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02/09のツイートまとめ

tomoichiro0001

ちなみに、YouTubeでの小説朗読も近日中にUPされます。タイトルと朗読者は以下の予定。・『白雪と黒揚羽』(朗読/門倉ユカ)・『蝙蝠、あるいは光線的なものへの憎悪』(朗読/鈴村智久)
02-09 23:46

もうすぐ発売する新作の表紙がこちらになります。著/鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』、装幀/門倉ユカ。iPhoneなどのスマホをお持ちの方なら、どなたでもAmazonからダウンロード可能ですので、どうぞよろしくお願いします。 http://t.co/qGYb1AghcQ
02-09 23:36

去年、門倉ユカ様にデザインして頂いた私の小説三作のカバーを、発売順に並べてみました。 http://t.co/7QGtcZY7QK
02-09 23:32

本日は彼女と御寿司を食べに行きました。やはり新鮮な魚肉(特にサーモンとトロ)は味覚を更新させてくれますね。帰りに、彼女が新しい化粧品用のボックスを家具屋さんで購入しました。
02-09 23:26

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
02-09 23:22

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここに!前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
02-09 23:11

ヴェルフリンによれば、全ての芸術的直観は常に何らかの認識論的「形式」に拘束される。絵画を「観る」とは、ある何らかの「形式」によって「観る」こと、すなわち「制度的な眼」を媒介にすることを意味する。同様に、あらゆる芸術作品は例外なく何らかの「様式」の枠内に帰属される。
02-09 22:46

ブルデューは文化的なlégitimité(正統性)を、「自然的差異として誤認されるに至った社会的差異、無根拠な根拠」として定義する。ノブレス・オブリーシュやナショナリズムは「正統化」された「ドクサ(臆見)」、すなわちortho-doxie(正統ドクサ)であり、本質的に幻想である。
02-09 22:41

「ボルヘス文学と〈Web〉が革新的に融合した〈来るべき文学〉の誕生。〈個性〉の分散が加速する現代社会の中で、〈存在〉の在り方を探究した黙示録的な注目の最新短編集」鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/hohcwdynZi
02-09 22:40

ブルデューは『美術愛好』で「眼は文化的産物である」という定式を提示しているが、これは「視点が対象を創造する」というソシュールのテクストを敷衍したものである。同様の見解は、ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』結論部の認識論とも一致する。
02-09 22:36



modus operandi(作り出す方法)をハビトゥスとした場合、opus operatum(作り出された作品)とは行為者の諸特性、生活様式である。ハビトゥスが我々行為者の慣習行動を生み出す〈生成母胎〉=〈方法論〉であり、いわば行為者は〈ハビトゥスの作品〉という図式が成立する。
02-09 22:31

フランス語の有名な諺“Chassez le naturel, il reviendra au galop.”(本性を追い払ってみよ、すぐさま舞い戻ってくるであろう➡人の本性は容易に変えられない)は、「ハビトゥス」が「存在」にいかに決定的な影響を与えるかを如実に物語っている。
02-09 22:26

現代文学の通奏低音たる「書くことの不可能性」について、ド・マンはlinguistic predicament(言語的な苦境)と表現している。「ポール・ド・マン・ルネサンス」である現在、その思想的営為は、今後新しい文学の可能性を開く全ての書き手にとって豊穣な収穫を齎すだろう。
02-09 22:21

文化的に何が「正統的」であるかというこの問題は、常に〈界〉内でのclassement(分類=階級付け)の操作を通して行われる。「R・シュトラウスは世俗的だがバッハは正統的である」、「P・ハイスミスは大衆的だがH・ジェイムズは純文学的である」などの「印象/効果」はここから生まれる。
02-09 22:16

distinguerの過去分詞であるdistinguéが形容詞になると、「上品な、気品ある」という意味になる。différences(差異)、différenciation(差異化)、discrimination(差別)もdistinctionの概念的な射程範囲にある。
02-09 22:11

