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† オペラ †

バレエの思想と歴史

あだ
《ラ・シルフィード》のリトグラフ(1845年)

【思想としてのバレエ】

 dance、すなわち「舞踏」は芸術の母であり、「言葉」と同じく古い歴史的・文化的背景を持っている。にも関わらず、バレエは動作の芸術であるため、それまで「作品」として保存されにくかったという顕著な特徴も存在する。バレエは舞台空間上で展開される舞踏手たちの動作、及びその配置を美的に把捉する芸術である。例えば、空間上では中央の人間ほど重要であり、端に近付くほど脇役になるという遠近法が採用されている。どのような舞踏にも常にコスモロジーが宿っていると考えられるが、ルネサンスにおいてはバレエの舞台空間は「宇宙の模型」の象徴であった。こうした宇宙論をバレエに重ね合わせる思想は、18世紀に現れた市民たちによってバレエ自体が娯楽として認知され始めるに及んで、次第に消えてしまう。しかし、その後に登場する《ジゼル》、《白鳥の湖》、《ラ・シルフィード》といった19世紀のバレエ・ブラン(ロマンティック・バレエ)の時代に属する代表的なバレエも、実は内容的に「この世とあの世を結ぶ物語」(死の国から帰還する)という共通項を持っており、いわばバレエとは生と死を結合させる一種の儀式として解釈されるようになる。こうした要素は、日本の「能」における《夢幻能》のような作品にも見出される。
 こうした思想はキリスト教以前の古いヨーロッパの神話体系に来歴を持っていると考えられている。20世紀では、バレエ・リュスのニジンスキーが、「死と再生」のテーマを特に重視し、《春の祭典》によって独自の宇宙論にまで到達した。その後、マーサ・グレアムもバレエの思想には本質的なものとして「生と死」に基づく宇宙論が存在することに気付いている。
 このように、バレエにおける全ての動作は、ヨーロッパのコスモロジーを理解する上で極めて重要な素材となるのである。


【バレエの歴史】


⑴17世紀――バロック時代のバレエ(ルイ14世期)

 歴史上、最初にBalet(バレエ)という語が用いられたのは、1573年に上演された《ポーランドのバレエ》である。バレエはイタリアでルネサンス時代に発祥したと言われる。ただし、本格的にバレエが成立したのはバロック時代、ルイ14世期のフランスであった。このことから、「バレエはイタリアに始まり、フランスに育った」と言われる。イタリアからフランスに舞踏が流入したのは、16世紀半ば、カトリーヌ・ド・メディシスがフランスの王子アンリに嫁入りしたことが直接的なきっかけであると考えられている。1581年には、フランスで既に宮廷バレエの最古の作品とされる《王妃のバレエ・コミック》が上演されていた。最初期のバレエは、現在も「バロック・ダンス」として受け継がれている。因みに、「歌」を意味するフランス語のシャンソンとイタリア語のカンツォーネにも違いがある。シャンソンはどちらかというと物語的な語りを重視しているが、カンツォーネは歌そのものを表現している。
 足の基本となる五つのポジションは、ルイ14世専属の舞踏教師ピエール・ボーシャンが決めたものである。ルイ14世は元来舞踏好きとして名高く、特にアポロ役を演じ、entrechat(アントルシャ:垂直にジャンプして、両足を素早く打ち合わせるテクニック)が上手かったことから「太陽王」という名が冠せられた。この時代のリュリやラモーのオペラには、バレエ的な部分が存在している。また、バッハも舞曲に影響を受けて管弦楽やチェンバロのための組曲を作ったことが知られている。特に、リュリのオペラ=バレエ《愛の勝利》(1681)を踊ったラ・フォンテーヌは「舞踏の女王」と称され、しばしば「最初の女性ダンサー」として位置付けられている。バレエ用語では、主役の後ろで群舞を踊る舞踏手たちをcorps de ballet(コール・ド・バレエ)と呼ぶが、これはルイ14世期のヴェルサイユ宮殿での「閲兵式」から生まれたという説も存在している。

