† 小説集 「幻想系」 †

小説 『 エスカレーター 』

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by Maurits Cornelis Escher



 僕と五つ年下の妹は、ある日エスカレーターの上で眼を覚ました。この機械状の階段の上で、何故僕ら兄妹が眼を覚ましたのかはわからない。僕と妹は、暗く狭い塔の内部と思しきエスカレーター状の螺旋階段の上で、瞼を開けたのである。僕と妹が困惑しながら佇んでいるこの階梯の一つ一つには、明滅してはいるがネオン付きの手摺が設置されていた。ネオンは上方を眺めても下方を俯瞰しても皆一様に淡い白色を放っている。いつか、妹がバベルの塔の話を僕の口から耳にしながら、一番頂上には何があるの?と絵本を閉じた僕に質問したことがあったが、僕は今、もしも同じ質問を彼女にされると、いかなる返答を用意するだろうか。僕と妹は、どこかの果てしなく高い塔の内部に存在しているのである。そして、この塔の内部は機械状階段がとぐろを巻いたように構造化されていて、ひたすらゆっくりと自動的に上へ向かっているのであった。無論、僕は今ここが塔の内部といったが、それが誤謬である可能性も高いことを自覚する。もしかすると超巨大なデパートの中で任意に選び出した被験者を使って新型エスカレーターのデモンストレーションをしているのかもしれなかったし、現実感の濃厚な、珍しい悪夢であるかもしれなかった。どちらにせよ、昨夜はいつも通りそれぞれの部屋で眠っていた僕らが、翌朝(これも日光の投射されぬここでは曖昧な表現に違いはないが)に眼を覚ますと、エスカレーターの階段の上で横になっていたのである。妹は明らかに不安な表情を顔中に滲ませながら、僕の傍に近寄って、こういった。
――お兄ちゃん、なんで私たち、こんな場所にいるの?
 それは妥当な訴えであったが、僕も同様にここへ僕らを運んだ人間たちに対して(僕はその時、家から僕と妹を拉致した武装グループを想定していたのだ)叫びたいことでもあった。妹の格好は寝巻きであったが、奇妙なことに彼女は背に小さな鞄を背負っていた。それは熊の縫い包みの喉元が開いて、中にそれほど多くではないが、小物を入れることのできる安物の玩具じみたリュックである。彼女がこれを就寝前に背負いながら枕に頭を乗せたことは考えにくかった。何者かが僕の妹に、それをある必要性から、背負わせたとしか考えられなかったのである。
――なあ未来、そのリュックはお前のか?
 僕がそう質問すると、彼女はハッと息を呑んで、今まさに己が背に何か見知らぬ物体を背負っているという悪寒を全身に走らせた。妹はゆっくりとそれを脱ぎ捨てると、沈黙したまま足元に落ちた熊の縫い包み(紐の部分がちょうど熊の背に隠れて、それは縫い包みに見えた)をしげしげと見つめた。
――知らないよ、こんなの。私のじゃないよ。
 彼女は悪夢をみた後の倦怠感を顕わにして、そう小さい声で囁いた。脱力してただ虚ろに永遠と連なる階段の群れを見下ろしている妹の傍らで、僕は注意深くそのリュックを拾い上げた。中に何かが入っている可能性がある、或いは、仮に空でも、今後何か重要な道具をここに入れる必要性があるだろう。僕はそう思って、商品戸棚に陳列されていたばかりであろう、埃一つ付着していない繊維質を持つ熊のリュックを両手で顔に近づけた。中を覗き込んだ僕は、そこでこの怪物的なエスカレーター・マシンから脱出する方法が明記された紙片を発見するには至らなかった。というのも、中身は空で、文字通りの新品(値札が糸をつけたまま入っていた)であったのだから。念のため、僕は鞄を壊さぬ程度に、紐の付け根や底の皮革部や、熊のプラスティック製の眼球、内部の繊維と外部の繊維の間にある柔かい綿などに手を伸ばして、何か機械仕掛けの物品が仕組まれていないか、手触りや揺らした時の違和感を入念に調べてみた。しかし、この縫い包みタイプの鞄は、あくまでマスコット風の熊を模したオモチャのランドセルに過ぎなかったのである。
――これ、新品みたいだが、何も中に入ってないな。お前のじゃないとすれば、一体誰が背負わせたんだろう。
