† 文芸理論 †

小説の基礎学習(2) オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン「ヴェラ」

フランス短篇傑作選 (岩波文庫)フランス短篇傑作選 (岩波文庫)
(1991/01/16)
不明

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リラダンの高貴な「死」の物語

この上なく高貴で美しい掌編である。
およそこれ以上ないほど気高く、荘厳な美しさで覆われている世界だ。

小説の基礎を学ぶ上では、一体どのような学習成果が得られるだろうか。

まず、物語を要約しておこう。
ダトール伯爵は美貌の貴婦人ヴェラと出会い、運命的な恋に堕ちる。
だが、それは恋を超越した究極の狂愛ともいうべきもので、二人は完全に世界から隔絶して、二人だけで寂寥とした伯爵の城に自らを幽閉する。
しかし、あまりの狂乱の愛の末に、ヴェラが愛欲の宴のさ中に絶命してしまう。
物語は、伯爵が美しい伯爵夫人の喪に服する場面から始まる。
伯爵はしかし、妻の死を信じることができない。
彼は妻の死後も、妻がそこに生きているかのように対話を続けはじめる。
下僕はこの狂気の沙汰に目を閉じるが、やがて彼も伯爵と同じような幻想を見るようになる。
伯爵の熱烈な死の否定の末、幻影としての夫人が空間を超越して世界に再現出する刹那――ダトールは遂に妻の死を悟り、一瞬のうちにこれまでの幻想が儚い夢と消える。
絶望のさ中で悲嘆に暮れる伯爵は、偶然床に落ちた墓の鍵を見て、高貴な微笑を浮かべて物語は終幕する。

○ 物語の構成

「起 妻の死」

冒頭は雅歌八章六節「愛は死よりも強し」である。
始まりの部分で、「時代/場所/人物」などがきっちりと説明される。
描写はゴシック的で、重々しくも気高い、壮麗な世界を感じさせる。

白く美しい美貌の妻を横たえる――このような「死」と「美」が完全に結合した天才的な描写が見受けられる。
いわば、起承転結の「起」の部分から、いきなり「死者」を登場させ、後で彼女との想い出を回想するという展開である。
その死のインパクトは強烈である。

改行は「時刻の変化」「場面の変化」「シーンの変化」によって行われている。
これはジョイスの短編と同じである。

「承 妻との想い出」

妻が生前使っていた化粧水や宝石箱などが精緻に語りだされる。
カメラの動きはスローで、ゆっくりとこれらの事物に焦点が当てられている感覚だ。

懊悩し、絶望的な苦しみと憂愁に支配されている伯爵の姿が描かれている。
伯爵の意識は地の文に融合している。

伯爵は妻を想起する。
彼女との出会い、熱狂的な接吻、抱擁、同じ魂を持つ男と女の美しく気高い官能的な世界が想起される。

聖母子像を見つめていた妻のことを想起するシーンが物語りの「鍵」であろう。
ここから、彼は何か神秘的な「復活」の概念に無意識に支配され始め、妻の幻影を見始める。

「転 妻の幻影」

精神が破綻して「現われざるもの」を見始めた伯爵の姿が不気味に格調高く描き出される。
動揺する下僕と、彼の心理の細かい描写までがつづられる。

現実と夢の区別を消尽させた伯爵は、毎夜、亡き妻の幻と接吻を交わし、変わらぬ愛欲の日々を送る。
このあたりの描写は狂気の極北であり、しかも極めて美しい。

ここで、リラダンの「死」に対する思想が伯爵のモノローグを通じてつづられる。
いわば、伯爵はボルヘスの「円環の廃墟」のように、死んだ妻を、「無」の中から現実に押し出すのである。
伯爵の熱烈な「彼女は生きているという観念」が、彼女を世界に再現前させる、という極めて神秘主義的で魔的でさえある独特の思想が描き出される。

「結 幻影の消滅」

幻影の妻と最高度に美しい接吻をした直後、伯爵は彼女がすでに死者であったことを悟る。
妻の存在を観念的に蘇生させつつあった城の気配は、一気に「死」に支配される。
現実に引き戻されたのだ。
伯爵は失意の底で絶叫し、どうしようもないほどの悲痛に暮れる。

そして、最後に彼は妻の死体を墓から起こそうと考えたのか、鍵を見出す。
これで「結」である。

●まとめ

1、「死」は起承転結の最初か最後に持ってくること

本作を読んでいるうちに学習できたことは、「死」などという大きな「事件」「事態」は、必ず「起」か「結」に配置する、という定式である。
本作が「死」についての意義深い考察の書として成立している由縁は、最初にヒロインである妻が死者になったという事実が生起したからに他ならない。
このように、「死」に関わらず、何か大きな「事件」や「事態」は、常に「起」か「結」に据え置く、という定式を知っておこう。

2、映像喚起力の重要性

ジョイスの「イーヴリン」と共通しているのは、リラダンの「ヴェラ」も、やはり映像化可能であるという点である。
これは、映像化が平易なほどイメージとして安直であるということではない。
そうではなく、常に書き手は「映像的」に舞台を細密に描きこむ努力をしている、ということである。
その点で、これは「映画」的ではないのである。
映画と映像は差異を持つ概念である。
映画は、はじめから視覚的な芸術である。
他方、テクストは「映像」を「意識の裡に炸裂させる」芸術なのである。
これはジョイスの短編、リラダンの短編に共通しているので、今後は定式化されねばならない。

3、狂気を冷静に描くこと

本作で伯爵は発狂するが、そのとき、リラダンの筆致は発狂していない。
これが重要である。
つまり、作者が発狂しないのである。
作者は理性的に発狂した人物を描くのであり、作者が発狂しては、小説は成立しないのである。
これは前提であり、物語に沿った基礎を学習する上での通奏低音である。



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