† 存在論 †

ジル・ドゥルーズとn次元の海辺

del.jpg
Gilles Deleuze (1925/1995)


n次元の海辺  

ドゥルーズの『千のプラトー』を久しぶりに再読している。

ドゥルーズにとって、「キリスト教神学」とか、「マルクス主義」などの学問領域は、全て一つひとつの「海辺」であって、互いに連結可能である。

ドゥルーズは「存立平面」という表現を使うのだが、海辺として考えた方がイメージしやすい。
つまり、互いに異なる領土を持つ位相座標の異なる海辺Aと海辺Bは、何か共通の連結糸によって繋ぎ合わせることができる、という発想だ。

テリトリーを変換するわけである。
例えば、朝から晩までひたすらハイデガーの本を読んでいる人がいる。
彼は神経質なので、遊びとして、たとえ休息であれ、メロドラマを観ることなどはしない。
だが、ドゥルーズならば、「あえて観る」のである。
しかも、ハイデガーの哲学の概念を駆使して、そのメロドラマを徹底的に解体するわけだ。

このとき、ハイデガーの思想は、「ハイデガー機械」というマシーンを形成する。
続いて、そのメロドラマの主役とか、展開とか、面白い台詞とか、途中のコマーシャルたちは、全て群化して、「メロドラマ機械」を形成する。
この相互に異なる二つのマシーンを、歯車を見つけて連結させる、これがドゥルーズのいう「脱領土化」の核心である。

もう一つ、面白いのは、ドゥルーズが「子供になれ、少女になれ」といっている概念だ。
生成変化である。
ただし、これは自己同一化とか、感情移入ではない。
分子状の生成変化である。
この辺りの概念は入り組んでいるのだが、これはニューラルネットワークのシナプス単位まで次元をミクロ化して思考しなければならない。
ドゥルーズは、「われわれの内部に分子状の女性を生産し、分子状女性を創造することが問題なのだ」と断言している。
分子状であるということは、極めて小さなレヴェルにまで及んだ、構造変化ということである。
ある細胞レヴェルの構造体Aを、別の構造体Bへ領土化してあげる、という発想が根底にある。

「少女になる」ということは、これまで文学では男性中心主義的に書かれてきた側面が多かったからだ。
「少女視点で物語を書く」のではなく、「少女に、なる」ことが重要だとドゥルーズは力説する。
同じ思考回路で、「犬に、なる」「樹木に、なる」「太陽に、なる」「午後四時に、なる」といったことが可能になる、と彼は説明している。

名高い「器官なき身体/CsO」とは、つまりdevenir(なる)ということである。

「なる」ということは、「有る」ということではない。
「有る」の主体は自己であって、それは不動で静止していて、ツリー的にしか発展しなかった。
だが、ドゥルーズの「なる」=「生成論」は、ハイデガーの「sein(ある)」=「存在論」の発展形式である。
主体は存在しないのである。
存在するのは、流動的に内部に外的対象を吸収して、新しい海辺を目指す、ノマドロジックなマシーンの群である。

主体は常に逃走線を描く。

もう一つ、面白いのは、ドゥルーズの「」論だ。
ドゥルーズは、手とか足、おへそ、更にはスコップや赤ペンや時計までもが、「顔貌化」すると明言している。
顔は、顔貌性抽象機械から生まれる。

だから、頭部にのみ顔がある、という従来の思考フレームは遮断される。

同時に、顔は風景でもある。
風景には顔があるのだ。

この主題は、無論体系的には書かれていないので、非常に解り辛い面もある。
けれども、ある思想的海辺を、別の波打ち際へとシフトさせる思考フレームとして、ドゥルーズ&ガタリの編み出したこれらの操作子は、今後も応用していこう。

ところで、ドゥルーズはGoogleについても言及している、ドゥルーズ学者たちは気付いているだろうか?以下だ。

「Googleが持つ商業的な性格はしばしば指摘されてきたが、僧院や寺院都市が作るネットワークのように、Googleとはあらゆるタイプの点―回路の組み合わせであり、水平な線の上で対位法をなす。」



他にもある。

「Googleの一つ一つが中央権力を形成するが、それは極化作用と中間からなる中央権力であり、不可欠な調整のための中央権力である。」



ドゥルーズのGoogle論は明らかにニューラルネットワーク論、神経組織論である。

「Googleとは横断的存立性の現象であり、ネットワークなのである。」

「系統流、つまり様々な流れを、Googleは、水平線上のあちらこちらにいきわたらせる。」



私は今、ドゥルーズの都市=神経回路のモデル図を、Google=神経回路に変換しただけに過ぎない。
しかし、意味が何と通じてしまう、これはマジックではないが、マルクスの処女論考『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』でも、幾つかGoogle論、というよりもWeb論が見出せる。
読み替え」が可能であることは、そのテクストがまだ完全にディコンストラクトされていないことの証明である。




