† 文学 †

プルーストからゼーバルトへと続く「記憶」の文学の現在――現代スペインを代表する作家フリオ・リャマサーレス『無声映画のシーン』について


無声映画のシーン無声映画のシーン
(2012/08/23)
フリオ・リャマサーレス

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 写真や映画を観ていると、我々は常に「何か」を思い出す。そんな時、リャマサーレスは「時間の映写機にスイッチが入る」と表現する。彼にとって、記憶とは幾つかの写真、映像として構成されており、「無声映画のフィルム」と呼称される。本書で繰り返し採用されるのは、この「記憶」と「映像」のアナロジーである。記憶とは、まず何よりも「自分が体験した一回限りの映画」なのだ。だとすれば、古い映画のフィルムで往々にして見受けられる、あの「ピンぼけ」や「ハレーション」は何なのだろうか? これも実は記憶のメタファーとして捉えられていて、リャマサーレスはそれを「記憶の霞み」(うろ覚え)として把捉している。
 本書は「記憶」をテーマにしている点でプルーストの長編小説の想起について省察したテクストと深く共鳴しているのだが、実は不思議なほど「固有名詞」が登場しない。地名や人名を具体的な資料に基づいて思い出そうとしているわけではなく、あくまで一枚の写真から掬い上げられた、ほとんど「曖昧な記憶」を綴っているのだ。この点で、彼は「無意志的記憶」に身を委ねており、その文体は「意識の流れ」に近接している。
 リャマサーレスがこの「小説」で採用している文法自体が注目に値するものだ。例えば、「〜だったような気がする」、「〜しか憶えていない」、「〜ははっきり覚えている」、「ぼくの記憶違いでなければ〜」といった表現が頻繁に登場する。これは、ゼーバルトの『移民たち』に見られるような、記憶を複数の図版・文献資料に基づいて招来させ、再構成するタイプのエクリチュールとの根本的な差異である。彼はむしろ、「思い出せないこと」、「忘れかけて曖昧化している」という知覚に、美を見出しているのだ。映画での「ピンぼけ」や「ハレーション」に言及するのも、こうした文法に顕現されている。

何枚もの写真がひとつにつながり、いろいろな記憶がサクランボの実のようにくっつき合って筋の通った映画になり、時間がよみがえってくる。ときどきそうと気付いてびっくりすることがある。たとえてみればそれは時間が突然命を得て、記憶が正確この上ないカメラに変わり、そのカメラがある日、経験したもの、永遠に失われてしまったと思い込んでいた映画をぼくたちのために、ぼくたちのためだけに上映するようなものなのだ。いや、これは正しくない。記憶は狂いなく流れ、写真は真っ黒なカットが入ることのない映画のコマのように連続し、互いに結び付いている。けれども、結局のところそれはポスターでしかないのだ。(p202)


 記憶は無論、ポスターではないし、映画的なものに還元されるほど単純なものではない。知覚システムの複雑性を映画装置、写真装置にメタフォリカルに変換すること自体、思想的にはスティグレールが『技術と時間』第三巻で既に理論化してもいる。だが、ここで重要なのは、リャマサーレスがおそらくそれを知りながら、あえて「記憶とは映画である」と言ってみせているという点なのだ。これによって、まず変化するのは詩人の「文体」なのである。
 本書は12歳までの作家にまつわる28枚の写真から再構成されている。28枚ひとつひとつから、断片的に記憶が蘇生され、テクストを織り成している。その記憶の群れは、「無声映画」と呼ばれる。舞台となるのは彼が少年時代を過ごした鉱山都市オリューロスだ。本書には「 」(鉤括弧)で括られた会話文は存在しない。これは自伝的でエッセイ的なテクストであるが、研究者たちは「小説」(フィクション)にカテゴライズしている。それは何故なのだろうか? 我々は根本的にこの点を再考する機会を与えられてもいるだろう。そして、なぜ彼は「写真」をあえて掲載させなかったのだろうか? それは、写真を不在化させることで、テクストからイメージさせることを企図したためだろうか? にも関わらず、彼がある一文で用いる指示代名詞「この写真はまさに……」という一文は奇妙ではないだろうか。「この写真」と言及している以上、それは「写真」から思い出された記憶=テクストであることが読者に開示される。だが、初めから写真を掲載していない戦略に立つのであれば、「この写真」という指示語は不必要ではないだろうか。対照的な作家として、我々はここでゼーバルトや『死都ブリュージュ』の作者の名を呼び覚ますべきだろう。近年、「写真とテクスト」というテマティックは極めてラディカルな論議を招来しているからである。
 本書を読んでいると、他にも様々なテーマを考えさせられる。例えば、そもそも「苦い体験」を伴う記憶をあえて想起する必要が、精神衛生上あるのかという問いがそれだ。作家は自ら苦悩を追い求めるように書くので、苦い体験も全て書くための題材になるというのは一つの青年的な美意識に過ぎず、倒錯的ではないだろうか。記憶には、「無意志的記憶」に身を委ねるべきではないディテールというものがあるはずである。思い出したくもない記憶を言語化してしまうと、それを外化したことでトラウマが新たに強化されるだろう。したがって、精神衛生上、記憶は常に選択的であるはずなのだ。リャマサーレスも、おそらく無意識にこれを実践し、自我を防衛しているはずである。まず、このような「記憶とその選択」という問題系が浮上する。
 次に、果たして記憶は写真的なものなのだろうか? 私には必ずしもそう思えない。というのは、リャマサーレスは捨象してしまっているが、「身振り」の内に生き延びている「過去」の実相というものが存在するはずだからである。その人の歩き方、笑い方、手つき、癖、何気ない眼差し……これらの現在の「行為」の内に、その人間の「過去」が含まれている。過去は写真的である前に、まず人間の身体に刻印されているものなのだ。「身振り」の中に生きている記憶というテーマが、本書の「盲点」として可視化するだろう。
 最後に、これは繰り返しになるが、小説に写真は必要なのかという問いである。確かに、リャマサーレスの文体は個別具体的な写真から生まれている。一方、ゼーバルトは図版的にテクストにそれらを鏤めつつ、直接的な言及を回避させ、写真を「指示」しはしない。ゼーバルトにとって「写真」はまず、テクスト全体にとっての「象徴」だからだ。ある文脈が、「写真A」と対応しているわけではないのだ。一方、リャマサーレスは「写真A」という個別具体例から過去を触発させている。にも関わらず、彼は写真を一枚も掲載していない。この二人の作家のあいだには、何か奇妙な写真をめぐる「駆け引き」が働いているかのようだ。それは、共にプルーストが生涯をかけて模索した「記憶」というテーマに対する、強力な応答行為でもあるだろう。
 









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