ブルデュー社会学の基礎概念であるdistinctionは「他者から自己を区別して〈際立たせる〉こと」を意味する。「区別、弁別、識別」、AとBの差異、その差異の認識である。これは元々、フランス語特有の代名動詞であるse distinguer(自分を他者と区別する)の名詞形である。
02-09 22:06

六つの特徴は「読書のスタイル」や「絵画の審美眼」などの「美的性向」においても共通するため、行為者の「ハビトゥス」を顕在化させる。goûtが「趣味」だけでなく「味覚」を意味するのはこのためである。生活上の必要性から最も距離を置く行為者はより「ゆとり」があり、貴族的である。
02-09 22:01

ブルデューは「文化貴族」の諸特徴を以下のような〈味覚〉のアナロジーによって説明する。⑴量より質⑵実質より形式⑶材料より調理法⑷栄養より盛りつけ⑸重くて脂っこい食べ物より軽くてあっさりした料理⑹気取らない無造作な食べ方よりマナーを重視する礼儀正しい食べ方
02-09 21:56

家庭環境を構成している全ての質の良い「文化的財」(objectivé〔客体化された〕文化資本)は、ただそこに存在するだけで教育的効果を及ぼすという事実を、ブルデューはアメリカの計量経済学者ケネス・ジョゼフ・アローを緩用して「全般化されたアロー効果」(ブルデュー)と表現する。
02-09 21:51

goût(趣味)は貴族的な「贅沢趣味」と庶民的な「必要趣味」に大別される。前者はオペラ、絵画鑑賞などの行為であり、「必要性」への度合いが低ければ低い行為ほど、より文化的なlégitimité(正統性)が高く、行為者の実質的な文化資本を反映した「美的性向」によって選択されている。
02-09 21:46

ド・マンはヘーゲルの言語論の通奏低音としての「私は私について何も言えない」、「私が思考する事柄について私は何も言えない」という言明を受けて、主著『読むことのアレゴリー』の冒頭にパスカルの「ゆっくり読んでも、早く読んでも、何も理解できない」というテクストを掲げている。
02-09 21:41

オリジナルな農地(テクスト)は存在しない。どのような「芽」も、現在の農地Aに先立つ別の農地Bから収穫されたものであり、Bから得られたsemence(種、精液)によって成立する。換言すれば、全ての書物aは先行する書物bとの間でdisséminante(散種的、分散的)な関係を持つ。
02-09 21:36

我々はいま一度、ド・マンがなぜこれ程「言語」が作り出す審美的な「衣裳」を剥離させ、骨格を露出させようとしているのかを考えてみる余地があるだろう。そこには、言語によって「歴史」が捏造されてきたという事実が間違いなく想定されている。
02-09 21:31

私小説の構造における主体として認定されてきた「わたし」なるものは、実は作品の言語的機制から物質的に構成されている「腹話術師に操られた人形」(ド・マン)に過ぎない。我々が「書く」行為の主体ではなく、むしろ言語によって我々自身が「書かれている」のである。
02-09 21:26

我々は言語によって、実際には特に感動もしなかった出来事を審美化し、書く前の「空虚」を意識的な「明察」の方へ、メランコリアから「回復」の方へ繋げることができる。これこそ、ルソー、ヘルダーリンらに通底する「ロマン主義のレトリック」による審美化のメカニズムに他ならない。
02-09 21:21

ベンヤミンが述べたように、「翻訳」は「原作」に先立つ。「原作」は、翻訳者の「解釈」を含む何らかの翻訳テクストによって後天的に我々の前に現前したものである。同様に、自叙伝/私小説は実体験を「翻訳」によって「意味賦与」する限りで、常に既にイリュージョンに他ならない。
02-09 21:16

fait(事実)がfaire(作る)の過去分詞の名詞化であるように、我々の過去についての知識も歴史学が「物語化(虚構化)」した「テクスト」に依存している。言語にはこうした「真実を〈拒む〉」という「不気味な力」が働いている。
02-09 21:11