20070910000136.gif


この絵図は、ドゥルーズの思考フレームを具現化している。
根茎(リゾーム)の拡大のようにあらゆる多様体を連結させる触手を持つ。
そして内臓を持たない器官なき身体として、あらゆる多数の異領域を横断する遊牧機械となっていく・・・。
ドゥルーズとは、哲学を脱領土化する逃走的マンドラゴラである。

「Webdeleuze Accueil」

http://www.webdeleuze.com/

「差異と反復 英訳」

Difference and Repetition (Continuum Impacts) Difference and Repetition (Continuum Impacts)
Gilles Deleuze (2004/11/18)
Continuum International Publishing Group Ltd.

この商品の詳細を見る


差異と反復 差異と反復
ジル ドゥルーズ (1992/11)
河出書房新社

この商品の詳細を見る


★引用

祝祭というものには、「再開不可能」なものを反復するという明白なパラドックス以外のいかなるパラドックスもない。一回目に、二回目、三回目を加算するというのではなく、第一回目を「n」乗するのだ。このような<力=累乗(ピュイサンス)の関係=比(ラポール)>のもとで、反復は、内化されることによって転倒させられるのである。(p20)(



あるいはまた、モネの最初の睡蓮こそが、他のすべての睡蓮を反復するのである。(p20)



要するに、反復は、その本質からして象徴的なのであって、象徴(サンボル)、見せかけ(シミュラクル)[幻想(ファンタスム)/フロイト、幻像(ファンタスム)/プラトン]は、反復そのものの文字である。象徴のレヴェルと偽装とによって、差異は反復のなかに含まれている。(p42)



反復の真の基体[真に反復されるもの]は、仮面である。(p42)



なるほど、いずれの形式においても、反復とは、概念なき差異のことである。(p50)



ひとは、同時に二回反復するものだ。ただし、それは同じ反復ではない。一回は、横の次元において、機械的かつ物理的に反復し、もう一回は、深さにおいて、見せかけ(シミュラクル)によって、象徴的に反復する。(p430)



【「魔神的なるもの」の概念】


 ドゥルーズは『差異と反復』の第一章「それ自身における差異」の中で、以下のような奇妙な表現を用いている。

むしろ、すべての事物が、単純な現前(全体=一)の一義性においては存在の中で割り振られる、ということだ。彷徨の配分は、神的であるというよりはむしろ魔神(悪魔)的である。なぜなら、魔神の魔神たるゆえんは、神々が闘うもろもろの戦場の間隙を縫って作戦を遂行するということ、つまり、数々の柵や囲いを越えて跳躍し、もろもろの所有地をごたまぜにしてゆくことにあるからだ。(p70)


