† Twitter †

05/26のツイートまとめ

tomoichiro0001

生まれ変わったら、人間の言語を理解できる猫がいいな。今の私とはまったく違う時間サイクル、世界観。何匹かと山間の小川で生息、毎日魚を食べて、何匹かの子孫を残して世を去る。こういう輪廻転生は中島敦もボルヘスも描かなかったので、私が書くべきなのでしょうか......。
05-26 20:31

猫の王国...。人間に飼われてしまうよりは幸せなのかもしれませんね。「千葉県袖ケ浦市の公園に、誰かが放置したとみられる猫100匹以上が住み着いていることが分かりました」NHKニュース http://t.co/hgWSzoVIjs
05-26 20:25

類似したハビトゥスに属する行為者は社会的に結合する傾向を持ち、これをブルデューはスピノザの概念を応用して「コナトゥス」(自己保存のためのプログラム)と表現する。これはその人間をハビトゥスの内面的自己規定に従って永続化させる原理であり「ホメオスタシス(生体恒常性)」とも相関する。
05-26 20:11

卓越した文化/経済資本を相続できる貴族的な家庭で生まれ育った行為者は、生まれた時から自然に「資本が資本を求めるように、貴族は貴族的人脈を呼び寄せる」(ブルデュー『国家貴族』)のであり、社会関係資本のネットワークが遺産相続者たちの出世に多大な利益を齎すようになる。
05-26 20:06

日本では昔から子女に「文化的洗練性」を美徳として教育する傾向が強く、これが成人後の「結婚戦略」にとって大きな武器となってきた歴史がある。統計調査では文化資本が高い女性ほど結婚後の社会的地位が高くなり、男性が文化資本の高い女性を選ぶことで文化資本が「再生産」される下地が形成される。
05-26 20:01

統計調査から判然となるのは、女性の中でも特にハイカルチャー志向が強いのは「専業主婦」である点である。職場からも一時退いている学歴資本の高い彼女たちは「大衆文化を排除する戦略」を自然に身体化している場合が多い。ハイカルチャー志向は上級文化専門職に限定されてはいないのだ。
05-26 19:56

男性の場合、高い文化資本を所有していても企業内での社会関係資本の構築、円滑化のためにそれを「隠す」(大衆文化を「纏う」)というエリート的な所作が見出される場合が見られる。「出る杭は打たれる」というのが、〈和〉という観念で欺瞞的に踏襲されている現代日本の文化的実態に他ならない。
05-26 19:51

「文化資本」を「読書文化資本」と「芸術文化資本」に分別すると、後者のタイプで女性の方が男性をはるかに上回る傾向が存在する。ブルデューが『美術愛好』で可視化したように、高学歴女性ほど卒業して働くようになってからも永続的に美術館、博物館、オペラ、コンサートなどに足を運ぶことが多い。
05-26 19:46

大学教授クラスになると、日本文化だけでなく西洋の歴史、文化、芸術、思想についての極めて高い文化資本を持つ「文化貴族」が多くなる。換言すれば「専門外」の分野でも比較的豊かな文化的素養を当たり前のように身体化した行為者である。
05-26 19:41

日本でライフスタイルを分析する上で重要なのは、ブルデューがフランスで行ったように「文化資本×経済資本」の多寡によって分布図を作成することである。この二大資本の交叉配列から明らかになるのは、「西洋文化趣味」は統計的に本人と両親の学歴資本が高く、支配階層と深い相関がある事実だ。
05-26 19:36



文化消費パターンにおける「ハイカルチャー(文化威信の高い文化活動群)」とは、「オペラ、クラシック」、「美術館、博物館」、「歌舞伎、能、文楽」、「華道・茶道・書道」、「短歌、俳句」等の消費として社会学的にカテゴライズされる。
05-26 19:31

文化資本、経済資本が高い家庭に出自を持つ行為者の「相続文化資本」は、成人後のハイカルチャー消費の「再生産」へと結実する。現代日本において「文化貴族」の血統性を保存する社会的ホメオスタシス(恒常性)がより堅固に機能するのは、特に女性の高学歴層においてである。
05-26 19:26

「ポップスよりもクラシックを愛好する」、「漫画には眼も向けず文学に耽溺する」、これら好き嫌い、共感、反感、引力、斥力として発現する感情は、常に本質的なものである。非常にデリケートで細やかな文化的趣味のディテールに至るまで、全ての「性向」は「社会的構築物」に他ならない。
05-26 19:21

