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『有と時』

有と時有と時
(1997/12)
M. ハイデッガー

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「神/有」と、「被造物/有るもの」の姉妹関係について
 
 


ハイデガーを読んでいて感じるのは、彼がキリスト教神学に依存しているということだ。

まず、以下の構図がある。

「神はひとを創造した」→「ひととは被造物である」

「現有は世界に被投されている」→「現有は世界に企投する」



お解りだろうか?
要するに、「神」が「有」に、「被造物」が「有るもの」に変換されているだけに過ぎないのである。

ひとは自分が神から創造された、と知る。
これは、要するに「有への理解」である。
つまり、「有」と「有るもの」の差異――存在論的差異――には、「理解」が同伴する。
ということは、理解していない人には、存在論的差異は存在しないのである。

ふと、考えよう。
日本人の人口のうち、何人が存在論的差異を了解しているか?
おそらく、10人いたら、1人くらいだろう。
そもそも、日本人には「神から創造されている」というような西洋的な思考的通奏低音が流れていない。
日本人は頭で存在論的差異を認識できても、幼児洗礼を受けてもいない限り、肌身にまで「神」の概念が浸透してなどいない。
ということは、ハイデガーの普遍的なオントロギーには、閉鎖性が滑り込むことになる。

存在論的差異を知らない人には、なんと「有」も存在しない、というわけだ。
これをハイデガーは「忘却」として、それさえもが現有の実存規定だと解釈するが、フッサールのいわゆる「エポケー」を看取した上でのみ成立する概念である。
ハイデガーが『有と時』を刊行した二年後に世界恐慌が生起していることを加味すると、確かにこれはハイデガーの内在的な直観だけで構築された思想、とはいえない。
しかし、存在論的差異が「理解」に、つまり「思惟」に依存する、というのは、どこか閉鎖的ではないか。
例えば、「愛」は、概念まで深化しておらずとも、観念としておそらく10人中、8人前後は所有している。
愛はキリスト教神学では、神の本質である。
けれど、「有」は、もっとマイナーな概念だ。
有なんて、ハイデガーを知らない人に語っても、?な顔をするだけである。
有は愛よりも概念的には主観性に帰属される。
したがって、彼はフッサールの『イデーン』を、かなり恣意的にオントロギーに摩り替えている、という指摘もあながち錯視であるとはいえまい。
要するに、ハイデガーは前―キリスト教神学的なのである。

存在論は、「神」の概念を極力遮断しているが、亡霊化した形式で、「有」としてそれを痕跡的に再現前させている。




ハイデガーの不安論

どんな人にも、不安がある。
例えば、結婚して、新居を構え、素敵な夫と暮らす若い夫人――誰が見ても「不安さ」とは無縁そうな彼女は、やはり“この幸せがいつまで続くだろうか”という核心的な不安を抱いて生きている。
あらゆる人間は、不安という十字架を背負っているのである。

これから、私は「不安」に苦しんでいる、全ての、ここで出会った方々に語り掛けたい。
ハイデガーという、「医師」の声を織り交ぜながら。
私もやはり「不安」の徒である。
そして、その不安を解体することに対して、不安を抱くのだ。
何故なら、絶対に解体不可能なほど根深い不安の芽は、摘み取ることができないからである。

リヒター


脅かすものがどこにも無いということ、そのことが、不安の何に面してを、性格づけている。(ハイデガー全集 二巻『有と時』 p281)



「脅かすもの」、つまり不安の「対象」が、「どこにもない」こと、それが不安の本質だというのである。
これは、極めて示唆深いことではなかろうか。
私は不安だ。
だが、何故不安なのか、書いても、語っても、描いても、歌っても、叫んでも、定かではない。
不安の対象はいつまで経っても見出せない。
何故か?

