† 小説集 「純文学系」 † 

小説『 聖母のいない放課後 』

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dark church




(柱時計は常に11:59である)



 僕は今日、なにも変化しなかった。明日も、きっと同じく僕は無意味に《魂》という観念の泥濘に沈殿するでこぼこした古木の欠片と化すのだろう。出口ナシノDesaert islandダ。僕ハ孤独デハナイ。ソウ自己規定スルコトガ僕ヲ一体ドコヘ導クトイウノダロウ。コノ世界ニ孤独ナ人間ナドイナイ。誰モガ孤独過ギテ、自分ヲ孤独者ト認メルコトサエデキナクナッテイルノダ。君ハ孤独者カネ?
「いいや、それほどでもない」
 君ハ今孤独ダロウ?
「私が孤独だったら、世界に一体どれほどの孤独者がいるっていうの?私は孤独のアマチュアよ」
 僕は深い溜息をつきながら、胸の上で無意味に十字を切ってみた。今、キリストが死んだ。僕は果たして、現在苦しいのだろうか。この学校はどこに存在して、何を目的に僕らを監禁しているのだろうか。僕はそもそも誰だろう。そう考えることは、僕をごくわずかの時間だけ苦痛から解放するのだろうか。では、今もう既に沸き起こっているこの胸の内部の生温かくどろどろに溶解した粘液とは? 
 僕は窓を開け、《空》を眺めた。《空》は曇っている。《空》は均質である。《空》は眠っている。《空》は僕を俯瞰しているが、彼は僕など別に注意してはいない。《空》はそこにない。《空》ではなく、ただそこに色がある。色と、そして大きさがある。《空》とは色と大きさの総体である。《空》は烏を三羽呑み込んでいる。《空》は建造物を陰毛のように群生させている。《空》は停止している。《空》のほぼ全体を覆うのは雲だが、風が吹けばすぐに消えてしまう雲などつまらない。《空》は詩の楽園だ。《空》で何十年かに一度、飛行機が爆発する。《空》はずっと生きている。色と、大きさを変えて、この星と共に孤独だと叫び続けているのは《空》だ。僕は《空》を見ている。眼で見ているし、心でも見ているが、絶対に《空》が僕を視界に映すことはない。それはあってはならないことなのだ。《空》はそこにずっとあったし、一度もなかった。《空》は永久に存在するし、もう太古の昔に滅びてしまった。僕は不意に、幼少時代「母乳」が僕に《空》から落ちてくる無数の雨について語っていたことを想起した。怖イ雨ナノヨ、ダカラコッチヘ来テ雨宿リヲシ。僕がこの世に生誕する4ヶ月前にウクライナのプリピャチ市のChernobyl原子力発電所で発生した原子炉の爆発・火災事故。日本を含む北半球の広い地域で放射能が検出され、脱原発への発火源ともなったこの大事故によって「母乳」はしきりに《空》を気にしていたのだ。僕がなぜその時突然Chernobylのことを想起したのかは解らない、しかしこの腐敗して澱んだ灰色の《空》から伝播する沈鬱な気分が、僕を遠く異国の地で起きた災難へと急速にイメェジを結合させたのかもしれなかった。牛サンモ豚サンモミンナ畸形ニナルノヨ、人間モ死ンデシマッタシ、皮膚ガブツブツダラケデ臭クナルノヨ。
 僕は小学生の低学年時、僕と同じ学級の名札を胸に付けていながらも全く意識に浮上していなかった亡霊のような少女と、放課後にジャングルジムで話した夕暮れの日のことに記憶の地下茎を錯綜させた。その後、彼女は確かに僕のクラスメイトであり、わずか半年で別の私立小学校へ転学したことを僕は担任の鬼婆の如き教師から報告され、侘しい寂寥に支配されたのだった。しかしあの黄昏の中、熟れた柿色に薄闇が淡く帯び始めている運動場の片隅で、僕は瞳が出目金じみて巨大すぎたその少女と、やはりChernobylについて《空》を眺めながら笑い合ったのだ。当時の僕ら汗臭い童子どもは、北校舎への秘密階段の存在にさえ無知でありながら我こそは学校内で最高度の景色を知る者なりとジャングルジムの頂上を神聖化していたのであった。そして、僕はその日もやはり巨眼の少女と辺りを密林の探検家の如く見渡していた。その時、彼女は僕に気狂いじみた大声で、耳元まで口をへばりつけながら、「チェルノブイリチルドレンデスネアタシラハネェ!」と叫んだのだった。尤も、僕は驚愕と鼓膜の破裂による異常な恐怖及び激痛を感じながら崖から墜落する眠った子豚みたいに真っ逆さまになって地面へ墜落したのであったが。それから、僕は遠い国で紛争や内乱が生起する度に己があの世界的大事故が発生した1986年の子供たちの一人なのだということを、半ば強制的に奇妙にも自己規定することが多々あったのである。
 Chernobyl Childrenである僕ら、世界に生まれし圧倒的多数の子供たちの中で、唯一生誕した世紀が重なりし親密感によって結ばれた勇敢なるChernobyl Children……。僕は《空》を眺めながら曖昧に天空を見せようとする羞恥心でも宿したような暗雲の、その亀頭的な輪郭を抽出していつか原爆写真で眺めたキノコ雲を想像した。モシモ世界中ノChernobyl Childrenノ悲哀、孤独、鬱念ヲ全テタッタ一人ノチッポケナ人間デアル僕ニ圧縮シタラ、僕ハヤハリ小サナシカシ威力絶大ナ人工太陽トナッテ最後ニハキノコ雲ニデモナルノダロウカ。