⑵18世紀――啓蒙主義時代のバレエ

 18世紀になると、「近代バレエの祖」や「舞踏のシェイクスピア」と称されるchoreographer(振付家)であるジャン=ジョルジュ・ノヴェールが登場する。彼はフランスのダンサー、コレオグラファーであり、マリー・アントワネットの舞踏教師であっただけでなく、彼女の助力によってパリ・オペラ座のメートル・ド・バレエ(現在の芸術監督に相当)にも就任している。彼は「バレエ・ダクシオン(演劇的な舞踏)」を創始し、バレエを物語に近付けた最初の人物である。ノヴェールは「交響曲の父」であるハイドンの同時代を生きた人物でもあった。この時代までのバレエの流れについて、三浦雅士氏は以下のように解説している。

歌、舞踏、器楽合奏というすべての要素を合わせ持っていたフランスのオペラ・バレエが、18世紀の後半になって、⑴イタリアにおいては声の芸術としてのオペラに、⑵フランスにおいては身体の芸術としてのバレエに、⑶ドイツにおいては器楽の芸術としての管弦楽に、さっと別れ、それぞれの国において開花していったように見えてきます。(三浦雅士《バレエ入門》p73)


 啓蒙主義の時代特有のバレエとして知られているのが、1789年に上演されたジャン・ドーベルヴァルの《ラ・フィユ・マル・ガルデ》であり、この作品はやはり啓蒙思想の萌芽を感じさせるモーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》と相関している。

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ニコラ・ランクレット《マリー・カマルゴの踊り》(1730年)
 18世紀を代表するバレリーナとして重要なのが、「三人のマリー」である。最初のマリーは、スカートを従来よりかなり短めにして、アントルシャやカブリオール(跳躍しながら踵を打ち付けるテクニック)を披露して有名になったマリー・カマルゴである。二番目のマリーはカマルゴのライバルで、透けるように薄い衣裳で踊ったことで話題になったマリー・サレである。そして三人目は、その後のロマンティック・バレエの最初の作品《ラ・シルフィード》を踊ったマリー・タリオーニである。
 また、この時代から続く19世紀にかけてパリ・オペラ座を牛耳ったダンサー一家のガエタン・ヴェストリスと、オーギュスト・ヴェストリスの存在も重要である。ヴェストリス一家については、20世紀になってレオニード・ヤコブソンがバレエ《ヴェストリス》を制作し、ミハイル・バリシニコフが踊るなど、後世にも大きな影響を与えている。

⑶19世紀前半――バレエ・ブラン(ロマンティック・バレエ)の時代

 パリ・オペラ座が中心となるロマンティック・バレエの時代に入るのは、フランス革命後である。
 1832年、《ラ・シルフィード》が上演される。このバレエは「最初のロマンティック・バレエ」であり、モスリンの白いチュチュを最初に身に着け、ケーブルを使って空を飛ばせた最初の作品として知られている。これらの要素には既に前例があったが、総合的に一つのバレエとして上演してみせたのは《ラ・シルフィード》が最初であった。ちなみに、白いチュチュに関して言えば、この前年に初演されたマイアベーアのオペラ《悪魔のロベール》の「尼僧のバレエ」の場面では、姦淫を犯した尼僧たちが群舞を披露するが、こちらも白いチュチュを身に着けた作品である。
 この時代は、「ロマンティック・バレエ」という表現からも判るように、芸術潮流としては同時代の「ロマン主義」と密接な関わりを持っている。特に、バレエにも大きな影響を与えた文学上の作品としてはハイネの《流刑の神々》が重要である。ロマン主義と結託することにより、バレエは「現世と来世を繋ぐ」という、舞踏芸術としての本来的なテーマに立ち返った。《ラ・シルフィード》では、「妖精たちの踊り」という、それ自体で地上世界を超越したロマン主義的な要素が採用されている。
 1841年になると、「ロマンティック・バレエの最高峰」として名高い《ジゼル》が上演される。《ラ・シルフィード》が「妖精たち」だったとすれば、《ジゼル》は「幽霊たち」の踊りであり、いずれにしても現世的な論理を超脱した存在者の踊りに焦点が当てられている。これら二つのバレエで共通しているのは、一幕が「地上世界」、二幕が「超越世界」の舞踏を展開している点であり、作品全体がいわば「超越世界への通路」としての意味を獲得していることである。
 美学史との関係で言えば、ロマン主義芸術はエドマンド・バークの《崇高と美の観念の起源》や、カントの《判断力批判》などでテーマになる「崇高」とも相関している。実際、ロマンティック・バレエでは人間の「光」の側面よりも、「闇」の情念を描き出すことが流行している。ロマンティック・バレエにおいて、バレエはようやく舞踏芸術としての「死と再生」という究極的なテーマを見出すに至るのである。
 衰退期の作品としては《コッペリア》が知られている。また、画家のエドガー・ドガは「バレエの画家」としばしば称されるが、彼が描いたのは主として1870年代以降の衰退期のバレエシーンであった。