それは、不安の対象など、そもそも初めから「どこにもない」からである。
換言すれば、不安とは、何も不安ではない満ち足りた瞬間に、稲妻の如く屹立する戦慄すべき概念なのである。

ハイデガーは更に別の表現を用いて語る。

「脅かすものが一定の方向からここへ、近さの内部で近づいてくることは、ありえないのであり、脅かすものは既に〈そこ〉にあって――しかもどこにもない、脅かすものは、それがひとの胸を締め付け息もつげなくするほど、近くにあって――しかもどこにもない。」(p282)



このテクストについて、実はハイデガーはある重大な解釈を付している。
それは、これは、心理学的な見地から解体されてしまうようなものではないということである。
このテクストが、『有と時』という、存在論に関する考察書の中で、最重要項目として綴られていることを想起していただきたい。
そう、つまり、「不安」というのは、現有の本質的な実存規定なのである。
つまり、人間は、人間である限り、常に「不安」である、という定式が、ここに成立しているのである。

ハイデガーは、更に考察を深めていく。
現有には、幾つか実存規定があり、それは本書に詳述されているのだが、その中で特に、「不安」と連関があるのは、「曖昧性」である。

現有の日常生活は、曖昧性の中に没している。
それをハイデガーは、以下のように表現している。

「そこでは毎日毎日いっさいのことが起こりつつ、しかも根本においては、何も起こっていない」(p265)



私は、高校時代の地下鉄の風景を想起している。
あそこでは、常に沢山の人間が出入りしていた。
彼らには各々の生活があり、このようにブログでその日の出来事を綴ったりしている。

だが、現有には、それでいて、生活においては、実際に何が生起しているのか?
ハイデガーは、現有は、「ひと」というマリオネット的な仮面の体制に「頽落」している、と述べている。
電車の中で、誰かが苦しくて倒れても、つり革を握った無関心な大衆は、何も反応しない。
そういう時、人間は、「ひと」なのだ。

我々の生活には、沢山のことが起きる。
だが、ハイデガーは、「根本的には何も起こっていない」と述べている。
この辺りの発想が、私から見れば、極めてハイデガーの「孤独な魂」を感じさせる部分で、きっと高校生くらいの読者であれば、いっそう本質的に彼の感性を直観するのだろう。

リヒター 2


「出エジプト記」との接点を探る

ハイデガーの不安論を読んでいると、ますます不安が増すではないか、という人のために、私はここで新しい見地を紹介したい。
どんな本でも、それが魅惑的である場合、いわゆるトランスクリティークを実践してみるべきではなかろうか。
例えば、ハイデガーの「死」の実存論的考察に触れる者は、ハイデガーに欠落していたアウシュヴィッツ以後の倫理学的なアガンベンの「死」の考察にも触れるべきだろう。
そういう同時的な読解、ダブルクロスによる読みによって、双方ともに理解が深まる、と私は考える。

さて、ここで引き合いに出したいのは、他でもない『出エジプト記』だ。
これは、今私が教会で学んでいることと深く関わりを持っているためでもある。

まず、以下のテクストを読んで欲しい。

「なぜなら、ヤハウェは熱愛の神で、その名をエル・カンナーというからである。」(旧約聖書翻訳委員会訳 『出エジプト記』 34:14)



ヤハウェは、モーセに十戒を与える時、このように言葉を残している。
熱愛の神」、「エル・カンナー」である、と。

他の箇所でも、ヤハウェは自らこう語っている。

「まことに、わたしはヤハウェ、あなたの神は、熱愛する神である。わたしを憎む者には、父たちの罪を息子たち、三代目の者たち、四代目の者たちに報い、わたしを愛する者たち、わたしの命令を守る者たちには、いくつもの氏族にまで恵みを行うものである。」(20:5~6)



ヤハウェは、自らを、「貴方たちを熱愛する神」だと告げているのだ。
この事実を、現代世界の全ての人間は見過ごすべきではないだろう。
ハイデガーの暗闇の陥穽から抜け出すためには、ハイデガーに救いを求めてはならない。
彼には救いはなく、救いは主にあるからである。

さて、この「エル・カンナー」という概念について、記憶しておこう。
私たちは、神から愛されているのである。
これを忘れてはならない。
神から愛されていることを忘れると、そこに「不安」が忍び込む。
どんな罪を犯した人でも、神は赦されるはずである。