 周知のように、ハイデッガーの基礎存在論は第二の主著『哲学への寄与論稿――エアアイグニスについて――』で大きな詩的跳躍を見せ、「存在」の本質を「底無しの深淵」に見出すに至る。ここでいう「存在」とは、例えば「リンゴがある」、「河がある」、あるいは「あの通りには人間がいる」などの表現に見られる、述語「ある」、「いる」の本質(sein)を指している。この世界には実に様々な種類のものがあるが、それらは全て「存在する」という点で一致する。宇宙空間を漂う彗星も、カンブリア紀の生物も、人間の作り出した技術と叡智の結晶も、全て「存在する」――すなわち、それらは「ある」、「あった」ものであり、これからもこのようなものは形式を変えて「あり続けるだろう」。このように、ハイデッガーの主張を待つまでもなく、西洋形而上学の根本諸問題の核心となる概念は、「存在」であり、それは現代思想においても変化していない。その決定的な証左の一つこそが、ハイデッガーと共に二十世紀を代表する哲学者(どちらも天才と時に称されるが)であるジル・ドゥルーズの主著『差異と反復』に他ならない。この書には、ハイデッガー存在論との全面的な対決が暗々裏に遂行されており、第一章にも既にそうした内容が濃密に展開されている。
 ドゥルーズにとって、「存在」とは何であるか? 彼は端的にそれを「差異」であると規定する。彼はドゥンス・スコトゥスを看取して「存在」を一義的なものとして認めつつ、私たち存在者は「存在」に対して多義的であるとする。これは既にスピノザが『デカルトの哲学原理』で提起した、unitas/multitude(一義性/数多性)の図式の再現である。この世界には多種多様な、すなわち多義的なものが存在するが、「存在」そのものは一義的である。ドゥルーズはパルメニデスの詩を解釈しつつ、「二つの〈道〉があるというのではなく、この上なく雑多であり、この上なく変化に富み、この上なく異化=分化した己の全ての様態に関係する〈存在〉の唯一の〈声〉があるのだ」(p69)と適切の述べている。彼が、「存在」は全ての様相にとって同じものであるが、それらの様相はけして同じものではないと述べる時にテーマにしているのは、まさにこの「存在」それ自身の分化=異化であると考えられる。
 では、ドゥルーズはいったい何をもって「魔神的なもの」と表現しているのだろうか? 彼が参照しているのは『オイディプス王』のコロス(合唱隊)の以下のテクストである――「いかなる魔神が、もっとも長き跳躍よりもさらに力強く跳躍したのか」(p70)。彼はこれを明らかに存在論的に把捉している。「魔神の跳躍」とは、「遊牧的(ノマド)な配分が、表象=再現前化の定住的な諸構造の中に忍び込ませる壊乱的なトラブル」を意味する。ドゥルーズがここで対象にしているのは、単なる純粋な「差異」ではなく、むしろ「差異化のプロセス」である。ドゥルーズのイメージにおける差異化の過程が、脳内のニューラルネットワークの構造として想定されているということはカトリーヌ・マラブーらの読解においても指摘されているが、彼はそれを「魔神的」と詩的に表現していると考えられる。この詩的で半ば狂的でもあるレトリックを、どのようにイメージできるのかを、もう少し具体的に読解してみよう。
 以下は、我々の一つの思考ゲームの例である。世界の原初に、仮に一なる「存在」を設置(仮設)するとしてみよう。この「存在」は時間における零点、起源に位置する。他方で、「現在」は多義的なものが存在している。起源においては一義的であった存在が、なぜ多義的になったのか? ドゥルーズが本質的に考察しようとしているのはここであり、彼はこの点について、「ひとつの存在が、たとえ己の能力がどうであれ、己のなしあたうものごとを最後までやってみることによって〈跳躍〉する、すなわち己の諸限界を越え出る場合があるのか否か、ということだけが問題になるのだ」(p70)と述べている。この問いかけは存在論の核心であるばかりか、ライプニッツの名高い以下の問い「なぜそもそも有るものがあって、むしろ無ではないのか?」と本質的に同じである。ドゥルーズは、「存在」が多義化する瞬間を「跳躍」と呼称していると考えられる。この瞬間は「起源」の次点に位置するわけではなく、「現在」も更新され続けている瞬間の連続として到来している。すなわち、この「跳躍」を容認した世界の構造そのものを、彼は「魔神的なもの」と呼ぶ。換言すれば、それは「存在」の内に安らい、自己同一性の不動にして完全なる永遠性に閉じていた「存在」が、何故己を数多化し、多義化し、遍在する道を選択したのか、という問いである。「存在」そのものはキリスト教神学的に言えば「神」の属性の一つであることはアクィーノの聖トマスが既に規定したところであるが、この「存在」を多義化した力=跳躍を、ドゥルーズは「魔神」という「途方もない怪物」(p71)に帰すのである。これは単なるレトリック上の衝迫力を彼が企てた美的効果なのではない。むしろ、「魔神的」な思考は本書第一章における卓越した永遠回帰論をも貫く通奏低音であり、彼の思考の洗練は、このような文学上の詩的表現の応用と思考過程の相乗効果にあると考えられる。