行動とは「歴史化された身体」=行為者が、社会空間において「身体」を還元していく行為であり、この継続により身体は逆に「歴史化」する。この図式が「世界の生成原理」である。「社会化した身体は社会という身体によって形成されたのであるし、また、それと一体をなしている」(ブルデュー)
05-26 19:16

我々の「性向」は「ハビトゥス」の所産である。性向は我々の「身体」に書き込まれ、社会的に(再)生産されている。ある行為者がオペラを愛し何度も足繁く劇場に通うまでの知的変遷それ自体に、彼の周囲を取り巻く社会的歴史の地層が横たわっている。この限りで「性向」には「歴史」が身体化している。
05-26 19:11

ハビトゥスは「歴史の産物」であり、「社会的構築物」であり、我々の「眼」を制度的に生み出す力の根源的場である。最も重要なのは、我々の日常生活を形成するごく些細な行為の全てが、ハビトゥスによって構造化されているという事実である。
05-26 19:06

ブルデュー社会学の基礎概念であるhabitusとは、歴史が個人に身体化された文化的所産であり、habitudes(習慣)、「趣味」を生み出す根源的な場である。それは行為者をclassement(分類化=差異化)させるdisposition(生成力量)を持った場である。
05-26 19:01

ブランショは「消滅」と呼ばれるはずのものを「完成」と呼ぶ。バルザックの『知られる傑作』の画家フレンホーフェルのように、「完成」とは画家が「何もない」と確信できるような状態であり、「不在」、「欠損」において「完成」する境地を指す。
05-26 18:51

エクリチュールには、どれ程捨象しようとしても最小限度に伴わざるをえない「ミニマル・イメージ」が存在する。ブランショのように、極度にイメージを排斥しているかに見える文体ですら、テクストの創出に当たっては最小限度に抑制されたオルフェウス的な「振り返り」をせざるをえない。
05-26 18:46

「〈書くこと〉は既に、死の中のエウリュディケーを振り返り、目にした後で書くこと、つまり〈書くこと〉の後で〈書くこと〉である。この終わりなき循環ゆえに純粋な芸術は存在しない。しかし、むしろ純粋ではありえないものとして、芸術のようなものは〈ある〉」郷原佳以『文学のミニマル・イメージ』
05-26 18:41

maintenant(今)の語源はmain(手)でtenir(支える)であり、「現前」は常に何かによって「支えられている」ものである。しかし、「現前としての不在」とブランショが述べる時、そこではこのmain(手)そのものが消尽している。
05-26 18:36

ベルニーニの《ヴェールを剥がれる真理》という女性像では、外面に表出している衣服の「外生的襞」が、彼女の身体内部の「内生的襞」をrepresent(表象=代理)している。隠匿されている内面的なものは、代理的に外面に既に表象されている。
05-26 18:31

ティツィアーノの《バッカスとアリアドネ》では酒神によって犯され、投げ捨てられたニンファが「もみくちゃになったドレス」という「残存物」として表現される。衣服が脱ぎ捨てられていることは「欲望の痕跡」である。ニンファの身体なき「衣服」には無数の襞があり、投げ捨てられ天をただ茫然と仰ぐ。
05-26 18:26

身体は「布」によって代理される。コレッジョの描いたダナエはヴェールの「襞」=「白鳥」すなわち「ゼウス」と性的に戯れている。ゼウスの本質とは「布」である。こうした「身体」が「衣服」に、「衣服」が「白鳥」へと自在に「転位」するプロセスをヴァールブルクは「力性に満ちた反転」と表現する。
05-26 18:21

ドゥルーズは「存在」が多義化する瞬間を「跳躍」と表現する。これは「起源」の次点に位置するのではなく、現在も更新され続けている「瞬間」の連続である。「存在」を多義化させる力=「跳躍」を、彼は「魔神的なもの」という「途方もない怪物」に見出している。
05-26 18:16

ドゥルーズは『オイディプス王』を解釈しつつ「魔神的なもの」を以下のように規定する。「魔神の跳躍」とは、「遊牧的(ノマド)な配分が、表象=再現前化の定住的な諸構造の中に忍び込ませる壊乱的なトラブル」(『差異と反復』)である。
05-26 18:11

