでそこにやって来た。駅から江ノ島の海岸に向かって歩いている時、同じようにビーチへ向かう多くの人々が街路に溢れていた。街路に面した店舗はどれもヨットや水着、それにちょっとしたリゾート気分を味わえる喫茶店、レストランなどだった。あたかも南国の島にでもやって来たかのように、街路は日焼けした多くの若い女性たちで溢れていた。だが、いざビーチまでやって来ると、私はその光景に思わず眩暈を覚えたのだった。見渡す限りの人で、江ノ島のビーチは満たされていたのだ。数知れない人が、所狭しと、あたかも満員電車のように海辺に犇めいている光景に私は思わず唖然とした。そして、彼女にこう言った。
「もっと静かな波打ち際に行こう」
 この辺りの地理に詳しい彼女は、私に「稲村ケ崎」を紹介した。私にはそこがどのような波打ち際なのかまったくわからなかったが、彼女はそこならあまり人疲れすることもなく、穏やかな海辺を楽しめると言った。私たちは今度は「江ノ電」に乗って、稲村ケ崎を目指した。7月19日の昼下がりの江ノ電は、やはりこれから夏休みを過ごそうとする大勢のリゾート客たちで満ちていた。電車の窓から優雅に海沿いの景色を叙情的に楽しもう――そんなゆとりなどないほど、この日の江ノ電は賑わっていた。それでも、私は窓際に立って、人と人のわずかな隙間から線路のすぐそばに広がっている海辺を見つめていた。それは、わずかな視覚から私の存在の全てを受け容れようとしていた。
 
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 稲村ケ崎の駅はローカルな田舎を絵に描いたような素朴な味わいがあった。海のすぐ後ろには小高い山が広がり、岩肌を鳶が飛んでいた。海沿いに面した家々はどれもアトリエや別荘のように簡素なものも多かったが、中には庭付きの大きな住宅も存在した。少し近隣の街路を散策してみると、家と家の間から海が覗いている光景に出くわす。あたかも、この地区に存在する全ての家の「共通の庭」こそが、広い海であるかのように。こうした、家と家の隙間から海が覗くという光景は、内陸の都市ではけして見られない稀有なものである。私は水色の小さな別荘のベランダを見上げながら、あそこには海風によって砂粒が入り込んでいて、夏休みにかけてここに帰省してくる少年たちがきっと箒で掃除をしているのだろうな、などと想像を逞しくしていた。
 稲村ケ崎の浜辺は、砂鉄を多く含んでいるため他の浜辺よりも砂粒が黒褐色になっている。この浜辺では、かつて水難事故が起きたため、その慰霊碑も建てられていた。そのためだろうか、あるいは、黒っぽい砂色のためだろうか、ここには疎らに人がいるほどだった。特に波打ち際は、誰の足にぶつかることもなく悠然と歩くことができた。慰霊碑のある岬は小高い岩礁が丘のようになっていて、階段を上がると小さな緑の公園があった。ベンチがわずかに置かれており、そこで何人かが一言も離すことなく、ただじっと海の音に耳を澄ましていた。