【永遠回帰の存在論について――「輪廻」、「観覧車」、「シミュラークル」】

 本書は初めからある宗教学上の概念を哲学的に分解するような形式で構成されている。この点について考える上で重要なヒントになっているのが、本書冒頭の名高い「はじめに」である。ここで「引用」されている固有名(人物名)がおそらく、本書を導く星座早見になっているので是非紹介しておこう。まず、冒頭は当然「ハイデガー」である――「本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、つぎの四つの点をあげて良いだろう。まず、ハイデガーが、存在論的〈差異〉の哲学にますます強く定位しようとしていること」(p13)。続いて登場するのは新しい永遠回帰の概念を提起した「ニーチェ」である――「ニーチェに続いて、わたしたちは、時間(時代)と永遠性よりも更に深遠なものとして、かの反時代的なものを発見する」(p16)。続いて「サミュエル・バトラー」(p16)、そして異化された哲学者たち、すなわち「哲学的に髭を生やしたヘーゲル」(p17)と、「哲学的に髭をそったマルクス」(同)である。そして、最後に登場する作家こそが、最も重要であり、本書が持つある種神秘主義的な要素を深めている。その正体とは、無論「ボルヘス」である――「周知のように、ボルヘスは、想像上の本を報告することにかけては卓越した力量を持っている。しかしボルヘスがもっと徹底してことにあたるのは……」(p17)。確かに、ボルヘスは「存在」については語らなかった。彼が根源的に物語を媒体として考究し続けたのは、ピュタゴラス学派における「アナムネーシス」(前世想起)、輪廻転生、永遠回帰、循環論、デジャヴュとジャメヴュについて、である。我々の考えによれば、ドゥルーズはニーチェ、ボルヘスの永劫回帰論とハイデッガーの存在論を一つの哲学に収斂させ、総括した哲学者である。この力業を成し遂げたというだけでも、彼の名はおそらく一千年先の哲学者、あるいは神秘家たちからもラディカルに言及され続けることだろう(まるでドゥンス・スコトゥスが二十世紀の哲学者たちの注目を集めたように)。
 ドゥルーズによれば、「存在する」とは「還帰する」ことである。還帰するとは、「差異について言われる同一性」、もしくは「異なるものの回りをまわる同一的なもの」になるということである。ここで彼の規定する意味での「反復」の概念が重要性を帯び始める。「反復」とは、「差異によって生産された同一性」を意味する。先述したように、彼は「存在」の本質を「差異」として規定し、この差異化を生み出す「跳躍」を「魔神的なもの」と表現したのだったが、この限りで存在とは「還帰」である。逆に言えば、「還帰する」ことが差異化を生み出す。更にドゥルーズはこれを踏まえた上での「存在(ある)」は、最早「生成(なる)」であると規定する。ドゥルーズの言う「永遠回帰」とは、そもそも「反復する」ということであるが、その本質は「同一なものを差異から出発して考える」(p76)ところに存するという。還帰するものは、もろもろの極限形式だけであり、それは変化しながら互いの中へと移行する諸形式でもあると述べられている。還帰するもの、それは「可動的な個体化のファクター」(p77)であり、永遠回帰が表現しているのは「すべての変身の共通の存在」(同)である。ニーチェは、このような「変化可能なエネルギー」のことを「高貴なもの」と呼称した。永遠回帰は存在論的に、「存在の一義性」を意味しており、この一義性の現実的な実在化であるという。いわば、ここでドゥルーズが展開しているのは「存在の一義性」が多義化するプロセスに他ならず、その端的な表現として「永遠回帰」が設定されていると考えることができる。
 ここで彼の思考をより深く具体的に把捉するために、二つの例を紹介しておこう。まず一つ目は、ボルヘスが触れてもいるアナムネーシスの問題である。例えば、千年前に生きた人の「生まれ変わり」を自称するような人間が現代に現れるとする。彼、彼女は何をもって「生まれ変わり」であると言い得るのだろうか? 無論、前の人間と現在の人間には時代背景という決定的な「差異」が存在する。この点で大きく隔たっているため、二人は同一人物ではありえない。では、何が「生まれ変わり」であるとみなす判断材料になるのだろうか? 千年前に生きていた人が辿った人生の軌跡を、高度に抽象化してある一つの「図式」に還元した時、これにもしかすると自分と同じ人生のモデルを見出すような人間がいてもおかしくはないだろう。例えば『差異と反復』の原註で何度も言及されている社会学者ガブリエル・タルドの『模倣の法則』には、「人間の本性は単一であり、有機体としての欲求は同一である」、あるいは「人間の本性は根本的に単一である」という人間存在の抽象化が行われている。この場合、時代背景や国家、性別、社会階級などは捨象されているのであり、「生まれ変わり」である判断は抽象化された人生の図式においてのみ遂行されている。もしもこのような人間が、千年前の人間の生まれ変わりであり、事象は永遠回帰していると告げ知らせたとすれば、彼ないし彼女は、少なくともドゥルーズがこの段階までで述べている永遠回帰論の諸条件を満たすだろう。何故なら、時代が離れた二人の人物はそれぞれ既に「差異」を持っている。にも関わらず、一義的な人生の図式を彼らは共有し合っている。この時、彼の意識の中では「存在の同一性」が、多義的に時間を隔てて展開されていると解釈されているわけであり、いわばこれは本質を同じくした「変身」に他ならない。還帰しているものは、この例において「反復」の定義である「差異によって生産された同一性」という条件を満たしている。以上から言い得る一つの定式とは、過去の人物の人生を抽象化した図式に還元した上で、自身の人生の各ターニングポイントがそれらに何らかの共通項を顕著に見出せる場合、両者は「永遠回帰」の存在論的条件を満たすということである。注意せねばならないのは、反復は同一性について言われるものではなく、「差異」を前提にしたものであり、むしろ差異化という「跳躍」によって一義的な存在から「生成」するものだということである。