この「エル・カンナー」について、注釈には、こう書かれている。

恵みが罰よりはるかに大きいという内容を考慮してこう訳した」と。

神は、「罰を与える」のではなく、「恵み」を与えるのである。
無論、罰を与えないわけではない。
だが、ここで問題となっているのは、むしろ「恵み」の圧倒的な豊穣さである。

この「恵み」という概念は、正確には「嗣業」と呼ばれている。
嗣業とは、「神が与える恵みの賜物」のことである。
だから、イスラエル人が定住したカナンの地は、ヤハウェがイスラエルに与えた嗣業である。
イスラエルの民や、息子たち、やはりヤハウェの嗣業である。

熱愛する神は、罰するよりも、嗣業を与えるのである。
これが『出エジプト記』に明記されている、という重大な事実を忘れて、「不安」論を語るべきではない。

解説には、以下のように記されている。

「イスラエルの人々は、自分たちの神がどんな神であるかを言い表すのに、イスラエルをエジプトから導き出した神であると語り続けた。」



そして、これを自分たちに対する神の「救い」として受け取っているのである。
自分たち、というのは、新約が与えられている私たちにとっては、世界中の全ての人間のことだ。
イスラエルの民だけではなく、全ての民族の、全ての人間、という意味である。

このように見ていくと、「不安」と「熱愛」が、さながら対立する概念のようにして我々の前に現れる。
だが、「熱愛」が最も大きく、「不安」が小さいものであるということ、それはいうまでもないのではないか。
何故なら、ヤハウェ自らが、『出エジプト記』で、「私は熱愛する神である」と告げているからである。
ヤハウェは不安を与える神でも、怒りで人間を無慈悲に裁く神でもない。
そうではなく、ヤハウェは、端的に以下のように述べている。

「ヤハウェは彼(モーセ)の面前を通り過ぎて叫んだ、ヤハウェ、ヤハウェ、憐れみ深く慈しみ深い神、怒るに遅く、恵みと真実に富む神。いくつもの氏族に恵みを守る者、咎と背きと罪を赦す者。」(34:6~7)



ヤハウェは、「不安のさ中にある人」に、憐れみ深く慈しみ深い神である。
そして、ヤハウェは、なんとこれらを叫んでいるのだ。
小さな声で、ボソボソと告白したり、傲慢な人にだけ耳元で囁いているのではなく、モーセという選ばれた者に、叫んでいる。
この「叫んでいる」ということは、非常に衝撃的なことである。
なんと、神が叫んでいるからである。

それも、暴力的なことを叫ぶのではなく、ヤハウェは、「怒るに遅く、恵みと真実に富む神」だと叫んでいる。
この叫びを、二度と忘れないようにしよう。
このような出来事が、実際にかつて生起したという事実を、心で受け止めてこそ、ハイデガー的な実存の「不安」から、ひとはようやく解放されるのである。
その先に光り輝いているのは、「新しいモーセ」と呼ばれる、イエズス・クリストさまである。

それでは、何故未だ不安が我々を襲うのか?

それでも、我々は「不安」に襲われるのである。
それは何故だろうか?

一つ、ハイデガーは示唆深いことを述べている。
それはWeb2・0などと呼ばれている現代において、いよいよ本質的な問題となるものである。

ハイデガーは、現有の実存規定として、「好奇心」という概念をあげる。
好奇心は、ハイデガーの表現を用いれば、「じっと踏み留まらない」ものである。
例えば、この本の次はあの本、そしてその次はこっちの本・・・と、ただ好奇心に任せて、一貫したものを持たずに時代に流されている者が、ここで指摘されているのである。

「じっと踏み留まらないことと、新たな諸可能性の内へ散乱していくこととは、好奇心というこの現象の第三の本質性格を基礎付けており、その本質性格をわれわれは“滞在喪失”と名づける。好奇心はいたるところにあって、どこにもない。」(p262)