「ロマンティック・バレエの代表的ダンサーたち」


1841年 グリジ
《ジゼル》カルロッタ・グリジ(1841年)

 写真のないこの時代は特にスター級の女性ダンサーの舞踏シーンを描いた「舞踏版画」がバレエ人気に拍車をかけていた。今日でも、こうした版画から彼女たちの姿を確認することができる。有名なダンサーとして覚えておくべきなのは、「三人のマリー」の三人目のマリー・タリオーニ、ゴーティエのミューズでもあったカルロッタ・グリジ、そして官能的な舞踏で観衆を虜にしたファニー・エルスラーである。中でも、タリオーニ、グリジらが競演した《パ・ド・カトル》はロマンティック・バレエの最盛期の作品として名高い。

「エンマ・リヴリー事件」

 ややバレエ史からは離れるが、実はマリー・タリオーニは自分の後継者としてエンマ・リヴリーという少女を選んでいた。マリーは彼女のために《パピヨン(蝶)》という作品を自ら振り付けしている。それは、呪いによって蝶に替えられてしまった美しい主人公が恋を成就するために火焔の中に飛び込むと、その呪いが解けるという筋書きのバレエであった。しかし、このドレスリハーサル中に起こった事故で、リヴリーが着ていた衣裳は火に包まれて大火傷を負い、二十一歳で彼女は命を落としてしまう。それ以後、マリー・タリオーニが振り付けを担当することは二度となかったという。

⑷19世紀半ば――「クラシック・バレエ」の時代(グラン・パ・ド・トゥの成立)

 一世を風靡したロマンティック・バレエであるが、ヨーロッパでは次第に産業資本主義化が進展して、それまでは貴族的な娯楽であったバレエも次第に衰退し始める。しかし、バレエはフランスの貴族文化に憧憬を抱き続けていたロシアという宏大な大地で新たな覚醒を見せることになる。ここで民族的な観点を述べておくと、中央アジアに接しているロシアには「遊牧民的文化」が残っていることが知られている。三浦雅士氏の解釈によれば、舞踏には大別すると「飛んだり跳ねたりする踊り」と、「地面を這うように舞う」二つのタイプが存在し、それぞれ「踊り」、「舞い」として区分される。前者はロシアやモンゴルなどの「遊牧民的文化」に多く、後者は日本などの「農耕民的文化」に多い。ロシアがなぜバレエと親和性が高かったのかという歴史的背景には、このような遊牧民族に流れる舞踏の血が作用していると考えられる。では、ロシアというヨーロッパとは異なる土地でバレエを根付かせた人物とは誰だったのだろうか。

マリウス・プティパ ペテルブルク(1855年)
マリウス・プティパ(ペテルブルク、1855年)

 その人物こそ、ペテルブルクのバレエマスターであり、チャイコフスキーの盟友であり、「クラシック・バレエ」を確立したマリウス・プティパその人である。プティパはそれまでヨーロッパで踏襲されていた「ロマンティック・チュチュ」(tutuとは、danseuse〔ダンスーズ:女性の舞踏手〕のための衣裳)を、より踊り易い「クラシック・チュチュ」へと更新し、それまでは禁じられていたダイナミックな要素をバレエに採用し、これを規範とした。この規範が、今日「クラシック・バレエ」として知られるものである。クラシック・バレエの特色として忘れてはならないのは、pas de deux(パ・ド・ドゥ:男女二人のデュエットであり、バレエの中心場面)から、grand pas de deux(グラン・パ・ド・ドゥ)への形式的な進化である。プティパがバレエの基礎として確立したグラン・パ・ド・ドゥは、基本的に以下のような五つの流れで構成される。