 二つ目の例は、遊園地における「観覧車」における視野の「差異」の問題である。例えば我々がその日午後二時に初めて観覧車に乗ったとする。我々は「午後二時の景色を目にする」だろう。それから一時間後、我々がやはり「午後三時の景色を目にする」としよう。すると、ここで生起しているのは「観覧車」という共通する一義的な遊具を中心にして、「午後二時」と「午後三時」の風景の見え方が微妙に「差異」化しているという事実である。この例の方が、おそらく先の神秘主義的な例よりもいっそう「反復」の本質に接近できるだろう。それぞれの景色は「同一性」(同じ都市で、同じ角度)を維持しつつも、既に微分的な差異を滑り込ませている。換言すれば、風景は微妙に変化・変身している。他方、還帰するものを次々に生成させているものは「観覧車」であり、これ自体は変化せず、一義的である(とはいえ、観覧車も常に劣化していくし、乗客の顔触れも差異化するわけだが)。この例は、ドゥルーズの「差異と反復」の概念について理解する上での重要な補助線になると我々は以前から考えてきた。観覧車は回帰を生成させる存在であり、そこに我々が乗っている以上、反復した景色を目にするのは必然である。しかし、反復の中にもそれぞれ結節点が存在し、夕陽が沈んだり、どこかで火事が起きたりすると、我々は反復の中に「差異」を感じることができる。よりミクロな視点で眺めれば、我々はより深い次元で「差異」を見出すことも可能だろう。このように、「反復」が「差異」を包含している現象として「観覧車の回転」を把捉することが可能であるが、創造論的にいえば、おそらく概念の順序が逆である。起源に「差異」が到来し、この差異の有する跳躍、あるいは「魔神的なもの」が「反復」を促すのである――これが世界の生成の根本原理であり、細胞分化や進化の歴史にも顕著に見出すことができる。ドゥルーズは正確に、「永遠回帰における車輪は、差異から出発しての反復の生産である」(p78)と述べているが、もしも「反復」の概念を起源に設定した場合、「差異」は各様態に「選別」されていると考えられている。このように、ドゥルーズの規定する「存在」は一義的であるのだが、これは「差異の回帰」すなわち「反復」を意味する。ドゥルーズにもしもハイデッガー的な意味での「存在論」があるとすれば、それは「永遠回帰」を本質とした「差異の回帰」の存在論なのである。
 我々がドゥルーズと「観覧車」の問題に注目する一つの決定的な理由となるテクストは以下である。「神話の構造は、プラトンにおいて明瞭に現れている。その構造とは、二つの動的な機能、すなわち、〈回転し、還帰すること〉、および〈配分すること、つまり割り振ること〉という二つの機能をもった円環である――分け前〔運命〕の割り振りは、永遠回帰の輪廻として回転する車輪に属しているのだ」(p107)。ドゥルーズはここで、プラトンの『パイドロス』、『ポリティコス』などの神話のモデルに「回転する車輪」の構造が見出されると述べている。この箇所は、永遠回帰の存在論とプラトニズムにおける「イデア」の概念が接合されている点でいっそう興味深く、また神秘的である。ドゥルーズによれば、プラトンの『パイドロス』には、「天球の外側に乗って循環するプシューケー(魂)たちによって観照されるイデアたち」(p107)という神話的モデルが見出される。また、『ポリティコス』には、「宇宙の循環的運動を自ら司る〈神―牧養者〉」(p107)という原理がやはり登場する。見落とすべきではないのは、ドゥルーズが「循環するもの」を円、ないし球体として把捉し、その「中心」は常に不動であったという神話の記述を重視している点である。かつては「中心」に「神」や「イデア」が設定されたが、ドゥルーズは現代思想においてその機能を持つ概念を「差異」に見出す。『差異と反復』は、少なくとも第一章において伝統的な神話体系、古代ギリシア哲学の中心原理を相続しつつ、新しい「語彙」によって表象=再現前化している。
 ドゥルーズは永遠回帰を可能にするのは「差異」の選別を可能にする「反復」であると述べるわけだが、永遠回帰というこの円環の中心に存在するのは「差異」であると規定する。永遠回帰の法則に従えば、全てのありとあらゆる事物はけして同一的であることができず、見られる対象だけでなく我々が見る対象の視点も常に多義的であり、画一的ではない。例えば空に浮かぶ雲は刻一刻と姿を差異化させるが、それらを見る我々の内在意識も時間によって差異化する。こうした諸差異の中で、事物は「八つ裂き」(p99)にされていると表現されている。また、永遠回帰という概念は「オリジナル/コピー」という概念の考察にも寄与する。ドゥルーズによれば、「もの」は常に反復されることによってでしか存在し得ないのであり、「もの」はそれぞれ背後に「オリジナル」なものを起源として控えてはいないのである。「もの」たちはただコピーをコピーする。したがって、「もの」は動物であろうと他の何であろうと、常に永遠回帰においてはシミュラークル(見せかけ)の状態として維持されるのである。これは我々、存在了解を有する「現存在」においても妥当する。ハイデッガーは基礎存在論において現存在の情動性に注目し、「不安」を人間存在に特有の明かし得ぬ本質として定義したが、ドゥルーズはこういった心理的概念を捨象する。彼はより大胆に、我々の本質はシミュラークルに過ぎないという事実を前提にしている。
 永遠回帰の存在論から明らかになるのは、「もの」だけでなく「事象」も含め、全ては「反復」しているという構造である。「反復」は「差異」を中心原理として回転する円環である。だとすれば、ボルヘスがいみじくも述べたように、「失う」という動詞は「発見する」という動詞と再帰的関係にあると言えるのではないだろうか? 実はドゥルーズも第一章の記念すべきラストで、以下のように述べている。「どのセリーも他のセリーの回帰によってのみ存在する以上、何も失われはしないのである。全てはシミュラークルへと生成したのだ」(p117)。「もの」は原理的には失われることができない。何故なら、失われた対象は再び回帰して表象=再現前化されるからである。第二章でも、この章の深い考察で獲得されたドゥルーズの概念は形式を変えて再演されている。例えば、以下のテクストはまさに上記のテクストの換言であろう。「常に置き換えられ、また偽装される対象の特徴である〈ジャメ・ヴュ(未視)〉は、その対象がそこから引き出される当の純粋過去一般の特徴たる〈既視(デジャ・ヴュ)〉の中に潜んでいる」(p174)。