好奇心は、散乱している。
つまり興味の対象が常にあっちやこっちへと移ろい行く人は、滞在喪失している、とされるのである。
そこから「不安」も生起する。
つまり、「私は次から次へと新しい情報を飲み込んで、楽しい本を読み漁るけれど、そこに普遍的な何か一貫したものがあったであろうか?」と。

この情報がシャワーのように毎日降り注ぐグローバルな世界において、最も重要なことは、「いかにして我々は滞在喪失しないか」である。

ハイデガーはそれを誰よりも危機感として抱いていたのであり、だからこそWW�の前に既に警鐘を鳴らすことができたのである。




「mortifer linea」について

ハイデガーはいう。
「ひと」は死ぬが、「誰」も死なない、と。
死ぬのは「誰」かではなく、常に匿名的な「ひと」である。
この「ひと」とは、顔の喪失されたマリオネット的存在者としての人間のことである。

彼は現有の本質を、「死への有」と規定する。

例えば、「メアリー」という少女が死ぬことは、「メアリー」に抹消線を引くことを意味するのであろうか?
「メアリー」は、かつて生きてメアリーであったものであるが、最早そうではないものへと、「死」を通過することで変容したのである。
しかし、「メアリー」はたんなる「もの」になったのではなく、「メアリー」の遺物、痕跡になったのである。
したがって、この存在論的変異を最も端的かつ鮮明に記号的に表記すれば、以下のようになる。

すなわち、「メアリー」と。

打ち消しが入ることで、メアリーは「メアリーであったが、最早そうではないもの」になった。
しかし、打ち消し線の背景には、未だ「メアリー」という主体が痕跡的に潜んでいるのである。
こういった主体の廃墟化プロセスとして、ひとの「死」を定義することが可能となる。

ハイデガーは存在論的に、ひとの「死」を、極端に解せば「物化」として述べた。
しかし、痕跡論的には、「メアリー」は、死ねば、「メアリー」になるのである。

それは生命単位体の廃墟であり、命の廃墟である。
それは「もの」に先行する何かであり、遺族や「残された現有」の意識の中で生き続ける何かである。

死はラテン語でmorsという。
死人はmortuusである。
前者は女性名詞で、後者は男性名詞である。
これには何か意味が有るのであろうか?
「死」がfで、「死者」がmであるということには。

morsを語形変化させてみよう。
mortalis、これには「人間」や「魂」という意味が発生する。
更に、mortalitasでは、「存在」をも意味する。

先述した「抹消線」の概念に戻ろう。
線を意味するラテン語はlineaであるが、これを語形変化させると、lineamentum、そう、「外形線/輪郭/顔の特徴」という意味を持つ。
ここに、「死をもたらす」を意味するmortiferを付与して、合成概念「抹消線」を作る。

抹消線=mortifer linea



これは、「死をもたらす線」を意味する。
私が死ねば、「私」は抹消線を付与されて、「」化する。

ところで、死にはmors以外に、obitusという語も存在する。
こちらの意味はなかなか豊穣で、「日没」までをも意味している。
死obitusと日没obitusが同形であることには、おそらく神学的な意味がある。

三人の少女がいると仮定せよ。
彼女らが同時に投身自殺した場合、生命の抹消線概念は、以下の定式で表現可能か?

3-3=0

「0」とは、ここで抹消線が生起する地点を意味している。
三つの主体が死を通過して、生きている者が「0」化することは、確かに上記で表明している。
だが、実際にこれらの主体は「3」という母集合的な「和」で表現されるべきではない。
何故なら、「3」の内訳は「メアリー」「ジュリア」「キャンディ」の各々、掛け替えのない現有であり、それらは「ひと」という匿名的なマリオネット体制へと還元不可能だからである。
したがって、正確には、三者の死はこうなる。

」+「」+「」≠3

「1」は主体であり、一者である。
一者とは主体である。
そこに打ち消し線を引けば、「1」であったが、最早「1」ではないものを意味することが可能である。
したがって、mortifer lineaとは、主体が「死」を通過して以後、その「物化」(ハイデガー)した主体のtraceを表記する概念として、極めて有効である。