カフカの《Machine d'execution》(処刑機械)もデュシャンの《大ガラス》も、命令を発する権力者の実態は隠蔽されている。デュシャンの場合、「花嫁」は骸骨になっており、「銀河」も抜け殻である。カフカの場合、機械作成者である「前司令官」=「神」は死んでいる。
05-26 18:06

デュシャンの《大ガラス》を緩用すれば、我々は「花嫁」という信じるべき対象を喪失してしまった点で一様にcélibat(独身者)である。オフィスの孤独な群れ、地下鉄の画一的な顔の交通などは、Les machines célibataires(独身者の機械)というシステムの一部である。
05-26 18:01

彼女の言葉には「貴族性」の全てが結晶化している。「上手に生きることは老いを学ぶことです。外見のみに頼らないで自分の内にしっかりした価値観を築くことです。知性、教養、品性、勇気とゆるぎない精神(古代人の美徳)は、女性に外見の美しさよりももっと美しい魅力という名の美しさを齎します」
05-26 17:21

真の貴族は「節度」を重んじる。「いくつもの指輪やネックレス、ブレスレットを同時に着けている女性は、品がないように思われます。同様に、お客様を自分の家にお招きするときは、お客様のほうが地味にならないように、招く側は控えめなジュエリーを選ぶようにしたいものです」(ロスチャイルド夫人)
05-26 17:16

ロスチャイルド夫人は「香水なしの女性」を「額縁のない名画」に喩える。「香りはあらゆる感覚を高め、イマジネーションを惹き起こし、官能に呼びかけ、キスを招き寄せ、思い出を残します。それはあなたの出現を知らせるものでも存在を主張するものでもなく、影のようについてまわるものなのです」
05-26 17:11

ナディーヌ・ロスチャイルドはファッションにおいて「量より質」を教える。これはブルデューが『ディスタンクシオン』で規定した「文化貴族」の核心である。「着ているドレスに自信が持てれば歩き方や振る舞いにも余裕と自然さが加わる」とは、「形式」が「本質」を決定付けることを意味する。
05-26 17:06

二十世紀を代表する貴婦人ナディーヌ・ロスチャイルドが綴っているように、「他者」への敬意はまず「自己」への尊敬あってこそである。distinction(卓越化)への最初の道程は「自己」にポジティブで良いイメージを与えることから始まる。これがあらゆる社交上の礼儀作法の基礎である。
05-26 17:01

プルーストは愛した少年の一人エドガー・オベールの写真の「裏」に以下のように綴っている。「わたしの顔を見よ。わたしの名は〈そうだったかもしれない〉である。〈もはやない〉、〈遅すぎる〉、〈さらば〉とも呼ばれている」。
05-26 16:41

一説によれば、アドニスはヴィーナスとの間に一人の隠し子を設けている。田舎の庭園神、生殖と豊饒を支配する神「プリアポス」である。プリアポスはアドニスが怖れていたファルスの怪物的具現化であり、美と美のインセストから生まれる逆説的な「グロテスク」という美学的命題を喚起する。
05-26 16:36

アドニスの両性具有性は猪というファルス的存在によって彼が絶命し、アネモネの花に転じるというエピソードによって「性差」を機能的に配分していると解釈できる。逃走中にインポテンツの植物「アドネイス(レタス)」の茂みに隠れたアドニスは女性性に近い存在であることをアレゴリカルに示唆する。
05-26 16:31

ヴァレリーは「最も美しい者は自己しか愛せない」と述べたが、これはギリシャ神話の美少年達の特徴である。最高美の安らぎの内に常にある者は異性の美を欲しない。「私は愛を知らないし、知るつもりもない」というアドニスの言葉はシェイクスピアに由来するが、この考えは初期ソネットにも見られる。
05-26 16:26

「アドニス」はフェニキア語adonに由来し、これは固有名詞の反対物、いわば神々に付けられる一般的な付属物程度の意味しか持たない。このadonの「無個性」的性格から、ヴィンケルマンとメニングハウスはアドニスの美の本質を「特徴のない美貌」として規定する。
05-26 16:21

シェイクスピアの解釈によれば、ギリシャ神話で「最高美」の持主はヴィーナスではなく実はアドニスである。彼女は、sweet above compare(比較を超えて愛らしい)、あるいはThrice fairer than myself(私などより三倍美しい)とこの少年を称讃している。
05-26 16:16