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 この浜辺でかつて人が命を落としているということ、そして浜辺の静謐さに重なっていく慰霊碑の存在――。その場所に私がなぜか心を慰められたのは、明るさの中にもどこか「死」を想わせる厳粛な気配を感じたためだろう。稲村ケ崎には、人が群がるビーチのような活気はなかった。むしろ、そこは「別の画廊」、「不可視の聖域」のような言葉を私に連想させたのだった。私たちは海辺を歩いている時、実は「海」という運動する巨大な一枚の絵の連作を体感しているのではないか。全ての海辺の歩行者が、この砂の聖域のauraを分有していた。
 日本には、日本列島が宏大な海に囲まれた島国であることを失念して暮らしている人がいる。私もここを訪れるまではそうだった。大都市の煩瑣な喧噪に絶えず巻き込まれ、休日にも賑わいのある街へと駆り立てられていく忙しない日常こそ、都市生活で目の当たりにする最初の「眩暈」である。この眩暈から、私自身逃れられずにいた。だが、少なくとも稲村ケ崎にはそうした眩暈、心の雲間を晴らせるような、不思議な癒しの力が宿っていた。
 もしかすると、私が「死」を感じさせる浜辺に、「海」という言葉が持つ本来的な意味の実相を感じるのは、私自身が「死」を尊重する教え――ローマ・カトリック教会――で洗礼を受けた、一人の信徒だからかもしれない。実際、私は洗礼を受けたあの数知れない蝋燭に満ちた夜の聖堂でも、最初に教会を訪れた二十歳のあの日(もしかすると、あの日も夏に属していたのではなかったろうか?)の聖堂でも、そこに足を踏み入れた瞬間、「海の声」を感じたのだった。それは耳には届かないが何処からともなく響いてくる不可思議な波の音であり、ビンゲンのヒルデガルトの言葉を借りれば、「子宮」の持つ丸み、包み込ませる優しさ、慈愛のような感覚であった。
 「海がそこにある」――この表現だけでも、実は極めて豊かな神学的意味が宿っている。周知のように、聖トマス・アクィナスの師であったアルベルトゥス・マグヌスはラテン語のmare(海)とmaria(マリア/聖母)を連合させている。mareとは、mariaの本質なのだ。そして、ヒルデガルトの卓越した研究者であるバーバラ・ニューマンが解釈したように、聖母の「子宮」、すなわちmatrixは生まれる前の幼子イエスを包摂していた容器であり、いわば「神の子」を内に孕んだ「宇宙」そのものである。
 海に私が「地球」を、そして惑星的なものを孕む宇宙的な「寛容さ」を感じるのは、私自身が少年時代に水死しかけた経験を持っているからかもしれない。その時も、桟橋から落ちた私に最初に気付いたのは、他でもない「母」であった。永遠に女性的なものとしてのmaria――たとえ子を孕むことがなかったとしても、女性的なものには私の意識の中で、mareを感じさせる力があるのだ。

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 海は私に命を与える。同時に、海は私に死を与えることもできる。これらは全て「水」の詩的宇宙の体系を形成するだろう。水面から手だけを伸ばしていた少年時代の私は、「水」の力に「息」を奪われていた。水は私を水底の「物」と同列に扱おうと全力で私の身体を引っ張っていた。だが、「母の手」(あるいは、mariaの力動性)が私の奪い取られかけていた「息」を、光射す方へと逆に奪い返したのである。ここには、mareとmariaをめぐる闘争と和解が、犠牲として「水」に捧げられたはずの私の命を、「母の手」が命尽きる未然で制止させたという「イサク献身」の挿話の「翻訳」が潜在している。あらゆる人間は、何らかの形式で聖書の「翻訳」を生きている。私はmareの「水」の力に殺されかけたが、この「一度は殺されかける」という掛け替えのない一回性限りの神秘、auraがあったからこそ、私は「海」に聖域的なものを感じ取ることができたのだろう。
 このように個人的な体験も含めて振り返っていくと、稲村ケ崎でひっそりと海を見つめていたあの慰霊碑の存在が、いよいよ私の「水死」体験と重なり合う。私は、彼らの「死」を「未然において」生きたのだろうか。けして「死」を経験することなしに、それを「未然において」。水底に引き摺られ、片方の靴を落としながらも。
 稲村ケ崎の慰霊碑には、以下の言葉が刻まれている。今こそ、読み返してみよう。

みぞれまじりの氷雨が降りしきるこの七里ガ浜の沖で
ボート箱根号に乗った逗子開成中学校の生徒ら12人が遭難転覆したのは
1910年(明治43年)1月23日のひるさがりのことでした

前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は、当時世間を騒がせました_
が、その遺体が発見されるにおよんで、さらに世の人々を感動させたのは
彼らの死にのぞんだ時の人間愛でした_

