† 美術/アート †

「〈絵画の死〉の死」の時代の画家――Chow Chun Fai(周俊輝、チョウ・チュンファイ)はなぜ、映画を「絵画化」し続けるのか?

Once a Thief, “Do you like this painting?” enamel paint on canvas 100cm(H) x 150cm(W) 2007
“Do you like this painting?” enamel paint on canvas 100cm(H) x 150cm(W) 2007


 ひとつの例から始めよう。これは、現代中国を代表する画家の一人であるChow Chun Fai(周俊輝、チョウ・チュンファイ)の代表作の一つである。彼は、自分が観た映画のワンシーンを一時停止させ、それを「絵画化」することを続けている。このような作業において、何が生起するのだろうか。
 まず前提として認識しておくべきなのは、「映画」と「絵画」の差異である。映像は常に移り変わり、「一時停止」させなければ静止画にはならない。そして、「映画」を一時停止した場合、それは一般的に「写真」と相関することが挙げられる。流れ移るものとしての「映画」は、我々の生身の現実イメージを、比較的リアルに映し出す装置である。
 では、「映画」を「絵画」にした場合、本質的に何が生起するのだろうか。例えばG・リヒターは、自分で撮影した「写真」を「絵画」にするという行為を続けている。これはphotopaintingと表現されているが、周俊輝は自分が制作した映画ではなく、「他者の作品としての映画」のワンシーンを切り取っている。ここで想像的な次元として成立するのが、「もしも絵画のような映像で、映画が制作されたとすれば?」という彼の隠されたメッセージである。それは絵画の波立ちであり、絶え間なく絵が動き続けるものとしての「アニメーション」に接近するはずである。しかし、周俊輝はそこにまでは至らない。彼は意図的に「アニメーション未満」に滞留し、既に既製品である映画のワンシーンを、あたかもその映画を観たという独自の鑑賞記録であるかのようにして、絵画化しているのである。

Cinema Paradiso, “This is not a line from a movie” enamel paint on canvas 70cm(H) x 100cm(W) 2009
“This is not a line from a movie” enamel paint on canvas 70cm(H) x 100cm(W) 2009


 かつて絵画は、ヨーロッパの貴族階級に審美的な充実感を齎す特権的な価値を持った存在であった。それは額縁に入れられて美しい邸宅や廊下の壁を飾り、主人が眠れぬ夜を過ごす際に、わずかの心の慰めになっていたのである。あるいは、絵画によって「エデンの園」や「天国」の光景を再現することによって、我々はそれがあくまで画家によるイメージの産物であることを認めつつも、信仰のための補助椅子としてきたのだった。絵画には、人間の精神を映し出す鏡としての役割だけでなく、鑑賞する行為によって、いわばその人の精神を高次の世界へと誘う機能も併せ持っていたのである。
 しかし、「絵画の死」が提起され、「〈絵画の死〉の死」の時代とも称されるこの二十一世紀初頭において、絵画にはいったい何が起こりつつあるのだろうか。少なくとも、周俊輝の一連の絵画を観ている限り、絵画は最早、「映画」の下へと失墜してしまったかのように見える。あるいは、「絵画」自らが、特権的な芸術としての位階から降下して、自ら「複製技術」との共犯関係を結び始めたと言えるのかもしれない。この場合の「複製技術」とは、無論、「映画」ではなく、「映画をコピーする」ことである。しかも、絵画という様式によって、「映画を模倣する」ことである。


Stalker,22Where is the tank22 enamel paint on canvas 100cm(H) x 150cm(W) 2008
"Stalker,22Where is the tank22 enamel paint on canvas 100cm(H) x 150cm(W) 2008


 こうして、絵画はいわば、かつて画家たちが森や谷間に向かい、そこで自然を目に移して描くべきものを探したような、「制作行為に伴うaura」の体験を忘却し始めたと言えるだろう。例えば、ターナーは、絵画がまだ特権的な価値を担っていた時代における最大の風景画家の一人であるが、彼は「嵐」を描く際、その本質を把捉するために、荒れ狂う海を渡る船のマストに自分を括り付けて欲しいと主張したというエピソードが知られている。ここには、ターナーの絵画への深い情熱が存在する。そして、この時代はまだ、画家は「自然」への崇敬の念を失念してはいなかったのである。
 しかし今や、絵画は全く異なるものを信仰し始めているといえる。描かれる対象それ自体が、数世紀前とは完全に異質である。我々は周俊輝という画家について、以下のような二通りの解釈をすることが可能かもしれない。一つは、彼が「絵画の死」に拍車をかけている、いわば最後の時代の系譜に属するという見解である。そしてもう一つは、「映像イメージ」がいよいよ我々の視界を席巻している現代Web社会において、それでもなお、古典的なものへの素朴なノスタルジーと、芸術の「故郷」を探るという戦略から、彼が「絵画」という表現形式を神聖視し、それを尊重しているという見解である。おそらく、画家の意図はこの二つを兼ねているのだろう。



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