オウィディウスは以下のようにナルキッソスに言及する。「浅はかな少年よ、何故いたずらに儚い虚像を捕まえようとするのか? 汝が求めているものは何処にもありはしない。汝が背を向ければ、汝の愛しているものは無くなってしまう。それは水に映ったumbra(影)でしかないのだ」(『変身物語』)
05-26 16:11

ナルキッソスの自己愛は以下のように解体される。彼が愛したのは「水に映った反射」に生ずる「鏡=eidolon(幻影)」としての〈自己〉である。eidolonは恣意的に不要なイメージを捨象された「偶像」である点で、最早ナルキッソス自身ではない。
05-26 16:06

V・ストイキツァが注目するプリニウス『博物誌』の「ブタデスの娘の恋」の挿話によれば、絵画の起源は「影」から始まったとされる。正確にいえば、それはumbra hominis lineis circumducta(人間の影の輪郭をなぞること)という行為にあった。
05-26 16:01

「美学の破壊ほど――もし実際に我々が今日における芸術の問題を設定するなら――急を要するものはないだろう」ジョルジョ・アガンベン『中身のない人間』
05-26 15:51

「プラトンは崇高に至る別の道があることを私たちに示している。それは何か、また、どんなものとしてあるのか。過去の偉大な作家や詩人を模倣し、競い合うことである。これこそが、親愛なる友テレンティアヌスよ、私たちがしっかちと保持していかねばならない目標なのだ」偽ロンギノス『崇高について』
05-26 15:46

ホメロスは「嵐」を描く際に、「彼の周りの最も恐るべき出来事を選び取ってくる」(偽ロンギノス)能力を持っていた。つまり、同じ崇高に関する美的カテゴリーをレトリックとして列挙できる技能を持っていたのである。こうしたテクネーはサッフォーの「愛の狂気」を謳った詩にも見出される。
05-26 15:41

偽ロンギノスによれば、「崇高」には二つの主要成分がある。それはピュシス(天性、自然)とテクネー(技術)である。どちらが欠けても「崇高」ではない。「高貴さ」は「言葉の選択、比喩、表現の熟成」に拠っていると解釈され、読者に「気付かれない修辞」が最も技巧的で並外れたものである。
05-26 15:36

「人間には有用、必要なことは容易く手に入るが、人を驚嘆させるのは、いつも常軌を逸して並外れたものである」」偽ロンギノス『崇高について』
05-26 15:31

「…カイキリオスが激情的なものはまったく崇高に役立たないと考えて、書くに値しないと信じていたとするなら、まったくどうかしている。時、所を得た真正の激情ほど崇高なものはないと、確信を込めて断じて良いだろう」偽ロンギノス『崇高について』
05-26 15:26

RT @dessinatrice001: 「ボルヘス文学と〈Web〉が革新的に融合した〈来るべき文学〉の誕生。〈個性〉の分散が加速する現代社会の中で、〈存在〉の在り方を探究した黙示録的な注目の最新短編集」鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co
05-26 15:22

RT @lunar_shirayuki: 表紙の装訂を担当しました鈴村智久君のKindle Bookhttp://t.co/rt4CLQUTdP
05-26 15:22

RT @lunar_shirayuki: 今回レイアウトした装訂はお気に入り✽鈴村智久『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ) http://t.co/8wDYW35rb3
05-26 15:21

「醜」は純粋美の対立概念である。観念論的美学者Th.フィッシャーの範疇論では、美的原理そのものの「均衡破綻」である「醜」が、実は「美」の否定的契機として必要だと規定される。リップスもまた、「美」の「引き立て役」、ないし「条件」として「醜」を積極的に評価している。
05-26 15:21

「悲愴」はショウペンハウエルによれば「最高度の崇高」の様態であり、キルヒマンにおいては「崇高の没落」として認識される。つまり「悲愴」と「崇高」は円周上で隣り合う点からも類似性を有するわけだが、特に描かれた対象が偉大である場合、「悲愴」の醸し出す「崇高」は最高のものとなる。
05-26 15:16

18世紀ドイツ美学の主要テーマであった「美的範疇論」によれば、「美的なもの」は以下の順に時計回りにカテゴライズされる。Schön(美)Niedlich(優美)Komisch(滑稽)Häβlich(醜)Tragisch(悲愴)Erhaben(崇高)
05-26 15:11