 僕は自問自答するようにそう妹の方へ顔を向けながらも、あくまで目線はあっけらかんとしたミッキー・マウス似の円らな瞳に注いでいた。妹は僕より階段を一つだけ下りた地点で座り込んですっかり拗ねてしまっている。その姿はあの絵本を読んであげた夜の数時間前に、部屋に小さい蛾が二匹も入ったといって子供らしい大泣きをしていた妹の後姿に近い。僕は彼女を励ますために、そして何より自分自身の知覚が薄気味悪い夢幻に犯されるのを防ぐために、半ば無意識裡に彼女の右肩に手を乗せていた。
――大丈夫さ。お兄ちゃんが何とかする。いつもそうしてきたろう?こんなバベルの塔の欠陥品、すぐに出られるさ。
 僕は確かにそういった。しかし、語尾に向かうにつれ、著しく僕の声色は擦れ、弱まらざるを得なかった。それは彼女が一握りの砂を両手で掬うようにしながら、掌の半球の内で蠢かせていたものを眼にしてしまったことに来歴していた。彼女が抱いているのは二匹の翅を失った蛾の成虫であった。僕は鳥の声を立てて恐怖に顔を引き攣らせることをしない妹の、厳粛な面持ちで二匹の黒褐色の昆虫を抱擁する様を、その指と指の戯れに半ば気だるい嘔気を催しつつ近寄った。蛾は頭部から濃厚な、植物的な緑黄色に耀く体液を滴らせながら、数本不足した肢を使ってしきりに互いの頭部を引っ掻く運動を続けている。それは蛾同士の真剣な共喰いにも近い壮絶な格闘を僕に思わせ、眼を釘付けにし続けた。やがて僕は確かに二匹の蠢き続ける瀕死の昆虫から、彼ラがその所有者かもしれない声を幻聴とは自覚しながらも耳にし始めたことを契機に、一気に妹の両掌を振り払った。
――やめるんだ。もう直に死ぬさ。
 僕がそう小鳥の叫びのように口を開くと、彼女は茫然と意識を遊離させながらも、数秒後には悔い改めた盗人のように重々しくも神聖な顔色を浮かべて、僕の胸に擦り寄った。彼女の手から離れた四段後方の階梯で、なおまだ何事もなかったかのように肢を使った殴り合い、蹴り合いを続けている彼ラは逞しい。それは死に物狂いでこのゆっくりと自動上昇するエスカレーター・マシンの遅々とした機械運動と、歪なほど深いシンメトリーを成すほどに逞しく素早過ぎるマングースのような死闘ぶりである。妹の掌には零れた涙のように美しくさえあるソノモノどもの体液が、我々ハ確カニ貴様ノ実ノ妹ノ皮膚ヲ穢シタノダとでも主張せんばかりに、艶かしくも朝露のように手首に熱く熱く流れ滴る。僕は奇妙にも聖母マリア的な微笑を浮かべてさえいる妹の、日常とは圧倒的に異なる表現不能な空気、すなわち違和感を密かに懼れた。妹の肩まで伸びた起床直後のくしゃくしゃに乱れてもいる髪に僕は性的な強い自信を与えられつつ、彼女を慰めるようにして僕自身のTシャツを雑巾代わりに体液を拭くのだった。しかし、彼女は僕が彼女の掌を拭いている中途にも、やはり手首から滴り落ちる二匹の蛾の体液が無性に気になるのか、生まれたばかりの赤児を温かく見守るような眼差しを向けるのである。およそ妹の表皮に付着した全てのソノモノどもの痕跡を拭い去った僕は、彼女から根茎のふやけた夏草の噎せ返るような臭気が漂っていることに、彼女自身が昨夜行った性的な行為そのものの強烈なインパクトを想像的に快復させた。
――お兄ちゃん、あのポスターなんだろ。
 妹は突如、上方を見据えながら僕にそう極めて活溌な声色で口を開いた。彼女の細く白い指の先にあるもの、それは今まで暗澹たる鉄筋の壁に円形的に包囲されていた僕らに、ハンマーで知覚を打ち砕かれたような鮮烈な刺激を印象付けた。その白い紙、ときに明滅しつつも柔かいホワイトを主張して止まない等間隔に並列されたネオンに上向きで照らし出された、同じく白色の新鮮なポスター。それは僕と妹に新しい発見を与えるに相違ない、と僕は悦しがった。スロゥに上昇する階段を自身でも上ることによって、僕らはポスターの前方に立つに到る。ここでポスターに記載されたものをずっと眺め続けるには、数秒おきに階段を下降し続ける必要があることは今更いうまでもない。しかし、それは紳士服売り場のバーゲンセールを謳った宣伝用ポスターである、若しくはスパイラル・エレベーターの世界一の延長を競う大会のキャッチコピーである、ということでは毛頭なく、僕ら自身に直接的な絶望の深度を強めるために意図されたと信ずるべき類の注意書であった。以下に付記するのはこの注意書に記載されていた文書の全文である。