無人島 1953-1968 無人島 1953-1968
ジル・ドゥルーズ (2003/08/26)
河出書房新社

この商品の詳細を見る


私が最も好きなドゥルーズの小論「無人島の原因と理由」が収録されている珠玉の思考集成である。
この「無人島の原因と理由」を読んでいるとき、私はドゥルーズが無人島でこれ書いているようなイメージに襲われた。
おそらく今も、可能的無人島(ライプニッツ)で、可能的ドゥルーズが新しく再創造された「無人島の原因と理由」を書いていることだろう。

20070916134324.gif



★引用

したがって、昔の探検家たちに親しいあの問題、「無人島にはどんな生き物が棲んでいるのか」には、ひとつの回答しかないことになる。そこに棲むものは、すでに人間である。が、並みの人間ではない。絶対的に分離され、絶対的に創造的な人間だ。(「無人島の原因と理由」p16)



第二の瞬間は、第一の瞬間の後に続くものではない。第二の瞬間は、他の諸瞬間がみずからの循環を完成させた時にやって来る第一の瞬間の再出現なのだ。第二の起源は、第一の起源より本質的なものになる。(p21)



ノアの箱舟は、地上の唯一の地点、水没していない、円形の聖なる場所に停止し、そこから世界は再開される。それは、島であり山であり、同時に二つのものでもある。島は海に浸かった山になり、山はまだ乾いている島になる。ここには、再創造のなかで捉えられた最初の創造がある。(p21)



再開の理想のうちには、開始そのものに先立つ何かがある。開始を深くするために、開始をやり直し、それを時間のなかへと押しやる必要がある。無人島とは、この太古からのもの、あるいはこの最も深いものの質料である。(p22)



「千のプラトー 英訳 」

A Thousand Plateaus (Continuum Impacts) A Thousand Plateaus (Continuum Impacts)
Gilles Deleuze、Felix Guattari 他 (2004/10/14)
Continuum International Publishing Group Ltd.

この商品の詳細を見る


「ニーチェと哲学 英訳」

Nietzsche and Philosophy (Impacts) Nietzsche and Philosophy (Impacts)
Gilles Deleuze (2006/03/23)
Continuum International Publishing Group Ltd.

この商品の詳細を見る





哲学とは何か 哲学とは何か
ジル ドゥルーズ、フェリックス ガタリ 他 (1997/10)
河出書房新社

この商品の詳細を見る


ドゥルーズ+ガタリ(以下D+G)は哲学を概念創造であると規定する。
置換すると、内在平面の創建である。
以下に内在平面のモデル図を示す。


20071004140034.gif


A=主体の内在平面/プラトーである。
プラトーは常に領土化されている。
したがって区域的であり、平面には限界点がある。(a´~a´´´)

この段階では未だ哲学は開始していない。
概念を創造するためには、異平面の発見が必要である。
B、C=異平面とせよ。
これらは未領土化常態のプラトーである。

内在平面Aのリゾーム(伸縮自在な根茎a´~a´´´)を使ってb、c点に連結させる。
この時、平面B及びCの位相座標に応じてAそのものの中心点が脱中心化される。
脱中心化の原理はリゾーム運動にあり、そのプロセスは異平面への連結である。
これによって既成のA平面が非A化する。
この一連のプロセスを脱領土化という。
Aが非A化したので領土は更新されたが、A+B+Cを跨ぐ三平面において再び領土を形成することになる。
したがって再領土化している。
これを再び異平面D、Eへ脱領土化するために新たにリゾーム運動を再開する必要がある。

