† 表象文化論 †

représentation(表象)に滑り込む「亡霊」の足跡――ジャック・デリダの注目作『プシュケー』収録の表象論「送付」を読み解く

ワイエス《踏まれた雑草》(1951)
アンドリュー・ワイエス《踏まれた雑草》(1951)

【représentation(表象)とprésentation(現前)の差異】

 現代思想で最も重要なキーワードの一つがreprésentation(表象)であるということに異論を向ける研究者はいないだろう。一般的にreprésentationは、「自己を…から遣わされた代理として上演すること」、ないし「自己を…の代わりに見えるものにすること」という意味を持っている。仏和辞典では一般的に以下のように表記されている。

・représentation(表象/ルプレザンタスィヨン)

⑴表現、表示、描写、表現されたもの、図、絵、像
⑵上演、公演
⑶代表すること、代表者
⑷代理

・représenter(ルプレザンテ)

⑴表現する、表す、描く、表示する
⑵…を象徴する、…を体現する、…の典型である
⑶…を上演する、演じる
⑷…を代表する、…を代理する
⑸…に相当する

・se représenter(ス ルプレザンテ)

⑴…を想像する、思い浮かべる
⑵再び生じる、また現れる
⑶再び志願する、再び出頭する


 特に哲学において重要なのは、représentationの持つ「表現」、「代理」であり、se représenterの「再び現れる」である。デリダはまず、この言葉がフランス語、ドイツ語、ラテン語と様々な国で翻訳されてきたプロセスを振り返っている。歴史的な流れとしては、ラテン語のre-praesentatio(再-現前=表象)がまずドイツ語に翻訳され、このドイツ語Vorstellung(表象)をフランス語に置き換えた語がreprésentation(表象)であるとされる。

・re-praesentatio(再-現前=表象)――ラテン語
・Vorstellung(表象)――ドイツ語
・représentation(表象)――フランス語



 あるひとつの概念を考察するためには、その「語」についての翻訳の歴史を考慮に入れなければならない。「哲学なるものは、ミュルティプル(複合的)な身体の中に、言語上のデュアリテ(二重性)あるいはデュエル(対決)の中に、二言語併用の地帯のなかに、前もって巻き込まれるようになっている。哲学なるものがこの二言語併用を消去しようとすれば、それは自分自身を消去することになる」(p144)。représentationというフランス語は、同一に見える以下の単語と同じ意味領野、機能営為を持っているわけではない。つまり、以下の単語へとそっくり翻訳することはできない。

・representation――英語
・Repräsentation――ドイツ語



 次に、présentation(現前)とreprésentation(表象)ではまるで意味が異なっているという点について整理しておこう。

・présentation(現前/プレザンタスィヨン)の意味

⑴(人の)紹介、引き合わせ
⑵(証明書などの)提示
⑶(商品などの)展示、飾り付け、ディスプレー、(料理などの)盛りつけ、(本などの)装釘
⑷(作品などの)発表、紹介
⑸(放送番組などの)司会、解説
⑹(人の)外見、みなり、風采
⑺(意見・論証などの)展開の仕方

・présence(プレザーンス)

⑴存在、出席、列席、立ち合い
⑵身近にある人、物
⑶存在感、個性
⑷(国などの)影響力、威信、地歩

・présent(プレザン)

⑴存在する、ある、心に残っている
⑵出席している、居合わせている
⑶意欲的な、参加意識の強い
⑷存在感のある、気迫のこもった
⑸現在の、今の、現在形、今問題になっている
⑹贈り物、プレゼント