《©2005 Japan Elevator Association 社団法人日本エレベータ協会
         
           エスカレータご利用の際に  

 安全に、そして快適にエスカレーターをご利用いただくために、皆様のご協力をお願いいたします。またお子様の無意識の行為が危険に結びつくこともありますので、お子様へのご指導も併せてお願いいたします。

○移動手すりに必ずおつかまりください。
 ふとした拍子でバランスを崩したり、停電による急停止などで不意の反動を受けた場合でも、移動手すりにつかまっていればバランスを保つことができ、事故を未然に防ぐ確率も高まります。

○エスカレーターの利用中は禁煙です。
まわりの方への迷惑となるだけでなく、ステップの隙間からエスカレーターの内部へ落ちたタバコの火から引火する恐れもあります。エスカレーター利用中の喫煙はご遠慮ください。

○必ず黄色い線の内側にお立ちください。
ステップに黄色い線が塗ってあるところは、エスカレーターの機構上、他の構造物と複雑にかみ合う場所です。間違って靴や衣類の裾などが挟み込まれることがないように黄色の線の内側に立ってご利用ください。

■ 階段上の歩行について(右あけ、左あけ)■

○すり抜けは危険です。
すり抜けざまに他の利用者や荷物と接触して、思わぬ事故を引き起こすことがあります。

○歩いたり走ったりすると身体のバランスを崩します。
 バランスを崩して転倒するなど、大きな事故を引き起こすことがあります。また他の利用者を巻き込む恐れもあります。

○ケガなどで、片方の移動手すりにしか、つかまることのできない方もいます。
たとえば左手を骨折していて、右手でしか手すりにつかまれない方がいらしたとします。その方はエスカレーターの右側にしか乗れませんが、右あけが慣習となっていたらとても不自由で危険です。
                ↓
         歩行禁止の呼びかけが始まっています

 慣例となっているエスカレーターの片側あけですが、危険や不便をともなう行為だということが、少しずつ浸透をしてきました。JR川崎駅前の地下街「アゼリア」や、名古屋市営地下鉄などでは、エスカレーターの歩行禁止の呼びかけを始めています。

■ お子様へもお聞かせください■

○正しい乗り方を守らないと、エスカレーターは危険です。

 通常は安全で快適なエスカレーターですが、それはルールを守って利用している時のこと。運転方向と逆方向に歩くなど、ルールを守らないとケガをすることもあるとお子様にお話しください。

 エスカレーターは遊具ではありません。手すりにまたがるなどして遊ぶことは絶対にやめてください。 エスカレーターに落とし物をしたら、自分では拾わないで係員を呼んでください。指を挟んでケガをすることがあります。

 ステップと移動手すり以外は固定されています。固定されている場所へは絶対に寄りかからないでください。 顔や手を乗り出した利用は大変危険です。上昇時に天井に挟まれたり転落するなど、重大事故の原因ともなります。

 傘の先などをステップのミゾに差し込まないでください。食い込んで抜けなくなる場合があります。 裸足では絶対に乗ってはいけません。クシ部などに挟まれて大ケガをすることがあります。