grand pas de deuxの基本構成

⑴主役の男女の入場場面(アントレ)
⑵男女で踊るadagio(アダージオ:イタリア語で「ゆっくり」)
 アダージオの最後の瞬間では、男性が女性を頭上高く持ち上げて(「リフト」)、一瞬のうちに脇に抱え、抱えた女性を膝の上で微妙なバランスを取らせたまま離すといった超絶技巧を披露しなければならない。
⑶男性のみのソロ・ヴァリエーション
 プティパによって、この場面で男性ダンサーも自分の得意技をかなり自由に披露できるようになった。それまではentrechat(アントルシャ:垂直にジャンプして素早く両足を打ち合わせる)やカブリオールに限定されていた。
⑷女性のみのソロ・ヴァリエーション
 女性はpointe(ポワント:爪先立ちで優雅に移動すること)や、pirouette(ピルエット:「駒」を意味し、片足を軸にして回転するテクニック)を披露する。
 ※(⑶と⑷は基本的にアレグロ、アダージオ、アレグロというテンポで進む)
⑸二人で踊るフィナーレ、クライマックスとしてのcoda(コーダ)
 ここで再び男女が一緒に踊る。特に《白鳥の湖》の第三幕でオディールが披露するような「フェッテ:片足のまま数十回、回転し続ける超絶的なテクニック)は観客を熱狂させる。



 バレエ史においてプティパの作品で特に重要なのは、チャイコフスキー作曲の《眠れる森の美女》、《ラ・バヤデール》(初演のソロル役はレフ・イワノフ)、そして《白鳥の湖》(チャイコフスキーは《ジゼル》の研究の上でこの作品を作曲したと言われる)である。
 ちなみに、プティパの娘のマリア・プティパも女性ダンサーであった。

⑸20世紀前半①――「バレエ・リュス」の時代


セルゲイ・ディアギレフ
セルゲイ・ディアギレフ

 ここまでのバレエ史の流れを判り易く図式化しておくと、バレエはイタリア・ルネサンス時代に誕生し、フランスでロマンティック・バレエ(《ジゼル》、《ラ・シルフィード》)にまで進化し、ここでストップしかけていた状態を、移植してクラシック・バレエに育て上げたのが、マリウス・プティパを初めとするペテルブルクの帝室マリインスキー劇場である。こうして成人したバレエを、再びロマンティック・バレエの国フランスに里帰りさせたのが、ディアギレフ率いるロシア・バレエ団「バレエ・リュス」であった。
 バレエ・リュスの第一回パリ公演は1909年であるが、ロシア革命後は「流浪する一座」としての運命を余儀なくされた。しかし、これがかえってアメリカにバレエ団を設立する契機になるなど、彼らは世界中にバレエ芸術の種子を播いた、「散種するバレエ団」だった。そして、経済的な面でバレエ・リュスを支援していたのは実はフランスではなく、ロンドン市民である。
 ディアギレフが起用していた代表的なコレオグラファーは、活躍順にフォーキン、ニジンスキー、マシーン、ニジンスカ、バランシンの五名である。そして、この中でも突出した才能を発揮したのが、ディオニュソス的な振り付けで知られ、ディアギレフとも同性愛的関係になったが破綻を来したことでも知られるニジンスキーと、彼とは対照的にアポロン的な振り付けによって、モダン・ダンスへと発展していく「抽象的バレエ」を創始したバランシンである。ちなみに、ニジンスカはニジンスキーの実の妹であり、マシーンはディアギレフがニジンスキーとの破局後に選んだパートナーでもある。
 舞踏研究家の芳賀直子氏はバレエ・リュスが残した最高傑作の一つには、間違いなく《眠れる森の美女》が入ると述べている。この作品の美術、衣裳を担当したレオン・バクストの仕事も重要である。