 présentation(現前/プレザンタスィヨン)「今、ここに存在していること」という哲学的な意味を持つのに対して、représentation(表象/ルプレザンタスィヨン)「再び現れること、代理、上演されること」を意味している。前者は「現前」としての「今・ここ」であるが、後者は「表象」としての「再び・今・ここ」である。これをより詳しく掘り下げると、représentationとは、ひとまず「現前性へと再来、到来させる能力」、あるいは「現前的なものに戻す行為」として定義できる。つまり、「再現前」、「反復可能性」、「回帰」といった哲学的観念がreprésentationには埋め込まれているのだ。例えば、ある人物の姿を「絵に表現したもの」、つまり「肖像」はreprésentationの概念から考察されなければならない。また、一度死んだはずの人物が、「再び現れること」、すなわち「亡霊」もまたreprésentationの概念の射程範囲である。精神分析学においても、représentationは重要なキーワードである。フロイトにおける「喪の作業」(取り込み、体内化、内化、理想化)、「幻想」、「フェティッシュ」といった概念も、「記憶におけるreprésentation」というテーマをめぐって展開されている。この他、représentationは「分身」、「イマージュ(模像)」、「コピー(写し)」、「記号」などの概念の本質でもあるため、幅広く「映画」、「写真」を含めた芸術の全域において応用可能な概念である。


【「主観性」神話の終焉】


 次に、ハイデッガーの「世界像の時代」における「表象」概念の定義について読んでみよう。

近代の「表象する」がギリシア人たちの了解とは違った仕方で意味するところは、まったく別の事柄である。近代の「表象する」の意味は、repraesentatioにおいて最も上手い表現となっている「表象する」とは、ここでは次のことを意味する。すなわち、自己の前に現実存在者(すでに自己の前にあるもの)を「対して-立つもの」として到来させること、尺度を与える領域である自己関係の中で現実存在者を表象し反省する自己へと、現実存在者を関係づけること、これである。(p154)


 ハイデッガーにとって、「表象」とは「主観に対して現前する対象」の形式であり、この「主観に対して」、「主観の前で」という位相は、専ら「デカルト的近代」を特徴付ける要素である。つまり、représentationの概念から、「近代」を解釈することは常に可能であり、デカルト哲学において「表象」の基礎にあったのが「主観」という概念なのだ。そこでは、「主観内の写し、絵画、光景としての対象との関係の内にある主観の変様」として、「表象」が定義されている。この際に重要になってくるのが、se représenter(ス ルプレザンテ)の意味である。se(自分に)、représenter(思い描く、表象する)という言葉からも判るように、この表現の中に既に主観性が刻印されている。デリダはこの点を、「主観は諸対象をse représenter(自分に表象する)のであり、諸対象を自分に送付するのであり、そうすることによって主観は諸対象を自由に処理し得るようになるのである」(p173)と解釈している。「表象」が「主観性」と分ち難く結び付いているという点は、se représenter(自分に表象する)から明らかである。では、デカルト哲学以前の、ギリシア哲学においては「表象」はどのように理解されていたのだろうか?
 ハイデッガー(デリダは彼を「表象をその総体において取り扱う、今日では唯一人の」哲学者と評価する)によれば、「表象の時代」(あるいはVorgestelltheit〔表象性/存在者が表象されてあること〕の時代)とは存在への関係がrepraesentatioとVorstellung(Vor=前に、stellen=立てる)との等価性の中で停止されてしまった「ポスト・ギリシア的時代」だと規定されている。「存在者」はギリシア世界では「現前性」として定義されており、主観の知覚様態としてのVorstellung(表象)を持つということではなかった。ギリシアの哲学者たちは、まず世界をAnwesen(現前)として、Anwesenheit(現前性)として位置付けていたのである。この次元では、「存在者」はまず何よりもそのAussehen(外観)において、つまり「エイドス」として把握される。「今・ここにある・外観の現れ」、それがギリシア時代の「存在者」の本質である。
 ここで重要なエピソードとして、ナルキッソスの神話について言及しておこう。V・ストイキツァが『影の歴史』で述べたように、ナルキッソスは「水面に映り込んだ自己」を「見て」、「彼に心を奪われた」と伝えられている。だが、ここには重大な哲学的難問が横たわっている。ギリシア的な「現前性」の概念に立脚すれば、「水面に映り込んだ自己」という「外観」は、présentation(現前/プレザンタスィヨン)の条件を満たしているかに見える。なぜなら、そこにある「外観」は紛れもなく「今・ここ」に属しているからだ。だが、水面の「像」は水と光によって物体を反射させたもの、つまりはある事物を代理的に表象したものという点で、représentation(表象/ルプレザンタスィヨン)に属していると考えることもできる。だとすれば、その「像」は既に「今・ここ」にいる「わたし」ではない。それは「幻想」であり、理想化された「肖像」なのだ。この限りで、ナルキッソスの自己愛のエピソードは、représentationとしての「上演された自己」(デリダによれば、「現れることは、飾り立てなしには済まない」)に陶酔するメカニズム、ある種の哲学的神話素として解釈することができる。デリダはこのような、Anwesenheit(現前性)が実は「起源」として策定不可能であるという事実を、ハイデッガーを解釈しながらZwiespalt(内部分裂)と表現している。「現前」とはデリダにとって既に「廃墟」、「痕跡」として到来するものである。
 デリダはヘーゲルを、デカルト的な「主観」に基づいた哲学の総決算として位置付けており、その体系に対する根本的な改革者としてハイデッガーを捉え、極めて高く評価している(実際に、本論の読みの大部分が「世界像の時代」読解から構成されている)。だが、「主観」という概念自体も実は「一個の表象者=代理物」であることを忘れてはならない。「主観」という概念、世界の「見え方」の担保となるこの構造も、実は「存在者」を表象しているひとつの「像」なのだ。これはルネサンス絵画に見られる「遠近法」の概念からも説明することが可能である。この時代に確立された遠近法は、画家たちが学ぶ伝統的な空間表現であったが、その「形式」が逆に画家たちの「眼差し」、すなわち対象を生み出してもいた。表象文化論的には「スコピック・レジーム(視の制度)」とも呼ばれるこれら制度化された視座は、実は世界の見え方そのものを生産する原理でもあった。このように考えると、「主観」という「遠近法」(世界の見え方の方法)もまた、世界の本質を代理的に表現する原理としてのreprésentation(表象)概念の枠内に含まれていることが判然となる。もっと判り易く言えば、「物の見え方」、一般的には「人には人それぞれの世界観がある」という表現を用いても良いだろうが、それらは全てphantasiaないしphantasmaなのだ。この二つの言葉がフランス語に翻訳された時、実はreprésentationとして表現されていた事実が真に示唆的である。
 便宜的に整理しておくと、「現前」と「表象」の両概念は以下のように時代を画している。