 お子様の1人乗りは危険です。ちょっとしたことでバランスを崩し、大きな事故となることがありますので、必ず保護者が手をつないでお乗りください。

* 社団法人 日本エレベータ協会は、昇降機が担う社会的使命と責任を果すために設立された、わが国昇降機事業分野における唯一の業界団体です。》


 
 僕はその微小な文字で手書きによって記された注意書を一読して、心臓が宙に浮かび上がったかのような眩暈を憶えざるを得なかった。そして、本来多くのデパートのエスカレーター付近で小さな看板に記載されているはずの「乗り口付近や降り口付近には、立ち止まらないでください」といった類の一文が欠落していることに怪しむべき着目点を見出した。僕と妹が上昇しているこの無限に続かんばかりのスパイラル・エスカレーターには果たして「乗り口」と「降り口」なるものが存在しているのであろうか。僕と妹は「中間点」に無造作に放り込まれたのではないか。仮に僕と妹が「乗り口」から緩慢な上昇を余儀なくされていたのだとすると、出口=入口を発見するのは容易い。しかし「中間点」から出発を始めることに何者かが奇妙な愉楽を見出していたのだとすれば、上と下どちらがより出口=入口に近いのか判断は不可能となる。引用元は社団法人日本エレベータ協会と冒頭で大きく掲げられているが、これが事実であるか確認する術を現在の僕らが持たぬ以上、過不足なく適切な注意書で満たされているか、自らの客観的判断の基準と照合して不審点を炙り出す他に手立てはないと思われる。そして僕は、「乗り口付近や降り口付近には、立ち止まらないでください」という決定的な一文が不足している気がしてならない。まるで僕らを拉致した者どもが、この永劫不変なる螺旋階段には出発点も到達点も存在しないということを暗に示すかの如く。だが、そんなことよりも、僕には圧迫され脅えながらも苦心の笑みを洩らすこの妹をこそ、逸早く光あるところへ連れ出さなければならないという血族的な連帯感に由来する保護者としての使命が浮上していた。底知れず漏斗状化した非現実的な建造物の不快に、そのぶよぶよと纏わり付く粘着質な不快に、僕はこの妹の手をしっかりと握って立ち向かい、上昇せよ、上昇せよ、重ねて上昇せよ、と内面的に萎縮した僕の鏡像を励ます。僕にとって妹の存在が僕を心理的に勇敢な者へ鼓舞するのと同じく、彼女自身の心理的な寄り掛かることを許す支柱こそ、きっとこの僕に違いないであろうから。
――ねえお兄ちゃん、いなくならないでね。わたし、自分が怖いの。だから、絶対に傍にいてね。お願いよ。
 壁から引き剥がした注意書を筒状に丸めている僕に、妹は俯き加減にそうか細い悲痛な声で囁いた。僕は短く返事をして、筒を持たない方の手で彼女の右手を握ると、曲りくねった螺旋階段の上方に眼を移した。そして、次の瞬間に僕らの視界に広がった光景を眼にして、これまでイメェジとして補完していた塔としての構造が根底から覆されたことに僕は強靭な愕きを憶えた。それは水平部の出現であった。これまで螺旋状に回転しつつ緩やかに上昇していたエスカレーターが、突如この地点から直線的な、しかも段差のない水平部となって僕らの眼前に出現したのだった。それは端的に夜の空港の、パイプラインの内部にあるオートウォーク(動く歩道)を思わせた。遥か遠方まで果てしなく弱い白色のネオンが点々と連なっている光景には銀河ステーションの内部のような神秘的な威厳さえ感じられた。オートウォークとエスカレーターの構造的な同一性に基づく連結は、この建造物がピサの斜塔のように天高く伸びる線形型の形態をしていないことの証であるように僕には思われた。より大きな塔が二つ以上の小さな塔を内包し、それらは一本の直線=オートウォークによって繋がっているのかもしれなかった。無論、僕と妹が今いるこの建造物の外界に如何なる他の建造物も近接していないとしても、このオートウォークは別の建造物と連結した怖ろしく長い橋梁の機能を担っているのだろう。それも、非常な高度を持ったブリッジである。構造が螺旋状から直線へ変換されたことによって、僕らにも内部的な変化が生じたことを、僕は自覚する。僕は妹に、昨夜動物園で檻に近づき過ぎた不良少年がゴリラに殴り倒されて救急病院で二十三針縫ったというテレヴィ番組の話を、半ば解放された直後にも近い冗談交じりで話しもした。クリーニング屋でアルバイトをしていた彼女は、そこの天井に備え付けられているテレヴィで、僕が観た当のハプニング番組を眼にしていたことを微笑しながら語り、僕らは互いに奇妙にもこの閉鎖的な空間に順応しつつある暗く痛々しい感覚を浮上させたのであった。しかし、テレヴィ番組の話題が小休止ついた頃になって、妹は不意に僕の顔を真剣に見やり、僕の首を傾げさせたのである。彼女は今までずっと抑圧し、封印してきた過去の咎を悔い改め始めるかのような懺悔にも近い表情をただでさえ雪のように白い顔一面に広げながら、それでも果敢にこう切り出した。
――ごめんね、お兄ちゃん。わたし、お兄ちゃんに嘘ついてたの。わたしね、さっきのポスターのこと、お兄ちゃんに何も話さなかったけどね、本当は知ってるのよ。五日前の、数学の授業のとき、先生が突然へんなことを黒板に書き始めてね、それで、みんなに一枚ずつ白い紙を渡して、板書しておくようにっていったの。平常点に入れるからって、みんないうとおりにしたわ。その黒板の内容はね、お兄ちゃんがさっき読んだあの紙と同じものだったのよ。お兄ちゃん、わたしのいいたいこと、わかるよね?わたしが書いたものなのよ、今お兄ちゃんが握っている紙は。ごめんね、今までいい出せなくて、本当にごめんね。