(柱時計は常に11:59である)




 ああかみさま、ぼくはきりすときょうとではないですがどうかこのがっこうからのがれるために、ぼくのちいさなせなかにつばさをはやしてください、ぼくはすべてのくらすめいとやきょうしがまねきんにんぎょうにみえるのです、くるしいのですかみさま、ぼくはくるしいのになみだをながすこともできない、ほんとうにしぬゆうきもないいきるにあたいしないものなのです、ぼくよりもっとこどくでかなしんでいるひとたちはおおぜいいるのに、これいじょうぼくはくるしむことはゆるされない、ぼくのくるしみやかなしみなどとるにたらないまむしのぬけがら、ぼくのなみだはかわいたさばくのるろうしゃがながすいってきのちいさなあせ、ぼくの《たましい》はどーなつのあなよりもちいさいくうどうのすきまかぜ、ぼくはえいきゅうによのしおちのひかりになることのできないろぼうのざっそうなのです、かみさま、どうかこのぼくにじゆうのひかりをあててください、ぼくはがっこうをやめて、ふりーすくーるやつうしんせいでまなんでいきたいのです、きっとどくがくはそうぞういじょうにたいへんでしょうが、ぼくはぜったいにくじけないとちかいます、どうかぼくをこのかんごくからかいほうしてください、これまでぼくはずっとあなたにだまってしまっていたことがあります、ぼくはひととはなしているとき、いちどきずいたにんげんかんけいを、とつぜんなんのまえぶれもなくはかいしたくなってしまうときがあります、かんけいがほうかいするとあいてはとてもかなしみます、ぼくにもそのかなしみがすこしずつつたわってくるわけですが、ぼくはそのかなしみがほしいのです、ぼくはじぶんをかなしませることをもとめています、ひとをころすときのしんりは、あいてがにくい、おかねがほしい、ただなんとなくぼんやりして、などいろいろあってきっとあなたもしんぱんがたいへんでしょうが、ぼくがもしひとをころすのであれば、いいえ、まねきんをひとつこわすのであれば、このりゆうのためでしょう、つまり、ひとをころしたあとの、そうぜつなこうかいやかなしみを、あじわってみたいというものです、ぼくはまぞひすとなのでしょうか、ぼくの《たましい》はうすよごれています、ぼくの《たましい》はもうきずだらけになってしまった、あなたはぼくをおきらいになりましたね、ぼくはこんなことしかかんがえられないじぶんがにくい、とても、とても、とてもにくいのです、こんなじぶんが、いきることをゆるされるわけがないのです、僕は虚無感を泥濘から引っ張りあげようとしていた。だが、それは虚無でも孤独でも寂寥でも憤怒でもなかった。僕はそういったものから完全に「不在」だった。僕はこれまで、自分が果たして今孤独なのか、そうでないのか、と考えていた。しかし、僕が孤独について観念を張り巡らして思索しているなら、僕は孤独の外部に存在していなければならない。僕が自身を孤独者と自己規定できる限り、僕はあくまで孤独の外部から孤独ではない何ものかを着包みの如く被っているに過ぎない。僕らはやがて笑うことも泣くことも怒ることも喪失し、人間的な表情とは程遠いマネキン人形と化すだろう。僕はそれでも構わない、ありとある感情を剥離させてもここに今、僕は生きているのだから。「そこに生きていた」ではなく、「ここに生きている」のであるから。





※十代の頃の作品です。



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