ガダマーは『真理と方法Ⅰ』で美的体験(aesthetic experience)を以下のように定義する。「体験者を芸術作品の力によって一瞬のうちに生の連関の外へ引きずり出すと同時に、彼の生活全体との関わりを改めて創り出す。美的体験は常に、無限の全体についての経験を含んでいる」。
05-26 15:06

「可能的世界」を表示するモデルはツリーではなく、リゾームである。この根茎は、ある「一つの行為」を始点にしてニューラルネットワーク状に無限に分裂していく。最初の行為も、始点とはいえやはりそれに先立つ始点から派生した第二の起源である。
05-26 14:41

ライプニッツは『弁神論』の中でボルヘス文学の核心である「可能的世界」をモデル化した「セクストゥス・タルクィニウスのピラミッド」について言及している。このピラミッド全体は神の知性を象徴しており、そこには無限数の小部屋が存在し、それら全てが可能的な出来事の一つ一つを表象している。
05-26 14:36

「意志という同一の現勢力において、神は互いに反対物であるものを共に欲する。同様に、互いに反対物であるものが共に存在することはないが、ただ一つの行為である同一の認識行為において共に認識されるということを神が知るのは、同一の直観ないし知によってである」ドゥンス・スコトゥス
05-26 14:31

ボルヘスの作品全体は、文学史における古典的なエクリチュールの構造を体系的に逸脱させるネオ・バロック的なゲームとなっている。個々のテクストは可能的な世界の変則例を実現したものだが、逆に、可能的な変則例のひとつを例証するようなボルヘスの作品がどこかにひとつ存在するといって良い。
05-26 14:26

ボルヘスの「バベルの図書館」、「ピエール・メナール」、「バビロニアのくじ」では、「充足理由律」が抹消されている。「八岐の園」はライプニッツの「可能的世界」論を骨格にした上で成立している点で、最も顕著にこの第二原理の抹消を実現しているといえるだろう。
05-26 14:21

ボルヘスの「神学者」で異なる人物の混同が起きたのは、「不可弁別者同一の原理」が抹消されているためである。この抹消が起きると、以下の定式が可能になる。すなわち、「シェイクスピアを朗読する全ての人間はシェイクスピアその人である」(「トレーン、ウクバール、オルヴィス・テルティウス」)
05-26 14:16

「唇」=「傷」という等式が成立する限りで、「キス」は「傷口と傷口を押し付け合う行為」を意味する。口唇――それは身体の内部と外部を交通させる「開口部」、「孔」であり、「外/内」の二項対立を攪乱する戯れである。マルドロールにとっては、他者に毒を注入するための幻想的な器官でもある。
05-26 14:06

ロートレアモンにとって「唇」は「傷の両縁」を意味する。それは顔面の中で唯一開閉可能な器官である点で「傷」として規定される。堕天使マルドロールは笑うために自身の唇を切り裂き、大量の血を流すが、その姿を他の人間と比較して、自分がけして「笑っていない」ことを発見する(第一歌第五章)。
05-26 14:01

「文学におけるhymenography(膜研究)」においては、登場人物のあらゆる行為は遂行されつつ出来事になりえず、ただ空隙として意味を無へ回収される。それは犯罪が行われつつ被害者も加害者も存在し得ない完璧な「完全犯罪」のためのプログラムである。
05-26 13:56

AにとってはBは外部であるが、BにとってはAは外部である。接合部である「扉」からすれば、AとBは外部であり、かつ内部である。「内/外」という二項対立の脱構築は、磯崎新が『見立ての手法』で展開した「間(ま)」の概念や、ウィトゲンシュタインの「ジャストロウ図形」とも相関する。
05-26 13:51

「唯一にして現前する固有の〈起源〉というものはない」とデリダが述べる時、それはリオタールがデュシャン論で述べた「蝶番」のシステムと相関するだろう。蝶番や窓、扉という建築空間における接続部分は、ある空間Aと空間Bを繋ぐ機能を持っている限りで「Aであり/かつBである」。
05-26 13:46

「テクストの外部はない、とすればそれは、全般化された書記素が常に既に開始されていて、先行するエクリチュールの中に常に接ぎ木されているからである。…テクスト以前には何もなく、既にひとつのテクストでないようなプレテクストはない」デリダ『散種』
05-26 13:41

関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next