 僕は妹の弱々しくも、強い意志の込められたけして虚偽とは思えない告白を知って、むしろ失っていたパズルのピースが一つ見つかったような、合理的な発端の内情に接触して安心したのだった。彼女の話を再構成してみると、少なくとも五日前の時点で被験者となるべき集団は決定されていたのであり、特定の者を抽出してその肉親もろとも何らかの実験に巻き込ませることは予定されていたのである。妹がこのどこか安心感を与える水平部において真実を告げることと、僕が以上のような推察を試みることまでが彼らの予測の範囲に含まれていることは考えられた。しかし、そもそも本質的にこれは人為的に建造されたものであり、つまり時間の矢を逆行してみれば僕と彼女が立つこの地点に建設関係者はしゃがみ込みながら汗を流していたわけである。仮に建設者が機械であれ、機械を創造した者とその使用者がその機械をここへ解き放つ地点、すなわち入口=出口は存在するのだし、最低でも五日以内にそこへ到着しなければ、妹の直筆であるこの注意書をあの地点の壁に貼り付けることは不可能であるに違いない。問題は、妹の書き綴った紙を携帯してあの地点へ貼付した者(それが建築者の一人と断定する証拠はどこにもない)が、果たしてエスカレーターを上昇して来たのか、あるいは下降して来たのか、という酷く基本的な事柄へ収斂する。僕と妹はその者が下降してきたと信じて、螺旋階段をひたすら上昇し続けたのであるが、だとすればこれほどの高さを持つ建造物は地下に埋まった塔としか想定することができない。地上から建造可能な塔は必然的に高さが有限となるが、地下の奥深くを掘削して建造した塔は、地上を出発点とした塔と比較して明らかに高さの自由度が大きい。しかし、結論として双方ともに有限の高さを持った塔であることに何ら変化はない。天空に近付こうとした人間たちを許してしまった神の、ここがその完成間近のバベルの塔でもない限りは。
 僕と妹は水平部で長距離マラソンするように疾り始めた。今気付いたことだが、妹はいつの間にかあの縫い包みのリュックを背負って、足うらが一段先の踏み板に着くたび、その軽い頭部でもある蓋を激しく上下させている。僕が怖れていることは、この連結された直線を通過したその後、降りのエスカレーターが螺旋状に巻かれた塔に行き着かないか、ということだった。その場合、僕らが今まさに元来た道を遡行して、再度あの暗い塔を下降することと如何なる相違があるだろうか。光あるところが、僕ら兄妹の頭上遥か先に広がっていると信じ続けることが、僕と妹に次の歩行を許してもいるのだから。僕らは犬のように走り続け、互いの寝巻きを汗みずくにした。
 やがて、一人の男に僕らは遭遇した。僕が彼を眼にしたとき、どれほど僕は彼に驚愕の眼差しを向けることを抑えるのに必死だったろう。彼は僕と妹が昨夜別々の場所で観たハプニング番組に、スペシャル・ゲストとして登場していた男性アイドルのOrcinus orcaだった。Orcinus orcaとはシャチの学名であり、彼のロックバンドグループは、その名をWHALES+DОLPHINS(クジラとイルカ)としてい、メンバー四名は皆鯨類及び海豚類の学名をそれぞれの芸名としていたのだった。勿論、彼が学名そのもので呼称されないのは自明の理であり、端的に圧倒的多数の女性たちから、「しゃっちー」、及び「しゃっくん」、乃至は「オルカ」(これは狂信的な信者のみに通じる秘匿されるべき呼称であるという)、或いは「しゃちお」と渾名されていたのだが、僕が何故これほどOrcinus orcaに関する情報に長けているのかと問い詰められると、それは彼が僕の小学校時代のクラスメイトであることに由来するのである。水族館に異常なほどの恋慕を向けていた彼は、幾度目かの遠足でまさにその水族館へ足を運ぶという日になって、信じられない異常ぶりを僕らの眼前で開花させた。「おれは、このシャチの夫にならなければならない」そう何時になく沈鬱な面持ちで重々しく囁いた直後、彼は僕ら班員(不運なことに、僕が班長であった)の制止を断固振り切って、極めて遅々とした動作で制服と下着を抜いだ後、数時間ずっと、雌のシャチが泳ぎ回る巨大な水槽のガラス面にイモリの如くへばり付きながら微笑し続けたのだった。僕は、彼の幼くも驚愕すべき太さを持つ植物的な生殖器が、彼が脳内プールで雌のシャチと優雅に戯れ泳いでいる最中、ずっと活火山じみて屹立していたことを昨日の光景のように回想することができる今では珍しい生き証人でもあるのだが。その数週間後、彼はその日本人離れした天使的に女子児童を魅惑させる顔に、磔刑に処される基督じみた悲哀を浮かべながら、一言「adios!」といって、泣き崩れる僕の好きだった担任の女教師を含む彼女ラの一握りまでをも失神させたのであった。そして、約一年前に、シャチの学名を芸名にした驚異的に端正の取れたビジュアル系バンドグループの歌唱力抜群なボーカルとして、Orcinus orcaは僕らの眼前に、テレヴィの中で踊り歌い役を演じる王子様の姿をまざまざと見せ付け、あの包皮を被った太過ぎる生殖器の脈動を僕の脳内で錯乱的に想起せしめたのである。以上が、僕が彼の情報を否応なく収集せざるを得ない理由の、半ば嫉妬に由来した小さい興味の経緯であるが、彼が唐突に僕ら兄妹の前に出現したことは、喜劇にも近い逞しい哄笑を僕に起こさせるのに充分なものであった。彼は白いスーツを着ており、胸元には薔薇の花弁ではなく太い棘そのものが刺さっているらしかった。
――やあ、君たちは上昇してきたんだね。俺は下降しているんだよ。
 彼は厭味なほど僕の妹に表情による、いかにも男性アイドルらしいペッティングを行い、小さく僕の片隅で萎縮していた彼女をますます背後へ後退させた。彼はまったく、僕がかつての級友であることに気付いていなかった。しかし僕の妹は、彼が昨夜テレヴィ画面の中でハプニング映像を眼にするたびに基督のような顔をして胸で十字を切っていた有名なアイドルであるということをしっかりと意識しているようでもあった。
――上には何かありましたか?出口などは。
 僕は常時変わらない演技的な彼の仕草に脱力を憶えながらも、彼にそう問うた。そして彼は直後僕には目線をスライドせず、妹に固定した視点に更なる温かさと抱擁を送り込みながら、ソンナモノハナイヨ、と囁いた。次の瞬間、やや表情を強張らせて妹が何かしら決意したのか、一歩前へ歩み出てこう叫んだ。
――本当のことをいってください。
