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鈴村智久の研究室

表象文化論、美学の研究者鈴村智久です。哲学・思想ブログランキング総合2位。

時間の映写機にスイッチを入れるために――椿山荘ホテルのロビーにて

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 今、東京で一緒に暮らしている彼女と最初に泊まったのは、2013年の冬の椿山荘ホテルだった。そこには、間近に迫ったクリスマスのための装飾が幾つか滞在客たちの眼を奪っていた。私たちはその日、プッチーニの《トスカ》を東京文化会館で観たばかりで、気分は浮かれていた。オペラの後に入るホテルには、何か高揚した気分を持続させるようなものが必要だ。歩いて五分ほどの距離に日本で最も美しいと名高い、20世紀の日本を代表する建築家である丹下健三が設計したカトリック東京カテドラル関口教会があるという恵まれた立地条件も、このホテルの魅力のひとつだろう。実際、私と彼女はこの辺りを歩いてみたが、夜になるとメインとなる建物以外は完全な静寂に包まれるかのようだった。

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 椿山荘ホテルのロビーで最も印象的だったのが、小さな遊園地のミニアチュールだ。私はその存在に気付くや否や、しばらくこのメルヘンチックな愛らしい「王国」に魅入ってしまっていた。小さな観覧車、回転木馬、そして時計塔のある教会……。飛び出す絵本を想起させる魅力的な装飾だった。
 多木浩二が『眼の隠喩』で述べていたように、ミニアチュールは19世紀の上流社会を密かに熱中させた「玩具」だった。歴史的にはバロック時代の物も存在するようで、そこではやはり小さな人形がクローゼットサイズの小さな「館」の中で暮らしているのである。ミニアチュールとオペラは、実は非常によく似ている。オペラの舞台をひとつの「箱」として捉えれば、その中で踊ったり歌ったりしているのは「人形」なのだ。こうしたスコピック・レジーム(視の制度)が、視知覚性が優越したバロック時代(オペラが誕生した時代でもある)の貴族たちに共有されていたというのが、『眼の隠喩』のミニアチュール論で提示された重要な図式であった。
 遊園地そのものが、実はより大きな「何か」のミニアチュールなのかもしれない。実際、東京ディズニーランドの空間構造を宗教施設と相関させる研究者も存在している。

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 椿山荘ホテルのロビーで観たこの模型は、私自身の「夢」の模型だったのかもしれない。実は私は、今でも遊園地という場所に何か、純粋な童心には還元できないような魔術的な力を感じることがある。例えば、「回転木馬」という機械ひとつ取り出しても、よくよく考えれば実に奇妙ではないか。馬が同じ円周上を絶えず回転し続けること――全ての馬の表情は完全に同一である――あるいは、観覧車のように人間を乗せた箱が同じ円周上をやはりゆっくりと回転すること。このような「回転機構」をイリュージョニスティックに演出してみせる遊園地には、やはり「機械の魔術」が働いていると言えるだろう。
 遊園地には世界の秘密の全てが存在する。「ホーンテッドマンション」(幽霊屋敷)のような神秘的な施設も、オーソドックスな「ジェットコースター」のような機械にしても、そこでは常に機械の「運動」が観客を楽しませているのだ。機械が進化すれば、遊園地もまた画期的な進化を遂げるだろう。現在の幽霊屋敷のお化けの代わりを、19世紀のパリではfantasmagoria(魔術幻燈)が果たしたように、楽しませる機械が齎すイリュージョンは日に日に技術的な進化を遂げている。
 だが、全てはこのような小さな夢の模型に圧縮されたものでもある。

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 最近、スペインの作家フリオ・リャマサーレスの小説『無声映画のワンシーン』(本書は写真論でもある)を読んで以来、私の中で「写真」というもの、あるいは「記憶」について考えることが多くなっている。リャマサーレスが語るように、我々の記憶とは「無声映画のフィルム」であり、「時間の映写機にスイッチが入る」ような瞬間が――つまりは過去を無意志的に思い出すような瞬間が――あるはずだろう。W・G・ゼーバルトは「写真」を文学的なコンテクストにそのまま吸収することなく、いわばテクストの「象徴的効果」として用いていたが、リャマサーレスは奇妙にも不在としての写真をテクストに持ち込んでいる。不在――つまり、写真からテクストを紡ぎ出しつつも、彼は写真を一枚も掲載しないという方法論を採用しているのだ。
 だが、『無声映画のワンシーン』を読み終わって、私の中で「写真」についての考え方が少し変わった。私はそれを、より積極的に「想起のためのメディウム」として捉えるようになったのだ。何かを思い出す時、我々のその記憶の実質的な形態は、幾つかの写真の群れであったり、映画的な断片的シーンであったりするのではないか。無論、それらがちぐはぐに、断片的に錯綜して蘇ってくるということもあるが、それらひとつひとつを紐解いていくと、何枚かの「触覚的な像」(音、匂い、触感の記憶も全て含めて)に至るはずだ。
 だとすれば、記憶を呼び覚ますためのメディウムとして、我々はもっと自分自身が撮影した写真を再評価して良いはずだろう。フィオナ・タンが語っていたように、一枚の写真は、観る者の「解釈」によってその度ごとに「更新」されるのである。フィオナにとって写真は「事実」ではなく、あくまでも「イメージ」なのだ。そして、「イメージ」を生み出すための触媒なのである。

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 椿山荘ホテルのスウィートルームから彼女と見下ろしたホテルの中庭を、今私は思い出している。彼女の微笑み、カーテンにそっと手を乗せる仕草、鼓動の高鳴り……。

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 現前するもの全てはauraである。いつ視覚が失われるか我々には予測できない。もしも、明日視力が完全に喪失されるのだと仮定すれば、何気ない光景も掛け替えのない「世界の実相」として迫ってくるはずだ。眼に映るもの全ては一回性の神秘であり、奇蹟である。








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