フランス語のhistoireは「歴史」だけでなく、「物語」をも意味する。この単語が持つ通約不可能性は、「歴史」が「事実」でありながら「虚構」にも足を浸けていることを意味する。言い換えれば、歴史もまた虚構を招来せざるを得ないということを既に本質として孕んでいるのである。
02-09 21:06

タキトゥス『年代記』の名高い「ペルケンニウスの演説」では、兵士達は極めてリアリスティックに描写されるが、実はillustratio(劇化)された誇張法で彩られている。アウエルバッハはその文体の特徴を「雄大な修史の文体には誇張法が必要であり、それはたいてい虚構的なものだ」と述べる。
02-09 21:01

「文化貴族」がたとえ両親への反撥から下賤、異質な趣味を獲得しようとしても、「性向」へと身体化している上流階級特有の認知構造までは変えられない。文化資本の相続は父母から分泌される「文化的樹液」であり、生物学的遺伝ではなく家庭環境によって再生産される資本は「環境資本」と呼ばれる。
02-09 20:46

文学においては採用される「文体」は行為者の「文化資本」を測るための指標である。「文体」には作家そのものが宿ると言われるように、たとえ平穏な日常を描出していても、卓越した「文化貴族」にのみ理解可能なほどにコード化された技巧的な表現を駆使すれば、それはハビトゥスの高さの指標になる。
02-09 20:41

「フランス貴族協会(ANF)」の調査によれば、資本主義化が進む18世紀以降、多くの真性貴族たち(昔ながらの伝統貴族)が往々にして実質的にブルジョワ階級に対して経済資本の面で弱い立場にあり、婚姻による血統性の曖昧化が進んでいる。
02-09 20:36

プルーストとブルデューが間違いなく一致している「貴族性」こそが、「知的な偉大さ」である。例えばシャルリュス男爵はヨーロッパの美術、音楽、家具、建築、都市などについて語る上で、その「様式」の変遷を含めてdistinctionを相手に感じさせ、貴族特有の頽廃的趣味まで兼ね備えている。
02-09 20:31

「人はnoblesse(貴族)に生まれるが貴族になるのである。貴族でなければ貴族として振舞うことはできない。しかし、貴族的に振る舞わなければ、貴族でなくなるのである。換言すれば、社会的魔術はしっかり現実的な効果を発揮するのである」ブルデュー『国家貴族』
02-09 20:26

「気前の良い贈り物」ほど、見返りとして与えられる「対抗贈与」としての「象徴資本」の獲得、あるいは「認知資本」の増加を企図している贈与は存在しない。一見「無償」に見えるプレゼントほど、贈り主は何らかの象徴資本に「贈る」という行為を変換(トレード)している。
02-09 20:21

「差し迫った未来」は常に予見可能である。何故なら、卑近な未来を生成させるのは行為者の「性向」の産物としてのhabitudes(習慣)なのだから。換言すれば、行為者の「性向」に書き込まれている〈界〉内での慣習行動の歴史を分析すれば「行為」のパターンはいつでも素描可能である。
02-09 20:16

類似したハビトゥスに属する行為者は社会的に結合する傾向を持ち、これをブルデューはスピノザの概念を応用して「コナトゥス」(自己保存のためのプログラム)と表現する。これはその人間をハビトゥスの内面的自己規定に従って永続化させる原理であり「ホメオスタシス(生体恒常性)」とも相関する。
02-09 20:11

卓越した文化/経済資本を相続できる貴族的な家庭で生まれ育った行為者は、生まれた時から自然に「資本が資本を求めるように、貴族は貴族的人脈を呼び寄せる」(ブルデュー『国家貴族』)のであり、社会関係資本のネットワークが遺産相続者たちの出世に多大な利益を齎すようになる。
02-09 20:06

日本では昔から子女に「文化的洗練性」を美徳として教育する傾向が強く、これが成人後の「結婚戦略」にとって大きな武器となってきた歴史がある。統計調査では文化資本が高い女性ほど結婚後の社会的地位が高くなり、男性が文化資本の高い女性を選ぶことで文化資本が「再生産」される下地が形成される。
02-09 20:01