 妹のこの言葉は意外にも彼を萎縮させるのに成功した。彼は表面が極めてデリケートな甘いプリンを食べ損なったような惜しさを顔中に滲ませながら、夏の南仏の小麦畑にも近い黄金色を放つ長髪の中に日焼けした指先を差し込んだ。
――おっと、そんな怒らないでくれ。それほど真剣にたずねるなら、俺も正直にいうさ。起きたのはエスカレーターの階段の上だよ。もちろん、降りではなく、上りのね。その先に何があるのかなんて知らないね。ここがデパートじゃないことくらいわかっているが、エスカレーターで下に向かえば地上に出られるのは当然だろう?むしろ、上ろうとしていた君たちこそ、屋上にでも向かうつもりなのかい?
 僕は彼に返す言葉を憂鬱な気分から口に出す前に取り消した。僕は彼に「屋上が地上と等号で結ばれる可能性がある」ことを紳士的に示唆したかったが、それも意識の襞にこびり付いて離れない灰色の粘土によって押し潰されたのだった。彼のような非現実的な人物が、この非現実的な空間において登場するということが、僕に死に物狂いのある特殊な葛藤を呼び起こすに充分なものだった。それまで読んでいた本に、突如別の本の日向臭い頁が挟まり込んだのにも類似した、けして許すことのできない予期せぬ問題だった。この悪夢において登場すべき人物とは僕と妹以外には存在しないのであり、この女好きそうな美形アイドルは、何としてでも排除せねばならないと、僕は冷静さを装いながら酷く葛藤した。そして、僕は所詮非現実的な場所であるのだから、このかつてのクラスメイト、すなわち現WHALES+DОLPHINSのリーダー兼ボーカルであるOrcinus orcaを、あのゴリラが不良少年を殴り殺そうとしたような目に合わせても構わないと思うようにしたのであった。彼の存在を示す透明の名札には、小学生時代の僕のヒロインであった担任の女教師の恋心を、わずか十一歳にして奪ったという底知れない罪状が銘記されているのでもあったから。しかし僕は腕力に自信がなく、加えて殴り殺せるような道具も所持していなかったので、最も簡単に彼を殺す手段として、階段から力を込めて突き落とすという方法を取らざるを得なかった。しかも、この殺害方法を、断じて妹に目撃されてはならないのである。もしも彼女が、僕がエスカレーターの上で彼の背中を強く押したことを知れば、彼女は出口に到着したと同時に警察署へ実の兄が犯した罪悪について洗い浚い吐露するだろう。妹は、そのような正義感の一際強い少女であったのだから。そこで、僕は彼を階段から突き落とすに当たっては、決して妹にその行為を目撃されてはならないよう、二人の位置関係に細心の注意を払わなければならないと思い巡らせた。そうして僕があれこれ殺害する時点での僕の立つべき場所について思案していると、彼は不意に妹の前に近付いて、その顎を指先で柔かく愛撫したのだった。「君のことについて、もっと知りたいんだ」という類の野獣的な御世辞を捲し立てながら。それはいつもステージから下手な逆立ちをしながら飛び降りる彼が、任意に選んだ女性ファンの顎に触れるときの仕草そのものであった。僕はその光景が今ここで、それも実の妹に対して行為されていることに怒気の火事嵐を胸の裡で発生させつつ、抑制し難い震える両腕の暴走を沈静化させるのに必死だった。できることなら、もう今すぐにでも殺してあの肥えた芋虫のような彼の生殖器の脈動を停止させ、勃起をなきものとしてやりたい、僕はそう心の底から強靭に思ったのだった。
――本当に可愛いな。俺のタイプだよ。なあ、将来、俺のお嫁さんになってくれないかい?
 僕はそのあまりにも切実な性的事情に感けた、粘液のように生温かい彼の台詞に僕自身の裡で、ある一線を越えたことで溜まりに溜まった泥水が壁を決壊しアチラ側へと流出していくのを確かに感じた。それは憤怒の泥水であること、そしてそれは彼をエスカレーターのある場所へと誘導して簡潔に突き落とす行為に繋がる殺意の泥水であること、を僕の意識の鋼鉄ダムに対する勇猛果敢な挑戦として僕は受け容れる。突き落としてしまえ、と絶叫するのは僕ではなく、僕を映し込む闘争の鏡である。しかし、僕はこの怒号を今まさに水の運動として、泥水の豊饒な流れとしてイメェジを固定させている自身の想像的な作業を、足りない、より残忍に想像せよ、と激励しながらも戒める分身となるべき己自身をも見出すのであった。激甚な怒りの熱量が不足している、と僕はひどく残念がりもする。ここでは彼を殺してしまうという行為に関しては、長期的な視野を踏まえ現段階では留保せよ、そう内的な絶叫者を演じるのは鏡に写った僕の似姿でなく僕ソノモノなのだが。
――とりあえず、いっしょに行動してくれませんか?妹も、より多くの人と出口を探すほうが安心すると思うんです。僕のほうからお願いします。
 紳士的、あまりに紳士的な礼儀作法を尽くして懇切丁寧にそう嘆願する僕を、彼は短く笑った。しかし、それはひどく友好的な、同盟関係を結ぶに至った軍事的な策略家が洩らすべき油断の微笑ともいうべきものであった。彼は清潔な感じで首を大きく縦に振り、何故か「アリガトウ」と少年のように囁いた。僕は彼のその、今まさに口にした感謝の言葉に力強い仲間意識を結合させながら、コノモノハソレホドノ悪人デハナイ、とかつての僕自身を懲戒せざるを得ない。妹は、彼の猥らな誘いかけに辟易しているのでもあった。しかし、今の彼自身があまりにも自然に垣間見せた少年のように無垢な恐怖(彼もこの建造物の内部で孤独に苦しみ嘆いていたことを想像しながら)を克服した、まさにその直後の希望と歓喜の入り混じった純真なる感謝の言葉を、拒絶し、何を血迷ってか抹殺にまで到らざるを得ない道がどこに分岐していよう?僕ら三人のちっぽけな囚人は、共に出口を探索する力強くも協調性を重んじる頼り甲斐のあるグループを形成するのだろう、と僕は安堵の溜息を吐きながら妹の背負う熊の縫い包みの、どこで付着したか定かではない一つの大きな黄ばんだ埃を取り払う。僕はここで、ボルヘスが晩年に洩らした偉大な言葉を関連性が掴めないと自覚しつつも正確に回想する。