「vesper/vestigium」について

夕暮れと廃墟にはいかなる関係があるのか?
私はそれをずっと探ってきた。

夕暮れのことを、ラテン語でvesperという。
そう、金星、宵の明星のことだ。

なんと、このヴェスパーを、少し語形変化させれば、廃墟になるのである。
ご披露しよう。

vesper→vestigium



vestigiumは、痕跡、足跡、廃墟などを意味する。
ヴェスパー(夕暮れ)と、ヴェスティギウム(廃墟)の、このラテン語源学的な姉妹関係。

デリダは痕跡をtraceと表現していたが、私はvesper/vestigiumの姉妹概念を重要視したい。




現有と音――ハイデガーは「音」をどう考えるのか?

ハイデガーについては、下記などの概説書を含め星の数ほどの参考文献が存在するので、もう少し別の角度から整理しておきたい。
『有と時』をようやく読了したのだが、今改めて、ハイデガーが「考えていなかったこと」を提起しておく。
それは、「音」だ。
ハイデガーは、人間が猿の時代から聴覚を使って生きてきたという事実を軽視している。
ハイデガーは一度、本書で「純粋なノイズは存在しない」というようなことを述べているのだが、「音」という、これほど「日常生活」を支配している概念について、オントローギッシュな規定を与えていないとはどういうことか?

実際、「音」というのは、世界の見方を変えるほどの概念である。
例えば、自分が盲目になった、と仮定せよ。
都市を歩行する時、世界はもう既に昨日までの世界ではない。
「視覚」をエポケーし、「音」のみを音響構造物として「音のトポロジー空間」に座標化すれば、これはこれで立派な、「音の世界」の成立である。
この点については、非常に興味深い研究が一つ下の『音と文明』で展開されているので、オントロギーとのリミックスを思考する上で貴重かと思われる。
いずれにせよ、ハイデガーのオントロギー(ハイデガーは自分の思考はオントロギーではない、といっているのだが)は、別の領域とのリミックスを可能にさせる上で、一つの操作子である。

いわゆる存在論的帝国主義(レヴィナス)には意味がない。
大切なのは、オントローギッシュに世界の新しい状況を見るためには、異領域の学問系列を融合させねばならない、ということだ。


ハイデッガーの迷宮―二十世紀の政治思想〈1〉ハイデッガーの迷宮―二十世紀の政治思想〈1〉
(2000/01)
南原 一博

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この本の言葉の使い方は、「有」を「存在」としたり、「性起」を「生起」としたり、従来のままになっていて全集版と対応していない。
しかし、晩期の思想の「静寂境」と老子の接点や、カレイドスコープ論など、概説としてはわりかし有益ではある。
全集版で主要著作を読みつつ、補助的にこれらも読めば、理解はいっそう深化するだろう。

音と文明―音の環境学ことはじめ ―音と文明―音の環境学ことはじめ ―
(2003/10/28)
大橋 力

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そして、この本であるが、現代都市の「音」環境が熱帯雨林の「音」環境のルプレザンタシオンだと主張している。
非常に刺激的である。
例えば、コンビニエンスストアから外に出る時の「音」の構成と、砂漠で嵐が襲ってくる時の「音」の構成――こういう現代の音と自然の音の模造関係について、詳密な分析的研究が成されている。

普段何気なく「音」を聞き逃しているが、例えば工事の音とか、車の走る音など、都市には「ノイズ」が溢れている。
これら「ノイズ」をできるだけ排除した、「音楽」意外の「音」を余白へと追いやる音のヘゲモニーが現代文明を支配している、として著者は熱帯雨林が実は「ノイズ地帯」であることを説明する。
熱帯雨林は物凄いうるさい雨の音や雷の音などで支配されているが、人間は森の中でそれを「癒し」と感じる――なぜか?
「ノイズ」の定義の変革を迫る、刺激的な書である。

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