統計調査から判然となるのは、女性の中でも特にハイカルチャー志向が強いのは「専業主婦」である点である。職場からも一時退いている学歴資本の高い彼女たちは「大衆文化を排除する戦略」を自然に身体化している場合が多い。ハイカルチャー志向は上級文化専門職に限定されてはいないのだ。
02-09 19:56

男性の場合、高い文化資本を所有していても企業内での社会関係資本の構築、円滑化のためにそれを「隠す」(大衆文化を「纏う」)というエリート的な所作が見出される場合が見られる。「出る杭は打たれる」というのが、〈和〉という観念で欺瞞的に踏襲されている現代日本の文化的実態に他ならない。
02-09 19:51

「文化資本」を「読書文化資本」と「芸術文化資本」に分別すると、後者のタイプで女性の方が男性をはるかに上回る傾向が存在する。ブルデューが『美術愛好』で可視化したように、高学歴女性ほど卒業して働くようになってからも永続的に美術館、博物館、オペラ、コンサートなどに足を運ぶことが多い。
02-09 19:46

大学教授クラスになると、日本文化だけでなく西洋の歴史、文化、芸術、思想についての極めて高い文化資本を持つ「文化貴族」が多くなる。換言すれば「専門外」の分野でも比較的豊かな文化的素養を当たり前のように身体化した行為者である。
02-09 19:41

日本でライフスタイルを分析する上で重要なのは、ブルデューがフランスで行ったように「文化資本×経済資本」の多寡によって分布図を作成することである。この二大資本の交叉配列から明らかになるのは、「西洋文化趣味」は統計的に本人と両親の学歴資本が高く、支配階層と深い相関がある事実だ。
02-09 19:36

文化消費パターンにおける「ハイカルチャー(文化威信の高い文化活動群)」とは、「オペラ、クラシック」、「美術館、博物館」、「歌舞伎、能、文楽」、「華道・茶道・書道」、「短歌、俳句」等の消費として社会学的にカテゴライズされる。
02-09 19:31

文化資本、経済資本が高い家庭に出自を持つ行為者の「相続文化資本」は、成人後のハイカルチャー消費の「再生産」へと結実する。現代日本において「文化貴族」の血統性を保存する社会的ホメオスタシス(恒常性)がより堅固に機能するのは、特に女性の高学歴層においてである。
02-09 19:26

「ポップスよりもクラシックを愛好する」、「漫画には眼も向けず文学に耽溺する」、これら好き嫌い、共感、反感、引力、斥力として発現する感情は、常に本質的なものである。非常にデリケートで細やかな文化的趣味のディテールに至るまで、全ての「性向」は「社会的構築物」に他ならない。
02-09 19:21

行動とは「歴史化された身体」=行為者が、社会空間において「身体」を還元していく行為であり、この継続により身体は逆に「歴史化」する。この図式が「世界の生成原理」である。「社会化した身体は社会という身体によって形成されたのであるし、また、それと一体をなしている」(ブルデュー)
02-09 19:16

我々の「性向」は「ハビトゥス」の所産である。性向は我々の「身体」に書き込まれ、社会的に(再)生産されている。ある行為者がオペラを愛し何度も足繁く劇場に通うまでの知的変遷それ自体に、彼の周囲を取り巻く社会的歴史の地層が横たわっている。この限りで「性向」には「歴史」が身体化している。
02-09 19:11

ハビトゥスは「歴史の産物」であり、「社会的構築物」であり、我々の「眼」を制度的に生み出す力の根源的場である。最も重要なのは、我々の日常生活を形成するごく些細な行為の全てが、ハビトゥスによって構造化されているという事実である。
02-09 19:06

ブルデュー社会学の基礎概念であるhabitusとは、歴史が個人に身体化された文化的所産であり、habitudes(習慣)、「趣味」を生み出す根源的な場である。それは行為者をclassement(分類化=差異化)させるdisposition(生成力量)を持った場である。
02-09 19:01

