† 文芸理論 †

現代詩における「非定型のform」、「自由なstyle」――『現代詩手帖』バックナンバーを読む


現代詩手帖 2013年 12月号 [雑誌]現代詩手帖 2013年 12月号 [雑誌]
(2013/11/28)
不明

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⑴現代詩における「非定型のform」、「自由なstyle」

 北川透は「いま、詩は何処で生きているか」(講演)の中で、日本の現代詩の状況を以下のように振り返っている。

 いま、現代詩の状況を言えば、いよいよ詩の基準、形式、形体というものが見えなくなっている。今日いただいているテーマで言えば、詩が何処で生きているのかが、わからなくなっている、ということでしょう。詩人たちはみんな好き勝手に詩を書いている。それはそれでいいことですが、その結果、旧態依然の詩もあれば、何が何だかわけがわからない詩もあります。詩の書き方の恣意性が、今日ほど拡大したことはありません。(p33)


 北川氏によれば、現代詩には少なくとも二つの方法論がある。一つ目は、「非定型のform」であり、これは個人の感情や思惟などによっては変化しない型、形式を指している。二つ目は内容に相応しい方法、姿を採用するという「語りのstyle」である。要するに、ある程度の「様式」を重視して書くか、それとも感情のリズムに合わせてその都度の「スタイル」で書くか、という違いしか最早なくなっていると彼は述べている。そして現代では、formは失われ、自由なstyleがある、とされる。
 例えば、吉本隆明の詩には真実を口にし、通常では見えない関係性を描くことで詩に「内的根拠」を見出すことに成功していたとされる。それはいわば自己表現の詩であり、吉本には確かにstyleがあった。他方、入澤康夫は「コンテクストでは物語を作らない」という考えを1968年に刊行した『詩の構造についての覚え書』において展開している。初期の北川氏の詩作も、どちらかというと入澤的なタイプであると言えるだろう。ここでは、ただformのみが存在するとされる。もう一つ、現代詩の特徴として北川氏は井坂洋子のような「パロディ」の試みを取り上げている。パロディ的な詩作においては、これまでの詩を独創的に読み替えることが企図されたりするようだ。

 次に、荒川洋治氏と蜂飼耳氏の対談「いま、詩を読むこと」をまとめておこう。
 この対談では、まず現在はジャーナリズムに靡いた「小説」に大衆的関心が集まり易い傾向があり、「詩」が目立たなくなっている点が言及されている。また、長い詩では引用する行為も困難になるため、評者がどこを引用するかという点には常にある種の「緊張感」が漂う、という点についても触れられている。とりわけ荒川氏は、「小説と詩の差異」について極めて興味深い考えを表明しているので、以下に引用しておこう。

小説は、すごく頭のいい人たちが考えぬいた言葉に身を任せていればいい。三島だの太宰だの村上もそう。頭のいい人たちが考えてくれるので受け手は楽でね。ところが詩は個人的な言語だから、読む人が書き手と一緒に考えていく。小説は優れた人たちがぜんぶ説明してくれる。これでは考える力が養われないからね。もう一つは、短歌や俳句は定型で、これは形があるので何やかや言いながらも最終的にはそこに戻れる。詩の言語は、小説と定型のあいだで、散文的に述べることもできるんだけど、しかし型がない。一番不安定なところを引き受けている。定型でもない散文でもない、とても不安定な、中空の状態。これはまさに今多くの人たちが抱える精神的な不安、浮遊感そのもの。どっちにも行けない。個人というものにも行けない、社会というものにも行けない、迷い漂う状態は、まさに詩の状態だよね。詩を書く人たちの状態と同じ。一番不安なジャンルなの。(p83)


 荒川氏のこうした見解は、北川氏の講演録での「非定型のform」、「自由なstyle」という考えとも一致している。こうした意見から、薄らとではあるが現代詩の状況というものが少しずつ見えてくるのではないだろうか。
 荒川氏が『詩とことば』などでも述べていることだが、詩の歴史はホメロスからおよそ2700年、小説は『ドン・キホーテ』から400年という数え方をすることがある。ルソーの『告白』を近代小説の出発点とする従来の考えを採用しても、まだ250年くらいしか経過していない新しい芸術ジャンルである。荒川氏によれば、体の中から最初に出てくるものが「詩」であり、19世紀に近代化が進んで社会構造が複雑化するにつれて、あれこれと伝達しなければならないようになって発達したのが「散文」である。散文はより体内的な生のものである詩に較べて、非常に人工的だとされる。そこには機械的に綴ってしまう怖さがあり、個人的な言語を切り捨ててしまうという危険もある。しかし、「詩」は「伝達」のために存在するのではなく、「心に生まれた言葉を率直に出す」ことにその本来的な鋭意があった。「個人」を徹底的に表現できるもの――それは「詩」にのみ可能である。したがって、「詩」は社会とも、日本語の規則とも繋がらなくて良い。ただ、心の内面をその人独自の言語によって表出することに力点が置かれている。このように、荒川氏は詩の機能を、「個人を守る」ことにあると規定する。対照的なのが、社会的に通用する言語として構成されていった「散文」であり、これは「小説」特有の言語であるとされる。荒川氏はこうした文脈から、「散文」を「冷たい言語」と呼んでいる。例えば、荒川氏が詩の本質、中核を学習する上で重要だと認めている石原吉郎の詩では、文法は壊れている。
 以上から、荒川氏は現代文学の全般的な特徴を「散文支配の時代」と呼称する。この対談で、今の若い人にも読むべき詩人として推薦されていたのは以下である。