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イダ・ルビンシュテイン

アレクサンドラ・ダニロワ
アレクサンドラ・ダニロワ

 バレエ・リュスに関わり、活躍した女性ダンサーとして重要なのが、プルーストやロベール・ド・モンテスキュー男爵、ダヌンツィオといった一流の審美眼の持ち主たちから崇拝されたイダ・ルビンシュテインである。彼女は《サロメ》、《クレオパトラ》、《シェエラザード》などで踊った。アンナ・パヴロワはバレエ・リュスの看板役として活躍し、1922年に来日した際は、芥川龍之介や川端康成、和辻哲郎らもその踊りを鑑賞したと言われている。この他、タマラ・カルサヴィナ、アリシア・マルコフ、アレクサンドラ・ダニロワも重要である。

(a)宇宙的なディオニュソス的バレエを展開したワツラフ・ニジンスキー

ニジンスキー
ワツラフ・ニジンスキー

 芳賀直子氏はニジンスキーについて、「ヴェストリスの再来」、「百年に一度の才能」、「天才」などと評しているが、三浦雅士氏はより冷静に、実際は「職人気質」のコレオグラファーだったと解釈している。重要な作品は《牧神の午後》と、1913年当時24歳で振り付けを担当した《春の祭典》である。《春の祭典》は同時代のT・S・エリオットを初めとする芸術家から称讃されるだけでなく、その後のバレエ史においても重大な影響を与えた。特に詩人エリオットの詩集《荒地》とのテーマ的な相関、あるいはニーチェの処女作《悲劇の誕生》から論じられることもある。しかし、ストラヴィンスキーはニジンスキーのバレエに批判的であり続けた。

(b)アメリカン・バレエの礎を築き「抽象バレエ」を創始したジョルジュ・バランシン


バランシン
ジョルジュ・バランシン
 バランシンはそれまでの「物語バレエ」を捨てて、「身体の動きの美」のみによって充足可能なバレエを展開した。つまり、従来のバレエ芸術から「舞踏」以外の要素である物語的なものを全て剥ぎ取り、「抽象的バレエ」を初めた最初のコレオグラファーである。抽象的バレエは、その後の「ポスト・モダンダンス」の流れにも発展していくが、舞台に「中心点」を設けない点が第一の特徴である。換言すれば、それまでのバレエのような舞台の遠近法には従わないスタイルを採用している。
 バランシンもやはり24歳だった1928年にストラヴィンスキー作曲による《アポロ》を振付けている。この作品でストラヴィンスキーは「新古典主義」を確立した。バランシンはその後、アメリカへ渡って1934年には後のアメリカのバレエの基礎となる「スクール・オブ・アメリカン・バレエ」を設立するなどの目覚ましい功績を残した。とはいえ、彼には《ユニオン・ジャック》などのナショナリズムに迎合したようなバレエも存在している。他にバランシンの重要作として知られているのが、《コンチェルド・バロッコ》、《シンフォニー・イン・C》などである。

⑹20世紀前半②――「モダン・ダンス」の興隆

(a)マーサ・グレアム

マーサ・グレアム
マーサ・グレアム

 20世紀前半は、バレエ・リュスの活躍した時代であるが、同時にモダン・ダンスが興隆し始めた時代でもある。モダン・ダンスの黎明期には、アメリカで活躍していたイサドラ・ダンカン、ルース・セント=デニス、ロイ・フラーなどの女性たちが存在するが、中でも突出していたのはルース・セント=デニスの弟子であり、真性の天才的なコリオグラファーと評されるマーサ・グレアムである。グレアムの代表作《太古の秘儀》(1931)は、「祈るバレエ」とも称されるように、キリスト教という宗教的背景に、より古層に位置する古代祭儀を据えた儀式的要素の強いバレエである。また、グレアムは40年代から50年代にかけて、自身の内面的葛藤を「ギリシア悲劇」に仮託しつつダンスにするというスタイルを採用している。彼女の提唱した「グレアム・メソッド」は、インディアンのダンスに注目して「床を重視した低い構えのダンス」として知られているが、このように様々な点でグレアムは革新的なバレエを展開した。