友は友をかばい合い、兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容されたからなのです

死にのぞんでもなお友を愛しはからいいつくしむ、その友愛と犠牲の精神は生きとし生けるものの理想の姿ではないでしょうか

この像は「真白き富士の嶺」歌詞とともに永久に
その美しく尊い人間愛の精神を賞賛するために建立したものです



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 岩礁で静かに泳ぐ遠景の少年、これも偶然、私が撮影したものだ。「海」という言葉が孕む「泳ぐ」という言葉の力を信じるかのようにして、私は東京に引っ越して来る前まで、大阪のジムに通って泳いでいた。ジムには広いプールがあり、私はそこで日常生活の中で少しずつ堆積していった煩いを洗い流してきたのである。あらゆるスポーツがそうであるように、そこには「精神的な修練」という意味が重ねられている。人が運動を愛するのは、ただ身体を動かすことを愛しているからではない。運動する行為には、実はそれをしなければ表現し得ない、ある超越的な「構想力」の次元が開かれている。実際、私は泳いだ後、トレーニングルームや淀川河川公園の川縁などで運動した後、掛け替えのないほどの精神的充溢を感じていた。これは、宗教的な「祈り」や、「瞑想」に相関したものであることが私には即座に理解できた。
 聖フランチェスコが森の中で小鳥を肩に乗せながら、ランニングしている不思議な絵を想像してみよう。私は彼に質問する。「あなたはなぜ教会で祈らないのですか?」。すると、ランニングしながら聖フランチェスコは以下のように答えるだろう。「走ることと祈ること、そのどちらも心の平安を目指す限りで、本質においては同じなのです」――。私が運動することにある種の「使命感」を常に感じるのは、実はそれが精神的な修練という二重の意味を持っているからだ。これを自覚すると、運動はよりいっそう奥深いものとなる。

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 あれから一ヶ月経った今も、私は波打ち際の砂の温かさを記憶している。彼女が裸の足裏を波に戯れさせているのを眺めていて、私も同じように肌で海を感じたくなったのだ。波は波打ち際に寄せては返し、偶然できた砂の窪みに天然の炭酸水のような泡だまりを生み出していた。返す波に撫でられて、細かい小さな砂粒たちが踊る様子を私は足下に眼を落としながら見守っていた。数年後も、私は「夏」の記憶をこの「海」に結び付けて想起するのだろうか。これまでの私が、「夏の海」に常に十代の頃に訪れた南仏マルセイユのイフ島、フリウリ島から眺めた地中海の光景を結び付けていたかのように。

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 私は十八歳の夏に、南仏を一人旅した。パリの他、様々な街を訪れたが、中でもアルルとニーム、そしてマルセイユには特別な思い入れがある。私が滞在していたマルセイユのユースホステルの相部屋には、アッシュという名のギタリスト志望のイギリス人青年がいた。彼はギターを弾いている以外の時間、たいてい部屋でニーチェの本を読んでいた。私は今でも長身でブロンドの長髪をした彼の朗らかな微笑を明瞭に覚えている。
 「マルセイユ」という土地から私が結び付ける記憶は、あの夏の陽射しが永遠の懐かしさを伴って迫ってくる赤茶色の広いグラウンド(ユースホステルに隣接していた校庭のような場所だった)や、夜に何処からともなく響いてきた花火の音に誘われて街路で道に迷ってしまった不安でもあったが、まず何よりもそこはブイヤベースが食べられる地中海に面した港街だった。私にとって、「海」とは常に十八歳の頃に見た「マルセイユの地中海」だったのである。そして、船で渡れるイフ島やフリウリ島は、白い石灰岩で覆われた小さな島々だった。
 年月が流れ、こうして私は別の海へと帰ってきた。フランスに面した地中海から日本に面した太平洋へ。だが、それら「海の名前」もやはり人間が作り出した記号表現に過ぎないことは言うまでもない。全ての海は一つなのだ。そして、おそらくこれはあらゆる波打ち際についても妥当するだろう。

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 私と彼女が残した足跡は、一ヶ月経過した今、最早波に洗い流されているだろう。だが、私たちは確かにそこに立ち、海を目の当たりにした。私たちは海のauraを感じ、それを吸い込んだ。私は記念として二個の丸い小石、四つの美しい貝殻を持って帰ることにした。数百年後にも、この浜辺で私に似た者が同じように貝殻を拾うだろう。そして、彼もまた「海」からひとつの内省の契機を得ることになるだろう。

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 稲村ケ崎を離れた私たちは、やはり江ノ島の展望台が気になり、そこへ向かうことにした。江ノ島は現在、多くの観光客で賑わうリゾート地になっている。だが、少し離れた海岸には穏やかさと静寂に満ちた波打ち際が存在している。







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