・高見順『死の淵より』
・吉岡実『サフラン摘み』
・井坂洋子『地に堕ちれば済む』
・藤井貞和『神の子犬』
・伊藤比呂美『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』



⑵現代詩の特徴を掴むためのサンプリング

 「非定型のform」、「自由なstyle」という現代詩の特徴を掴むために、幾つかの詩をピックアップしてみよう。ここでの目的は、詩の内容よりも、むしろ以下の詩がどのような形式になっているかをサンプリングすることを第一とする。(ページ番号は全て『現代詩手帖2013年12月号』に拠る)

重なる建物が軒並み重なることがすんなりと語られることに辻褄が影のようにのびる。しみでる。いっせいに横倒しだったわずかな隙を縫うようにしていろいろ響かせてかなりの語り種になる。飛び出したさきから語られる。…(略)…遠くで鉄筋コンクリートのくだける予感がする。さえずるものもあるいはいたかもしれない。しれなかった。なまなかな和平だけは静かに去っていっただろう。

…(略)…

一枚はがされるたびにうずくまる。礫のようだねとあのころの今はほころびる。そのころあいに投擲された気持ちは顔とかさなってそれでいてどこか探しあぐねている。(p270)

高塚謙太郎『カメリアジャポニカ』「レター・アフター・レター」



 散文的に綴られている詩だが、表現が独特である。文脈があるようだが、むしろ直観的に、感覚的に書かれている気もする。

クモの巣のネックレス
サトイモの葉のイヤリング
朝日がのぼると ふっときえた

ものごころついたとき私はこのような優しい自然の中にいた 朝露の中に浮かぶつゆ玉美しい水滴を前にして私もまた一滴となってふるえていた 身の内からつきあげる名づけがたい衝動につきうごかされてふるえたのだ 今思うと 表現したいというやみくもで得体のしれないエネルギーのおののきだったかもしれなくて それは私の水とのかかわりの原点だった気がする 私の一番初めの遊び友だちは山梨県の澄んだ水といってもいいだろう 家の前を流れる水路の水草をながめ 小さなメダカをかぞえた 金川の川原でススキを摘みクリを拾ったり(p320)

岡島弘子『ほしくび』「トンネルをぬける」


 こちらは逆に理解し易い形式で、「定型」的な詩の言語と、「散文」的な言語が交互に綴られている。そこにアクセントがあり、いわばリズムが生じている。散文詩の箇所は、「句読点がない」という共通点があるが、「 」などの会話文の記号は採用されている。また、ここにもし句読点を入れて改行も施せば、ほとんど「小説」、「エッセイ」の形式になると言っても良いかもしれない。つまり、そういう点でも「散文」的な作品である。そして重要なのは、一つの詩に対して、こうした「法則」が一貫されている点であろう。

ある朝まっさらな
赤ん坊の記憶のように
イスロマニアという言葉を覚えた
島偏愛症というらしい
それからというもの
頸骨の左隅に寄生している
しかも それは 地続きの島だ
わたしの棲む町は
大きな島の半島部分にあたる

(p344)

船越素子『半島論あるいはとりつく島について』「半島論あるいはとりつく島について」



 次にこの詩は、詩らしい形式になってはいるが、改行せずに一つ一つ繋げると「小説的散文」になる。つまり、この冒頭の部分は、イスロマニアという用語の「説明」になっている点で、いっそう小説的ではないだろうか。この「物語的散文詩」が詩として成立しているのは、そのformによってだろう。というよりも、これが「詩として」書かれている、という点だけによって「詩」として成立しているのかもしれない。そのような詩は、他にも多くある。

道を歩いていると
とつぜん家と家との間にさら地があらわれ

そこに何があったか
言葉は降ったのか
何一つ思い出せなかった

文字をおぼえて
過ぎたことを忘れることができなくなった

書かなければ
あったことの多くを忘れられるという(p367-8)

北川朱実『ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ』「字が書けそうだった」



 この詩には、むしろformというより素朴な styleがある。そして見逃せないのが、「とつぜん」、「あらわれ」、「おぼえて」などの言葉が全て「平仮名」であるという点だ。変換すると、以下になる。

道を歩いていると
突然家と家との間にさら地が現れ

そこに何があったか
言葉は降ったのか
何一つ思い出せなかった

文字を覚えて
過ぎたことを忘れることができなくなった

書かなければ
あったことの多くを忘れられるという



 こうするとよく判るが、「突然家と家」という部分は、どこか硬い印象を受けてしまう。漢字特有の硬さである。ひらがなで「とつぜん家と」と書けば、いわば「家」が傷付かずに済むだろう。詩における効果的な「平仮名」の使い方はそろそろ意識した方が良いだろう。あえてそこを漢字にする必要もなければ、別に平仮名で良いのかもしれない。

 ハーテビーストという、優美なレイヨウの頭蓋骨の縫合線は、頭頂部へと遡行するにつれて、リアス式海岸の海岸線の地図のように複雑なじぐざぐを描く。縫合線は傷ではない。頭蓋のそれぞれの骨のパーツをしっかりと組み立てるための構造なのだが、どうしても傷跡に見えてしまう。

…(略)…

 そう言えば、わたしはいつも、骨格標本を扱っている時、とても幸福な気分になる。それらの骨を「死」というものから解き放してやるという思い。(p389)

時里二郎『石目』「ハーテビーストの縫合線」



 これも散文的だが、最早「小説」との違いが見当たらない。「句読点」もあり、改行もある。シュールな表現が散見されるが、これはシュルレアリスムの小説にも妥当するので、未だ「詩」として成立させている明白な根拠が判らない。つまり、「散文」であり、まさに「非定型なform」である。

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