(b)アルヴィン・エイリー

 グレアムの作品としては《リベレーションズ》が重要だが、基本的にはグレアムと類似したスタイルであり、しばしばコスモロジカルと表現される。

(c)レオニード・マシーン

 バレエ・リュス解散後、マシーンは後継者たちが率いるバレエ団の芸術監督になる。彼は映画《赤い靴》で振り付けを担当したりするが、その活動は各地を転々とするツアーリング・カンパニーとしての悲哀が付き纏ったと考えられている。彼はバランシンのような自分のバレエ団を持つことができなかった。

⑺20世紀後半①――「物語バレエ」の時代

(a)フレデリック・アシュトン

フレデリック・アシュトン 1950
フレデリック・アシュトン

 この頃、イギリスでバランシンの「抽象的バレエ」の流れに対する危惧の念が共有されていた。そこで現れたのが、《シンデレラ》(1948)や《ロミオとジュリエット》(1955)の振り付けで知られる、フレデリック・アシュトンである。彼は1935年、ニネット・ド・ヴァロワが設立したロンドンのバレエ団のコリオグラファーに抜擢され、その後イギリスのバレエに多大な貢献を果たした人物である。

(b)アントニー・チューダー

 チューダーは、バレエ史において初めて人間社会の「闇」をバレエにおいて主題化した最初のコリオグラファーである。彼は踊りだけでなく、「視線」にも気を配らせるなど、斬新な方法を展開した。視線を重視したバレエの先駆的作品として、しばしばチューダーの《リラの園》(1936)が挙げられる。また、《火の柱》や、シェーンベルクの《浄夜》の振り付けも担当している。後世に及ぼした影響度という点では、アシュトンよりも大きいものがある。

(c)ケネス・マクミラン

 マクミランは後にベルリン・オペラ・バレエの芸術監督に就任するコリオグラファーであり、チューダーのシリアスなバレエの影響を受けている。この当時、実存主義が流行していたこともあって、マクミランのバレエにもその要素が見られる。「視線」を重視する点でも、彼はチューダーから多くを学んでいる。例えばマクミランの《ロミオとジュリエット》には、二人が見つめ合い、その視線の交錯によって互いの「心情」が決定的に鑑賞者にも判ってしまう演出が存在するが、これは足の動きとは独立した要素である。つまり、舞踏の基礎である足の動きに匹敵するほど、チューダー、マクミランは「視線」という要素を先鋭化させたコリオグラファーなのだ。これは、マクミランの《マノン》にも見受けられる。

⑻20世紀後半②――1980年代以降~

(a)ジョン・ノイマイヤー

 ロンドンのロイヤル・バレエ学校で学んだアメリカ人。ノイマイヤーはアシュトンの「物語バレエ」を更に発展させ、《椿姫》などの圧倒的な演劇性を持ったバレエを展開した。

(b)ウィリアム・フォーサイス

 バランシンの「抽象的バレエ」の流れは、フォーサイスや後期のキリアンが受け継いで発展させた。

(c)ローラン・プティ

 プティのバレエの全てには、「美しき死神」(「美は人に死を齎す」)が登場するという共通点がある。彼はコクトーの《若者と死》や、《プルースト》の振り付けを担当している。また、全ての作品が「死」へ向かうという点では、バランシンに近い要素も持っている。

(d)モーリス・ベジャール

 フランス人。ベジャールは《春の祭典》や《ボレロ》の振り付けによって世界的な名声を獲得したコリオグラファーであり、しばしば「性」をテーマにしたディオニュソス的な振り付けとして解釈される。ベジャールは舞踏手の衣裳も限りなく「裸体」に近付けるなど、舞踏芸術が本質的に宿す「死」と「再生」という主題を、遂に「性」にまで発展させた。

(e)ピナ・バウシュ

 ドイツ人。バウシュも方法論としては、グレアムの「個人的記憶のバレエ化」というスタイルを受け継いでいる。




「参考文献」


バレエ入門バレエ入門
(2000/11)
三浦 雅士

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ビジュアル版バレエ・ヒストリー バレエ誕生からバレエ・リュスまでビジュアル版バレエ・ヒストリー バレエ誕生からバレエ・リュスまで
(2014/06/17)
芳賀 直子

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バレエの鑑賞入門 (ほたるの本)バレエの鑑賞入門 (ほたるの本)
(2006/11/11)
渡辺 真弓

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