ブランショは「消滅」と呼ばれるはずのものを「完成」と呼ぶ。バルザックの『知られる傑作』の画家フレンホーフェルのように、「完成」とは画家が「何もない」と確信できるような状態であり、「不在」、「欠損」において「完成」する境地を指す。
02-09 18:51

エクリチュールには、どれ程捨象しようとしても最小限度に伴わざるをえない「ミニマル・イメージ」が存在する。ブランショのように、極度にイメージを排斥しているかに見える文体ですら、テクストの創出に当たっては最小限度に抑制されたオルフェウス的な「振り返り」をせざるをえない。
02-09 18:46

「〈書くこと〉は既に、死の中のエウリュディケーを振り返り、目にした後で書くこと、つまり〈書くこと〉の後で〈書くこと〉である。この終わりなき循環ゆえに純粋な芸術は存在しない。しかし、むしろ純粋ではありえないものとして、芸術のようなものは〈ある〉」郷原佳以『文学のミニマル・イメージ』
02-09 18:41

maintenant(今)の語源はmain(手)でtenir(支える)であり、「現前」は常に何かによって「支えられている」ものである。しかし、「現前としての不在」とブランショが述べる時、そこではこのmain(手)そのものが消尽している。
02-09 18:36

ベルニーニの《ヴェールを剥がれる真理》という女性像では、外面に表出している衣服の「外生的襞」が、彼女の身体内部の「内生的襞」をrepresent(表象=代理)している。隠匿されている内面的なものは、代理的に外面に既に表象されている。
02-09 18:31

ティツィアーノの《バッカスとアリアドネ》では酒神によって犯され、投げ捨てられたニンファが「もみくちゃになったドレス」という「残存物」として表現される。衣服が脱ぎ捨てられていることは「欲望の痕跡」である。ニンファの身体なき「衣服」には無数の襞があり、投げ捨てられ天をただ茫然と仰ぐ。
02-09 18:26

身体は「布」によって代理される。コレッジョの描いたダナエはヴェールの「襞」=「白鳥」すなわち「ゼウス」と性的に戯れている。ゼウスの本質とは「布」である。こうした「身体」が「衣服」に、「衣服」が「白鳥」へと自在に「転位」するプロセスをヴァールブルクは「力性に満ちた反転」と表現する。
02-09 18:21

ドゥルーズは「存在」が多義化する瞬間を「跳躍」と表現する。これは「起源」の次点に位置するのではなく、現在も更新され続けている「瞬間」の連続である。「存在」を多義化させる力=「跳躍」を、彼は「魔神的なもの」という「途方もない怪物」に見出している。
02-09 18:16

ドゥルーズは『オイディプス王』を解釈しつつ「魔神的なもの」を以下のように規定する。「魔神の跳躍」とは、「遊牧的(ノマド)な配分が、表象=再現前化の定住的な諸構造の中に忍び込ませる壊乱的なトラブル」(『差異と反復』)である。
02-09 18:11

カフカの《Machine d'execution》(処刑機械)もデュシャンの《大ガラス》も、命令を発する権力者の実態は隠蔽されている。デュシャンの場合、「花嫁」は骸骨になっており、「銀河」も抜け殻である。カフカの場合、機械作成者である「前司令官」=「神」は死んでいる。
02-09 18:06

デュシャンの《大ガラス》を緩用すれば、我々は「花嫁」という信じるべき対象を喪失してしまった点で一様にcélibat(独身者)である。オフィスの孤独な群れ、地下鉄の画一的な顔の交通などは、Les machines célibataires(独身者の機械)というシステムの一部である。
02-09 18:01

彼女の言葉には「貴族性」の全てが結晶化している。「上手に生きることは老いを学ぶことです。外見のみに頼らないで自分の内にしっかりした価値観を築くことです。知性、教養、品性、勇気とゆるぎない精神(古代人の美徳)は、女性に外見の美しさよりももっと美しい魅力という名の美しさを齎します」
02-09 17:21