《我々一人ひとりは、なんらかの形で、既に死んでしまった全ての人間なのである。》

 水平部は終わり、やがて僕らは彼自身が目覚めた場所さえも内在する新たなスパイラル・エスカレーターをゆっくりと上昇し続けていた。彼の話によると、彼は目覚めてから下降し続けてきたから上に何があるか見当もつかない、ということである。彼は頂上を目指す僕らの意向に同化したのでもあるから、少々妹を誑かすような悪戯に走ろうとも、今後僕は怒りの泥水を大規模な洪水ほどにも発展させることはないだろう。ふと、彼はズボンの左ポケットからテープレコーダーを取り出して、僕らにそれを見せびらかした。その小さい録音装置の前で、眼を釘付けにする妹の興味津々な表情に、僕は彼女の幼さの断片を汲み取りもする。彼はあくまで西洋の御伽噺に登場する美しい王子様が洩らすような耀かしい微笑をキザに浮かべながらも、再生ボタンに指を置く。
――実はね、これは俺が目覚めたときに手にした機械なんだよ。俺はこれで君らと出会った瞬間にも、ずっと録音していたんだ。聞いてみるかい?
 僕は今になって小さな真相を告げる図々しい彼の神経に、泥水に沈殿する泥の量をわずかに増加させながらも、どこか警戒心を殺がれるような想いでいた。彼は僕ではなく、むしろ妹のみのためにその再生スイッチを押すとでもいわんばかりに、彼女の関心の的と化した己の手にする録音装置を優しく撫で擦った。
彼は奇妙にも自信に溢れながら妹に愛情的なウィンクをして、再生スイッチを右手の薬指でゆっくりと押す。
《お兄ちゃん、なんで私たち、こんな場所にいるの?…知らないよ、こんなの。私のじゃないよ。……お兄ちゃん、あのポスターなんだろ。………ねえお兄ちゃん、いなくならないでね。わたし、自分が怖いの。だから、絶対に傍にいてね。お願いよ。………ごめんね、お兄ちゃん。わたし、お兄ちゃんに嘘ついてたの。わたしね、さっきのポスターのこと、お兄ちゃんに何も話さなかったけどね、本当は知ってるのよ。五日前の、数学の授業のとき、先生が突然へんなことを黒板に書き始めてね、それで、みんなに一枚ずつ白い紙を渡して、板書しておくようにっていったの。平常点に入れるからって、みんないうとおりにしたわ。その黒板の内容はね、お兄ちゃんがさっき読んだあの紙と同じものだったのよ。お兄ちゃん、わたしのいいたいこと、わかるよね? わたしが書いたものなのよ、今お兄ちゃんが握っている紙は。ごめんね、今までいい出せなくて、本当にごめんね。………本当のことをいってください》
 その音声を耳にした僕ら二人の顔色を、恐怖という一字で表現した者がいるとすれば、彼は正確である。しかし、驚愕し戦慄の眼差しで両手を痙攣させているのは他でもないこの音声を録音したと疑われるべき彼なのでもあった。彼は自分が疑念を持たれることに対して圧倒的な不安を浮かべながら、僕らにこのように絶叫した。
――違う。これは俺が録音したものじゃない。
 しかし、彼以外の誰が、彼自身が目覚めてからずっと携帯していたと告げるこのテープレコーダーに妹の声を封入することができよう? 僕と妹が、彼と出会うまで二人で行動していたのは真実であり、第三者は少なくとも存在していなかった。彼の瞼を開いた場所が、僕らの瞼を開いた場所に限りなく近接していない限りは。だが他方で、妹が実は熊の縫い包み型のリュック以外に、この録音装置までをも所有しており、僕の声だけ巧く除きながら自分の声を録音していたことを今なお隠匿している、ということは無きにしも非ずである。その場合、妹が彼の所有物である録音装置をどこかでポケットから抜き取り、それを彼女の元来の所有物であった録音装置とすり返るという行為を前提にすることはいうまでもない。だが、彼女は果たしてそのような過激極まる冒険を、危険さえ冒してまで遂行するだろうか?少なくとも、彼が録音装置に関する話を始めたのは数分前であり、それ以後僕は彼の言動を注意深く観察していたのであるから、彼女は彼の録音装置がズボンのポケットに入っているということを、彼が話し始める以前に察知しておかねばならない。しかし、彼の白色の背広は彼の白色のズボンをすっかりポケットの部分まで包み込んでいるのであり、決して事前の発見は容易いことではないのである。僕は妹が予めテープレコーダーを所有していたという仮定を唾棄し、彼自身を怪しむことにした。彼はこの建造物のありとある幾何学的・建築学的構造について数十の論文を書き連ねるほどその内情に関して詳細な情報を所持している、いわば建築関係者であり、僕らを拉致した武装グループと間接的に接点を持つ者ドモの一人ではなかろうか、と。しかし彼が紛れもない人気絶頂期にある男性アイドルであることも事実であり、僕と妹が昨夜彼が出演するあのハプニング番組を閲覧することを何者かが予測していたとまで考えることは明らかに机上の空論である。だが、僕は最も大きな推理の陥穽を自覚してもいる。彼、乃至は妹に疑念を向ける以前に、このテープレコーダーについて怪しむことをせよ、と内面的な鏡像が問い詰め始めていることを僕は知っているのだ。この録音装置は、広範囲の音声を録音することができ、彼が録音スイッチを押す/押さない、に関わらず規定音声として入力された妹の声のみを識別し、その音声信号を録音ヘッドに伝え、動き続けるテープの内部の磁性体粒子を磁化し、すなわちアナログ録音したのではないか。しかし、雑音低減システムを稼動しているであろう、このノイズを一切流さなかった録音装置は、旧型の装丁をしたディジタル録音装置なのかもしれない。いずれにせよ、怪しむべきはこの得体の知れない録音装置そのものなのであるという結論に、僕は到達したのである。そこで僕は彼にこういった。
――そんなものはここへ置いて、先へ急ごう。
 この言葉の持つ破壊力は彼ではなく、僕の妹に強烈なインパクトを与えたらしかった。彼女は僕の顔を不審な眼差しで見据えながら、明らかにわたしの兄は何かを知りながらそれを秘匿している、と自分自身の額に無色透明な油性マジックで書き込んでいる。考えてみれば、僕と同じことを妹も僕に置き換えて疑念のメスを向けながら推察していることは大いに考えられるべきことだった。きっと彼女は、僕が妹と録音装置の関係性について考えたことと見事に相似形を成す推論を展開していたのだろう。それに、録音されている被害者的役割を担っているのは、この場合妹の方でもあったので、僕により疑いの眼が向けられることは必然でもあった。しかし、妹は僕と彼にこう柔かい笑みを浮かべながら囁いたのだった。
――お兄ちゃんのいうとおりね。先へ急ぎましょ。
 この一言で、僕らは録音装置に関する問題を放棄し、再び光あるところを目指して螺旋状エスカレーターを上昇し始めた。

