† 著作 †

「新しい自己」を発見してくためのマッピングとしての小説――これまで発売した七冊の小説についての省察



【鈴村智久から、読者のみなさまへ】


お久し振りです、鈴村智久です。
いつも応援していただきありがとうございます。
さて、このページでは久しぶりに近況報告をしておきましょう。
まず、大阪から東京で彼女と二人暮らしをし始めてから、4月5日でちょうど一年になります。
それまでの私が「大阪時代」だったとすれば、一年前からはちょうど「東京時代」に入った、というように私の人生を大きく区分することもできるかもしれません。
私が彼女と暮らしているマンションは、東大駒場や新国立劇場、国立西洋美術館などへのアクセスも近く、文化的にも非常に充実した休日を過ごすことが可能になりました。
また、「東京時代」に入ってから、私の小説が続々と書籍化されております。
以下に、これまで販売した小説を振り返ってみましょう。


聖アントニウスの誘惑聖アントニウスの誘惑
(2014/08/31)
鈴村智久

商品詳細を見る



メリーゴーランドメリーゴーランド
(2014/08/30)
鈴村智久

商品詳細を見る



ある奇妙な地理学的試論ある奇妙な地理学的試論
(2015/02/12)
鈴村智久

商品詳細を見る




アニエールの水浴アニエールの水浴
(2014/08/29)
鈴村智久

商品詳細を見る



黒アゲハ: BLACK SWALLOWTAIL黒アゲハ: BLACK SWALLOWTAIL
(2015/03/12)
鈴村智久

商品詳細を見る




空き地と津波空き地と津波
(2015/03/13)
鈴村智久

商品詳細を見る



今夜もそこに騎士がいる今夜もそこに騎士がいる
(2015/03/16)
鈴村智久

商品詳細を見る



3月は特に出版が相継ぎ、現在で私の販売した小説は7冊になっています。
また、今月初旬はオペラ週間でもあり、神奈川県立音楽堂にてヴィヴァルディの《メッセニアの神託》、その翌週は新国立劇場にてプッチーニの《マノン・レスコー》を鑑賞しました。
これらのオペラ評論も、実は後日、一冊の書籍として全面的に改稿し、出版する計画になっております。
また、私がこれらの書籍を世に出すことができたのは、カバーレイアウトなどを全面的に協力して下さっているパートナーの門倉ユカ様のおかげであり、私は彼女に心から感謝と敬意を感じております。

dpltVbkl.jpg
門倉ユカ


【鈴村智久の考える、いまの時代にとって「小説を書く」意味とは?】


さて、ここでは「本」について、少し書いておきましょう。
どんな本にも作者がいます。
そして、作者が仮に何らかの事故で亡くなってしまうと、当然ですが彼はもう本を書くことはできません。
残されるのは、彼が生前に書いていた原稿だけになります。
仮に、この原稿が誰にも発見されることなく、ただブログに垂れ流し状態になっているだけで、いつ消滅するか定かではないブログサービスに全てが委ねられてしまうというのは、どんな人でも残念に感じることでしょう。
それでも全然かまわない、そもそも俺は世に何も残すつもりはない、という方もおられるでしょう。
しかし、私はこれまで「本」と共に成長してきた人間なので、いわば「本」に対する感謝の念があります。
そして、たとえ有限な身体である個人が死んでも、彼ないし彼女の書いた「本」が、後世にも確実な手段によって保存されていくというのは、極めて希望的であり、未来的な発想であると考えます。
なぜなら、カフカが、あるいはメルヴィルがそうであったように、「死んでから有名になった」作家というのは、実はけっこういるものだからです。

本を書き、それを出版するという行為は、いわば自分の存在を未来へと「痕跡化」する行為です。
未だ見ぬ、自分よりも若い可能性のある読者様に、自分がこの世界のある時代において確かに存在し、必死に生き、感じ、考えていたという事実を、「託す」行為でもあります。
本とは、いわばこのような「喪」の相続の次元において、作者の「息子」なのです。
私には「東京時代」のこの一年間で、実に七人の息子、娘たちが、すなわち「本」が生まれました。
どの作品にも、私の大きな情熱が注がれており、どの作品も、私自身の血肉から生み出されています。
私は出版に値する作品しか、本にする意志を持ちません。

どんな親でも、息子が生まれると不思議と丸くなるものです。
最初は尖っていたり、ちょっと不良っぽいところがあった青年も、いざパパになったら、ゆっくりと尖っていた部分が丸くなっていくものです。
それと同じで、私も自分の小説を本として販売すればするほど、自分が何をしてきたか、これまで何を書き、何を求め、何を表現しようとしてきたかが、まるで「地図」のように、改めてはっきりと可視化されるのを感じてきました。
それは、ひとつの大きな安心感でもあります。
同時に、これからは何を書いていくべきか、自分には今後、何が可能か、そういう道筋もこの「地図」をひとつの礎にして見えてくることもあります。
このように、「本を残す」行為は、実は単に存在の履歴を保存するという表層的な次元に留まらず、「新しい自己」を「発見」してくための、いわば「地図作り」としての意味も持っているのです。
本とは、「自己地図」であり、その時制は、常に「未来」へと開かれているのです。
そして励みになるのは、少なからず、私が書いた小説が着実に購入されていっているという事実です。
二十歳そこそこの時に書いた『聖アントニウスの誘惑』が、未だに月に二冊売れたりするという事実に、私は改めて作者として励まされるのを感じます。
そして、最近では発売してすぐに『黒アゲハ』を購入してくださった方が何人かおられました。
「本を残す」行為には、このような慎ましい悦びが待っています。

私はこれからも、門倉ユカ様と協力して、「地図」を作る行為を続けるでしょう。
この地図が、やがて複雑多様化したこの現代社会において、自分の「居場所」を見失わずに、確固たる信念のもと生きていくための基盤となっていくのです。
そして、私という「地図」をひとつの武器にして、読者様それぞれの掛け替えの無い「地図」を、より豊かなものにして下さることを、私たちは僭越ながら願っております。















関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next