・ギリシア時代の「存在」の本質=「現前」
・デカルト哲学以後の近代ヨーロッパにおける「存在」の本質=「表象」



 このように、représentationの接頭辞re-は、単にprésentationに再帰的、複写的な意味を付け加えているだけではないことが明らかになった。présentationという概念自体が、デリダの思考の中ではreprésentationとして表記されなければならないものなのである。例えばラファエロは、美しい女性を描くためには実在のモデルに頼ることは結論的に不可能である以上、やはり理想的な「美のイデア」から借用してこなければならない点を認めている。これは、ラファエロが意識の中で、理想化された普遍的な女性美を方法論として所持していることを含意している。このエピソードはルネサンス芸術を理論的に語る際にほぼ引用される「ミメーシス」の概念へと接続していくが、その際、やはり考察の上で重要な概念軸となるのはreprésentationだろう。というのは、ベルクソンとの討論の中で、デリダが「天真爛漫に天才的な」と絶讃しているアボズィ氏という研究者による概念規定によれば、「それ自体現実存在するものとして受容された客観が精神の中に反映したもの」がreprésentationの定義だというからだ。これは、ラファエロにおける「優美」の制作行為のメカニズムの謎を解き明かす鍵でもあるだろう。


【「表象」、あるいは「根源の代補」】


 以上、読解を進めてきたことから我々に明らかになったように、デリダはreprésentationを最終的に「代補」、「痕跡」として規定するに至る。この点が最も明瞭に判るのは、以下のテクストであろう。

それは既に回送することによってのみ発信するのであり、他なるものから出発してのみ、「自己なき自己」の中の他なるものから出発してのみ発信するのである。すべては回送から始まるのであり、言い換えれば、始まらないのだ。この家宅侵入ないし分割は一切の回送をそもそものはじめから分裂させているのだから、一個の回送があるのではなく、今から既にして、常に多数多様な回送があるのであって、そうした回送はどれもこれも、様々な他の痕跡および他なるものたちの痕跡へと回送する様々な差異ある痕跡なのだ。(p186)