真の貴族は「節度」を重んじる。「いくつもの指輪やネックレス、ブレスレットを同時に着けている女性は、品がないように思われます。同様に、お客様を自分の家にお招きするときは、お客様のほうが地味にならないように、招く側は控えめなジュエリーを選ぶようにしたいものです」(ロスチャイルド夫人)
02-09 17:16

ロスチャイルド夫人は「香水なしの女性」を「額縁のない名画」に喩える。「香りはあらゆる感覚を高め、イマジネーションを惹き起こし、官能に呼びかけ、キスを招き寄せ、思い出を残します。それはあなたの出現を知らせるものでも存在を主張するものでもなく、影のようについてまわるものなのです」
02-09 17:11

ナディーヌ・ロスチャイルドはファッションにおいて「量より質」を教える。これはブルデューが『ディスタンクシオン』で規定した「文化貴族」の核心である。「着ているドレスに自信が持てれば歩き方や振る舞いにも余裕と自然さが加わる」とは、「形式」が「本質」を決定付けることを意味する。
02-09 17:06

二十世紀を代表する貴婦人ナディーヌ・ロスチャイルドが綴っているように、「他者」への敬意はまず「自己」への尊敬あってこそである。distinction(卓越化)への最初の道程は「自己」にポジティブで良いイメージを与えることから始まる。これがあらゆる社交上の礼儀作法の基礎である。
02-09 17:01

プルーストは愛した少年の一人エドガー・オベールの写真の「裏」に以下のように綴っている。「わたしの顔を見よ。わたしの名は〈そうだったかもしれない〉である。〈もはやない〉、〈遅すぎる〉、〈さらば〉とも呼ばれている」。
02-09 16:41

一説によれば、アドニスはヴィーナスとの間に一人の隠し子を設けている。田舎の庭園神、生殖と豊饒を支配する神「プリアポス」である。プリアポスはアドニスが怖れていたファルスの怪物的具現化であり、美と美のインセストから生まれる逆説的な「グロテスク」という美学的命題を喚起する。
02-09 16:36

アドニスの両性具有性は猪というファルス的存在によって彼が絶命し、アネモネの花に転じるというエピソードによって「性差」を機能的に配分していると解釈できる。逃走中にインポテンツの植物「アドネイス(レタス)」の茂みに隠れたアドニスは女性性に近い存在であることをアレゴリカルに示唆する。
02-09 16:31

ヴァレリーは「最も美しい者は自己しか愛せない」と述べたが、これはギリシャ神話の美少年達の特徴である。最高美の安らぎの内に常にある者は異性の美を欲しない。「私は愛を知らないし、知るつもりもない」というアドニスの言葉はシェイクスピアに由来するが、この考えは初期ソネットにも見られる。
02-09 16:26

「アドニス」はフェニキア語adonに由来し、これは固有名詞の反対物、いわば神々に付けられる一般的な付属物程度の意味しか持たない。このadonの「無個性」的性格から、ヴィンケルマンとメニングハウスはアドニスの美の本質を「特徴のない美貌」として規定する。
02-09 16:21

シェイクスピアの解釈によれば、ギリシャ神話で「最高美」の持主はヴィーナスではなく実はアドニスである。彼女は、sweet above compare(比較を超えて愛らしい)、あるいはThrice fairer than myself(私などより三倍美しい)とこの少年を称讃している。
02-09 16:16

オウィディウスは以下のようにナルキッソスに言及する。「浅はかな少年よ、何故いたずらに儚い虚像を捕まえようとするのか? 汝が求めているものは何処にもありはしない。汝が背を向ければ、汝の愛しているものは無くなってしまう。それは水に映ったumbra(影)でしかないのだ」(『変身物語』)
02-09 16:11

ナルキッソスの自己愛は以下のように解体される。彼が愛したのは「水に映った反射」に生ずる「鏡=eidolon(幻影)」としての〈自己〉である。eidolonは恣意的に不要なイメージを捨象された「偶像」である点で、最早ナルキッソス自身ではない。
02-09 16:06

