† 現象学  †

全体の部分の部分の部分の部分の部分は、第一の部分と同じ部分であるか?

論理学研究 3 (3)

フッサールのパズル=砂丘論

『論理学研究3』では、全体と部分に関する思考が克明に展開されている。
この書物は、特に論研の三巻は、極めて迷宮的で異常なまでのスリリングで溢れている。

まず、問いを提示しよう。

「全体の部分の部分の部分の部分の部分は、第一の部分と同じ部分であるか?」

例えば、砂丘についてイメージしよう。
砂丘は砂で構成されている。
ある砂丘Aを四つに区切ると、その四つの部分は、全体の部分となる。
これを無限に繰り返して、砂丘が最小単位である「砂粒a」にまで到達するまで概念を深化させよう。
すると、砂丘の部分として砂粒であることは真か偽か?という命題に至る。

さて、フッサールはこれについて、以下のように明晰に結論している。

「部分の部分は、元来の部分と精確に同じ仕方で、全体の部分である」(p58)



全体と部分という命題は、実に神秘的である。
何故か?
例えば、アダムの系譜について考えてみよう。
アダムが祖形であり、彼からノア、モーゼ、イザヤ、イエズス、そして我々が生まれた。
アダムは開始地点であり、アダムの系譜とは全体である。
ところで、アダムとは開始地点であるにも関わらず、部分でもある。
しかし、このアダムという部分は、人類が有するあらゆる苦悩、歓喜、狂気、憤懣をも「感情」として併せ持つ。
このように、全体そのものが、ただ一つの部分と、等価である、という命題は、どこかプラトニックではなかろうか?

私が考えているのは、いっそう神秘的で、現象学から逸脱しているというべき着想である。
すなわち、「部分」とは「全体」である、という命題である。
だが、これは実はライプニッツのモナドロジーの通奏低音であって、ライプニッツによれば、モナドは部分であり、かつ全体でもあるのである。

フッサールとライプニッツが交叉し始めるのは、ここだけではないだろう。
しかし、この書物は、明らかに『モナドロジー』と密接な連関を持っていると考えられる。

ところで、部分とは何であろうか?

例えば、パズルのピースは、明らかに「パズル」という「全体」の「部分」である。
このピースたちは、それぞれが全体にとって必要不可欠であり、一つでも欠落すれば全体そのものが成立しない。
では、砂丘と砂粒における「全体」と「部分」はどうであろうか?
この場合、砂粒という部分は、砂丘の構成に対して、パズルピースと同一の構造を有するであろうか?

そこで登場するのが、フッサールが第一章で詳密に論じている「独立的部分」と「非独立的部分」という概念である。
パズルのピースは、「非独立的部分」である。
何故なら、それは全体の構成に依存してのみ存在しているからである。
パズルのピースは、ピースであって、それは全体ではない。

しかし、砂粒は「独立的部分」である。
何故なら、砂丘を構成するのは一粒、一粒の砂粒であるが、砂粒は個別的にも独立して存在するからである。

が、ここまで論じてきた中で、一つ奇妙な事実に遭遇していることに気づかないであろうか?
そう、パズルのピースも、実は「独立的部分」として、“みる”ことなら可能なのである。
全体としてのパズル、完全に完成されたパズル全体が一つの芸術であれば、その部分だけでも、額縁に入れられて美術館に飾られるべき、やはり「不完全」という概念においては完成された芸術と規定可能である。
そうすれば、「独立的」「非独立的」といったディコトミー式の思考フレーム自体が、無意味となる。
あらゆる部分が、「独立的部分」なのではなかろうか?

フッサールが瞠目すべき説を登場させるのは、この全体と部分の概念を、「時間論」として論じる箇所である。

フッサールはいう。

「一つの時点そのものは非独立的である」(p48)



時点というのは、時間の連続性、流れを「大河」にたとえると、それは「一滴の水」を意味している。
例えば、異国の教会で見た聖母子像と対面している「時点」――この瞬間は、時間持続の中では一つの「部分」に過ぎないが、しかし、フッサールはそれが「独立的とみなされることができるであろう」と述べている。つまり、ここでフッサールは「瞬間」が、時間の「外」に位置し、時間という全体的な流れから「突起」することを述べているのである。それは以下だ。

「しかし、もしわれわれがその時点をある時間持続と、すなわち、その中で当の時点の具体的内実が絶対的に変わらないと考えられているような時間持続と取り替えるならば、その場合にはこのような持続する共存は拡大された領域の中でも独立的とみなされることができるであろう」(p48)



瞬間は、突出する。
つまり、瞬間は、時間持続を跳躍して、不動の静止した生ける絵画と化す。

ヤン・アルテュス-ベルトラン 「Dromadaires I」


                 ヤン・アルテュス-ベルトラン 「Dromadaires I」 

部分について考えるためには、あらかじめそれを概念的に把捉しておく必要がある。
部分という言葉は、全体という言葉に依存している。
これは明白である。
例えば、先述したパズルのピースの話に戻ってみよう。
未開部族民の少女に、パズルのピースを一つプレゼントすると仮定せよ。
この時、その一枚のピースは、無論、全体的な絵からは程遠いが、決定的に、星空だとわかるような夜空の輝きを、断片的にも描いてる一枚だったとせよ。
そうすれば、少女はそれを一枚の絵だと、あるいはアクセサリーだと解釈する可能性がある。

要するに、「部分」という概念は、「全体」としての部分というコンテキストにおいてのみ成立するのであって、もしも「全体」を知らないのであれば、それは「部分」という概念に帰属されないのである。
これは極めて重大な要旨である。

「部分そのものは、それが部分として属する全体なしでは、決して実在することができない」(p40)



換言すれば、こうなる。

「全体G(a,b,c...)の実在は、一般にその諸部分a,b,c...の実在を包含する、という分析的公式が成立する」(p43)




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