 このテクストは、デリダの思想を一貫して貫いている「差延」、「痕跡」、「代補」へと接続している。例えば『盲者の記憶』では「起源は常に廃墟化されている」と述べられているし、『グラマトロジーについて』では、音声中心主義を起源に位置付ける文化人類学に対して、エクリチュールとパロールのどちらかが「起源」であるなどとは策定できず、双方は遺伝子の螺旋構造のように互いに縺れ合い、絡まり合って「起源」を分有し合っているということが繰り返し強調されている。いずれも、「起源」に「意味」を賦与しようとする人間中心主義的な「思惟の暴力」に抗するための脱構築の戦略である。そして、ここでデリダは「表象」の概念に、この「痕跡」、「廃墟」を滑り込ませている。
 なお、本論「送付」には他にもreprésentationをめぐるラディカルな問題提起が数多くなされている。例えば、イスラム教にはマホメットの姿を「描いてはならない」という厳格な戒律が存在することが知られているが、これは「表象の禁止」の問題として新たに考察していくことができる。「表象の時代の背後もしくはその下には、その時代が隠蔽し、覆い隠し、忘却するものが、徹底した形で存在するというわけだ」(p178)とあるように、ある政治体制の下、検閲によって「表象の禁止」を義務付けられたとしても、デリダの思想を応用すれば、「表象されなかったもの」は、常に既に「他のかたちで」、代理的に表象されているのである。これは、ベルニーニの女神像を覆う無数の襞が、女神の生身の身体内部の秘められた襞をreprésentしていると解釈していた谷川渥の「芸術の皮膚論」とも密接に関わってるだろう。別の言い方をすれば、「表象不可能なもの」とは何か、というテーマである。あるいは、おそらく正確にはこれは「表象不可能なもの」は、「表象されたもの」に既に様態的には存在して「いる」のか? という本質的な問いへと収斂されていくかもしれない。「表象の本質は表象することではないし、その本質は表象可能でもない。表象の表象はない」(p163)
 また、デリダは「送付」の結論部でカフカ文学におけるGesetz(法=立てられたもの)について、それを「表象不可能なもの」、いわば超越的なものとして解釈している。「おそらく法それ自体は一切の表象をはみ出すものであり、おそらく法というものは、形象の中で自己を策定したり、形象を自己に構成したりするものとして我々の面前に存在するものではないのだろう。(法の番人と田舎の人間は、法を見ることはけしてないという代償、法に到達することはけしてできないという代償を払ってのみ、〈法の前〉に存在することができる。法とは現前可能なものでも表象可能なものでもない。田舎の人間が内面化し自分に与える命令に従って法の中へ〈入る〉ことは、彼の死まで延期される)。」(p187)





「参考文献」


プシュケー 他なるものの発明(I)プシュケー 他なるものの発明(I)
(2014/06/28)
ジャック・デリダ

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~ Comment ~

表象と法

 「表象の表象がない」とすれば、表象は超越的なのでしょうかね。アントナンアルトーが「無は無ではない」というのとなんか似ている気がしました。表象以外には、表象がないものってあるんでしょうかね。それこそ、「法」なのでしょうか。

 法が表象不可能なのだとすれば、「法の表象がない」と言い換えれますが、法と表象にはどのような差異があるのでしょうね。それとも同一なのでしょうか。あるいは超越的なことだから語り得ないのかも。

 ……なんてことを考えたりしました。面白かったです~
[2014/11/07 00:39]  ササクレ  URL  [ 編集 ]

Re: 表象と法

ササクレ様へ

お久しぶりです。
お読み下さりありがとうございます。
表象不可能なものについて、デリダは「送付」で突然カフカに言及しているのですが、「法」以外にも、例えばデリダ的な概念素を用いれば「コーラ」、「パレルゴン」も、究極的には表象不可能だと思います。
前近代までのヨーロッパ社会では「神」も表象不可能の最たるもので、イコンはあくまで信仰を媒介させるメディウムだという位置付けでした。
最近考えるのは、我々が今書いている小説があると仮定した時、その小説の「外部」は究極的には内部において表象不可能だということでしょうか。
[2014/11/08 19:38]  鈴村智久  URL  [ 編集 ]















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