 やがて、僕らの眼前に光の海が飛び込んできた。上方の階段の深奥から、溢れんばかりの陽光の洪水が、僕らの眼を射した。それは早過ぎる頂上への到達を僕に感じさせはしたが、出口と思しき地点にまでいよいよ到着することを思えば、喜劇的な悪夢の消尽は本来望むべきものでもあった。時間にして、約十二分の短い探索ではあったが、これでようやく僕らはこれらを計画した者どもを牢に閉じ込めることができるだろう。出口に接近しながら、僕はここがやはり地下に建造された巨大なパイプライン状の構造をした施設であることを悟った。光あるところには樹木が生い茂り、簡潔に整備された美しい森林公園の片隅を思わせた。内部の息苦しい澱み湿った空気とは異なる、新鮮で清涼感に満ちた大自然の空気が、既に僕らの立つ階梯にまで及んでいた。
――お兄ちゃん。出口だよ。わたしたち到着したんだね。
 妹は落涙して感極まるまでには至らなかったが、明らかに活気を取り戻したその表情は、かつて絵本を読んであげて眠る前の安らかな、明るく悦ばしい無垢な乙女の耀きへと回帰したのだった。
――こんなことなら、降りるんじゃなかったよ。さあ出口だ。
 彼も喜悦を噛み締めながら興奮を顕わにしてそう叫んだ。僕ら三人は互いに昔からの仲睦まじい幼馴染たちのように、手を取り合い、口笛を吹き遊みながら、口元を綻ばせた。アーチ型をした花輪で煌びやかに飾られた出口が、僕らの頭上で夏風に靡いている。僕らは遂に、エスカレーターから歩を脱し、逞しい青草の生した大地を踏んだ。僕らには自動的に上昇していた遊離的な感覚がまだ残っていたが、それは三人が手を繋ぎ合って行進することで掻き消されるものである。付近の木箱の中に、僕らは建造物の内部で入手した道具・機械類を収めた。辺りを見渡しながら、《複合商業施設》と看板に赤ペンキで記された人気アトラクションから僕らは名残惜しむようにして遠ざかった。遊園地のシンボルでもある青銅製ガリバー像は、両肩に昼下がりの眩しい木漏れ日を燦然と浴びている。噴水のある広場からは、無数の色取り取りの風船たちが空へと放たれたばかりであった。僕はOrcinus orcaと抱き締め合い濃厚な接吻をする妹を微笑ましく見つめながら、胸元から取り出した安物のナイフを、彼女の背には向けず、己の喉元に近づけた。


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