以上が、著者のいう哲学の原理である。

ひとは、思考するときには必ず、他のものへと、何か思考しないものへと、或る獣へと、或る植物へと、或る分子へと、或る粒子へと生成し、それらのものが、思考に回帰し、思考を再始動させる。(p63)



上記のモデル図の原理を把握すれば、「獣に生成する」「粒子に生成する」といったことの概念的意味内容が認識できるだろう。
獣とは前領土的なプラトーである。
『千のプラトー』を再読すれば、「道徳の系譜学」(ニーチェ)に対して彼らがなぜ「道徳の地質学」と表現したかの真意が掴めるはずだ。
彼らは現代哲学の概念創造のために非哲学から思考フレームを獲得する。
その哲学的運動がリゾーム運動である。

「Mandragora」

20071004142553.gif


リゾームは従来の植物イメージとは完全に異質である。
リゾームは自ら触手を伸ばして対象を内部に吸収する。
その度ごとにリゾームは成長し、別の大地へ歩行し、新たな対象を探索する。
これは内在平面の脱領土化→再領土化のプロセスと類似している。
リゾームの原型はマンドラゴラの神話的形態にも見出すことが可能であろう。

「ニューロン」


tystysryr.gif


D+Gの思考フレームはNeuron的である。
本書の後半で積極的にニューラルネットワークのモデルが哲学空間へ導入されていることを鑑みれば、彼らの思考フレームがNeuronにまで到達していたことが判明するだろう。
この鋭意は現代フランスを代表する哲学者カトリーヌ・マラブー女史に継承されている。(参照『わたしたちの脳をどうするか』)




ドゥルーズ横断 / 宇野 邦一

ドゥルーズ横断
ISBN:9784309241524 (4309241522)
382p 22×16cm
河出書房新社 (1994-09-30出版)

・宇野 邦一【編】
[A5 判] NDC分類:135.5 販売価:\3,873(税込) (本体価:\3,689)


内外の精鉛を結集した実践的なドゥルーズ読解のための決定版、ドゥルーズの思考を横断し、その思考とともに世界を横断する。

ペリクレスとヴェルディ―フランソワ・シャトレの哲学
『千のプラトー』について
「言語の存在論的基礎」について
操り人形の声―ドゥルーズ・ガタリの明るさと暗さ
造成居住区の午後へ
感覚のブロック
一九六九年出会う―ドゥルーズの文学論をめぐって
子供の情景―痛み・これ・リトルネロ
見えないもののエコロジー〔ほか〕



丹生谷貴志「造成居住区の午後へ」を読む




「人間は不在である、そしてしかし、その時、風景の中にすべてがある。
“L’homme absent mais tout entier dans le paysage.”  (p98)




知覚主体は世界を自分の知覚の組織において捉えなおすものである以上に、或いは以前に、あらかじめ(誰のものでもない)知覚として与えられた世界の中に巻き込まれ、その不思議な「無人性」の中に巻き込まれ、その「無人の知覚」の結果として自らを与えられることになるのである。(p102)




20071024122628.gif



われわれが孤独である時、我々は一人になるのではなく、誰でもないものとなり、誰でもないものの「知覚対象」へと広がり、そこにおいて雪崩れ、拡散し、誰であってもよい誰か、言い換えれば、無数の誰かであるような誰かとなるだろう。 「全ては風景の中にある」。(p102)




20071024122733.gif




 「風景は見る」、誰でもよい誰か、誰でもない誰かそのものとしての風景が現存し、見る、知覚する……。 (p102)




「私たち」は「風景」であり、「風景」の知覚そのものであり、その無限にあり得る「知覚する風景」の内包の無限にあり得る結果としての同じものであるだろう。(p103)



20071024122830.gif



ここで問題となっているのは「人間」的秩序と「自然」的秩序とが出会い、出会うことによって互いの秩序の緊密性を失い雪崩れる「中間地帯」なのである。(p103)




…すべてはおそらくあの造成居住区の午後に認められる。世界は「人間」を必要としていないという単純な事実が、さしあたり人間にしか与えられていない境界線の場所に現われ、その時逆に、その境界線=風景そのものが、あらゆる組織―秩序が綻び去り「混沌」である風景=知覚対象そのものが、「世界」を結果として要請し「人間」を要請することが認められる。(p117)




20071024122913.gif




「人間は不在だ、そしてしかし、その時、すべては風景の中にある」。おそらくは「無人」の場所へと赴き、絶えず赴き続け、そこに滞留し続けることが肝要なのだ。造成居住区の午後、或いは列車の窓の外に一瞬現われる「無人」の場所、或いは「無人の部屋」……その広大に看過された場所に滞在し続けること。なぜならそれこどが長い間にわたって我々が怯えにおいて抑圧し、隠蔽し、汚辱の中に遺棄し続けてきたものたちの場所であるだろうからであり、或いは端的に唯物論的所与としての奇妙な処刑場であると同時に「生」の場所に他ならないからである。」(『哲学とは何か』)(p116)