V・ストイキツァが注目するプリニウス『博物誌』の「ブタデスの娘の恋」の挿話によれば、絵画の起源は「影」から始まったとされる。正確にいえば、それはumbra hominis lineis circumducta(人間の影の輪郭をなぞること)という行為にあった。
02-09 16:01

「美学の破壊ほど――もし実際に我々が今日における芸術の問題を設定するなら――急を要するものはないだろう」ジョルジョ・アガンベン『中身のない人間』
02-09 15:51

「プラトンは崇高に至る別の道があることを私たちに示している。それは何か、また、どんなものとしてあるのか。過去の偉大な作家や詩人を模倣し、競い合うことである。これこそが、親愛なる友テレンティアヌスよ、私たちがしっかちと保持していかねばならない目標なのだ」偽ロンギノス『崇高について』
02-09 15:46

ホメロスは「嵐」を描く際に、「彼の周りの最も恐るべき出来事を選び取ってくる」(偽ロンギノス)能力を持っていた。つまり、同じ崇高に関する美的カテゴリーをレトリックとして列挙できる技能を持っていたのである。こうしたテクネーはサッフォーの「愛の狂気」を謳った詩にも見出される。
02-09 15:41

偽ロンギノスによれば、「崇高」には二つの主要成分がある。それはピュシス(天性、自然)とテクネー(技術)である。どちらが欠けても「崇高」ではない。「高貴さ」は「言葉の選択、比喩、表現の熟成」に拠っていると解釈され、読者に「気付かれない修辞」が最も技巧的で並外れたものである。
02-09 15:36

「人間には有用、必要なことは容易く手に入るが、人を驚嘆させるのは、いつも常軌を逸して並外れたものである」」偽ロンギノス『崇高について』
02-09 15:31

「…カイキリオスが激情的なものはまったく崇高に役立たないと考えて、書くに値しないと信じていたとするなら、まったくどうかしている。時、所を得た真正の激情ほど崇高なものはないと、確信を込めて断じて良いだろう」偽ロンギノス『崇高について』
02-09 15:26

「醜」は純粋美の対立概念である。観念論的美学者Th.フィッシャーの範疇論では、美的原理そのものの「均衡破綻」である「醜」が、実は「美」の否定的契機として必要だと規定される。リップスもまた、「美」の「引き立て役」、ないし「条件」として「醜」を積極的に評価している。
02-09 15:21

「悲愴」はショウペンハウエルによれば「最高度の崇高」の様態であり、キルヒマンにおいては「崇高の没落」として認識される。つまり「悲愴」と「崇高」は円周上で隣り合う点からも類似性を有するわけだが、特に描かれた対象が偉大である場合、「悲愴」の醸し出す「崇高」は最高のものとなる。
02-09 15:16

18世紀ドイツ美学の主要テーマであった「美的範疇論」によれば、「美的なもの」は以下の順に時計回りにカテゴライズされる。Schön(美)Niedlich(優美)Komisch(滑稽)Häβlich(醜)Tragisch(悲愴)Erhaben(崇高)
02-09 15:11

ガダマーは『真理と方法Ⅰ』で美的体験(aesthetic experience)を以下のように定義する。「体験者を芸術作品の力によって一瞬のうちに生の連関の外へ引きずり出すと同時に、彼の生活全体との関わりを改めて創り出す。美的体験は常に、無限の全体についての経験を含んでいる」。
02-09 15:06

最良の師から学び、誰とも競い合うことなく、己の文体を磨くこと。
02-09 14:52

単に芸術を享受するだけであれば、実は誰にでも可能です。大切なのは、自ら芸術に加担すること。鑑賞する側から、制作する側へ踏み出すこと。そうすることで、新しい審美眼が養われます。
02-09 14:49

昨日は飛躍的に執筆が進む。もうすぐ新しい小説がAmazonに並びます。
02-09 14:46

Web社会の「盲点」から現代人の名状し難い孤独を炙り出し、存在論とメディア論の新たな地平を描出した来るべき時代の黙示録。鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/hohcwdynZi
02-09 08:15

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