 


(参照した絵は全てCristobal Toralが描きました)

「Cristobal Toralの絵」

http://www.artelibre.net/ARTELIBRE1/TORAL/TORAL.htm




ドゥルーズ―存在の喧騒 ドゥルーズ―存在の喧騒
アラン バディウ (1998/02)
河出書房新社

この商品の詳細を見る


ドゥルーズ―存在の喧騒
[原書名:DELEUZE〈Badiou, Alain〉 ]
ISBN:9784309242033 (4309242030)
163p 19cm(B6)
河出書房新社 (1998-02-25出版)

バディウ,アラン【著】〈Badiou,Alain〉・鈴木 創士【訳】
[B6 判] NDC分類:135.5 販売価:\2,520(税込) (本体価:\2,400)



とても遠くから!とても近くから!
どのドゥルーズなのか?
「存在」の一義性と名前の多数性
方法
潜在的なもの
時間と真理
永却回帰と偶然
外と襞
ある特異性




  存在論的遊牧  

ドゥルーズの最初期の盟友にして後輩、アラン・バディウは本書前半で、彼の哲学が実は存在論であったことを告げる。
ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」以来、西洋哲学のテーマとなってきた「一(I’Un)」――「多(le multiple)」の圏内において、ドゥルーズが提示したのは「存在論的ノマディズム」であったと規定する。
バディウのディスクールに依拠すると、スコトゥスの「存在の一義性」とは数的次元には還元不能な概念であり、実質的には存在論的同一を意味する。
「存在」の一義性と、諸存在の多義性という双方を孕んだ概念を、スコトゥスは提示したとする。
その上で、ハイデガー存在論は、あくまで「存在論的差異」に拘泥している点で、「存在論的定住」(ノモス)であると規定される。
他方で、ドゥルーズは、ハイデガー的な定住志向から解放する概念として、「リゾーム」「器官なき身体」「遊牧機械」といったコンセプトを提示したが、実はこれらは「存在論的遊牧」(ノマディズム)という一なる存在論的概念の多様な変奏だというわけである。
ドゥルーズにおいては、「存在の一義性」=「諸存在の多義性」に依拠して、いわば同じ一つの存在論が名前を変えて生産されているのである。
つまり、ドゥルーズの豊饒な概念は、ハイデガー哲学の根本的問いである「有への問い」へと収斂するとバディウは述べている。
関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(2)



~ Comment ~

No title

こんにちは、はじめまして。私見ですが、ドゥルーズは哲学というよりは、倫理学にカテゴリー化されると思います。
なぜなら、ガタリとの共著で、心理学の要素が強いと思うからです。人間の無意識の世界を取り扱った内容が多く。大陸合理論から引き継いできた、アプリオリな認識主観的思考というよりは、心的な欲望の生理学の説明に終始しているからです。ハイデガーは、アリストテレース哲学の再興を唱え、帰納法的経験主義哲学の実践としての存在論的大陸合理論を徹底的に検証し、それら根本規定を時間の概念のなかで、説明したのではないかと思います。

[2008/08/27 16:55]  kimio hirasaka international  URL  [ 編集 ]

kimio hirasaka international さんへ

はじめまして。

>ガタリとの共著で、心理学の要素が強いと思うからです。人間の無意識の世界を取り扱った内容が多く。

確かに『アンチ・オイディプス』はフロイトがさながら「父の法」として批判されていますね――精神分析学的なアプローチの部分はドゥルーズよりもガタリのテクストに依拠していると考えます。
後期ドゥルーズも後期ガタリも、共通して「ネットワーク」的な思考フレームにまで到達した、といえるのではないでしょうか。
その場合、心理学的なコード、という一つの学問的なアプローチに収まりきらない、非常にシステム論的でメディア論的な次元にまで彼らの思考は接続可能だと考えます。
ドゥルーズは「シムステイム」の位相座標で神経細胞のニューラルネットワークをモデリングし、ガタリもやはり流動し脱中心化される機械状のアモルフなフレームとして、同じように「ニューロン」にまで達しています。
私は二人が「思考フレーム」の未来形式を提示したことに注目しています。

ハイデガーについては、書くべきことは沢山あるでしょうが、上記の観点で申しますと、システム的には同一性に依存していると考えます。
つまり彼の思考は一つの意味/領土に帰属して、そこにオントローギッシュなシステム的構成を繰り返す機械です。
ドゥルーズ&ガタリ、ハイデガーといったそれぞれの思考回路は、メディア論的なパースペクティブにおける重要な操作概念になるでしょう。
[2008/09/07 04:27]  Dilectio proximi  URL  [ 編集 ]















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next