† 神秘主義 †

ユダヤ神秘主義の中核となる書『ゾーハル』におけるセフィロースの思想体系



 ユダヤ神秘主義の伝統はカバラとして知られているが、カバリストは大別して以下のように二種類存在している。一方は、神とのunio mystica(神秘的合一)を目指すアブラハム・アブーラーフィアを代表とした「忘我的傾向」を持つ潮流である。他方は、カバラの中核となる書物『ゾーハル』の著者とされるモーセス・デ・レオンを代表とする「神智学的傾向」を持つ潮流である。ここでは、後者のタイプの思想体系について、ユダヤ神秘主義及びカバラ学の世界的権威であるイスラエルのユダヤ学者ゲルショム・ショーレムの主著『ユダヤ神秘主義』第六章「ゾーハルの神智学的教義」を中心に要諦項目を整理しておきたい。
 ショーレムは本論で、以下のような見解を表明している。人間はいつの時代でも、「問い」に対して「答え」を出そうと努めてきた。しかし、答えられない問いにまで達すると、そこでは既に「問いそれ自体が答えである」。

⑴ セフィロースのシステム

 ユダヤ神秘主義の宇宙論によれば、この世界のあらゆるシステムには共通するひとつの「構造」が存在しており、それは「セフィロース」と呼称されている。あらゆるシステムである以上、それは人間の細胞の機能(ミクロコスモス)や、日常生活の周辺に存在するあらゆる社会システム、更にはより巨視的に銀河系の生成消滅のプロセス(マクロコスモス)にも妥当する。特に人間の身体は、神自身の生命の「隠れた有機的組織」を反映していると考えられている。

えはえht
カバラ 神秘主義 セフィロス セフィロース タロット 


 セフィロースとは、これら一つ一つの「セフィラー」の集合である。ショーレムはそれを「神的生命の一体化した宇宙」、「統一的世界」(アルマー・ディ=イフーダー)、「無限なるもの」(エン・ソーフ)、「神の神秘的樹木」と表現している。同時に、それは神を呼ぶための「十の名」、あるいは我々人間の「内なる神の顔」、宇宙の成長における「十のプロセス」とも表現される。セフィロースはユダヤ神秘主義の伝統において最も重要な「隠れたる神」そのものであり、これは同時に「神性の最も内なる〈自己〉」とも表現されている。

「セフィロース」の各名称と意味

1 「ケセル・エルヨーン」(神性の「最高の王冠」)
2 「ホクマー」(神の「知恵」、あるいは原理念)
3 「ビーナー」(神の展開される「知性」)
4 「ヘセド」(神の「愛」、あるいは「恩寵」)
5 「ゲブーラー」または「ディーン」(神の「権力」。特に刑罰を与える権力と裁きを下す威力)
6 「ラハミーム」または「ティーフェレース」(ヘセドとゲブーラーのセフィラーの対立を調停する神の「慈悲」)
7 「ネーツァハ」(神の「恒常的存続」)
8 「ホード」(神の「尊厳」)
9 「イェソード」(神のあらゆる活動力と生殖力の「基盤」)
10 「マルクース」あるいは「シェキーナー」(神の「王国」。『ゾーハル』ではイスラエル共同体の神秘主義的原像)



(1.1)「セフィロースに樹根は存在するか?」

 ショーレムによれば、セフィロースの「樹根」を我々人間が認識することは不可能とされている。しかし、セフィロースの源からは世界を形成する「樹液」(エン・ソーフ)が流れ出ている。この「樹液」という『ゾーハル』特有のレトリックは、既に神による宇宙創造の観念を含み込んでいる。すなわち、神は「流出」によって世界を形成したとする考えである。ショーレムはこれを、神が「潜在的なもの」を現働化する行為として捉えている。いわば、神の内的な運動が外部にまで「表象」される行為――これが「世界創造」に他ならない。

(1.2)「セフィロースの発生過程、あるいは宇宙の起源」

 では、神による流出が開始される以前には、宇宙には何があったのだろうか? 『ゾーハル』では、それは「無」として規定される。無の状態にあった宇宙は、「神的な光」の最初の照射を受けたとされ、この起源の光は「世界の精子」、あるいは「種子」とも表現される。この場合の種子とは、宇宙創造における全てのプロセスが潜在化されて眠っている中心点である。ここには神のエーテル状の「アウラ」が集中しているとされ、「存在の根源」(ハトハラース・ハ=イェシュース)とも表現される。「世界の精子」が天上の「母」である「神的知性」の中に没入することで、神はその母胎としての「子宮」から「セフィロース」を誕生させた、とショーレムは解釈している。
 ただ、ここで極めて重要な問題として、ヘブライ語の「アイン(無)」が「アニー(私)」と同一の母音である点を指摘せねばならない。ショーレムによれば、アインがアニーへ成長する過程それ自体が、神自身の成長過程であるとされる。宇宙が何もない状態から、存在するものとして開けたように、神もまた「無」から「私」へと個性化したと考えられる。これは同時に、人間の成長過程のアナロジーにもなっている。セフィロースでは、「無」は「神性の最高の王冠」(ケセル・エルヨーン)と表現されており、十あるセフィラーのうち、第一のものとして現れる。
 
(1.3)「創造における三つのセフィラー」

 宇宙創造の起源は、「無」(ケセル)であり、その状態に「神の知恵」(ホクマー)が照らされる。すると、このホクマーの光によって、世界にはまず「差異」の概念が生まれたとされる。差異とは、AとBの区別、あるものと別のものを分ける根源的な概念である。これによって世界は多種多様に分化、派生するに至った。この神の働きがホクマーに後続する神の「知性」(ビーナー)である。創造の最初の七日間で機能したのは、ケセル、ホクマー、ビーナーという三つのセフィラーである。
 こうした世界の分化のプロセスは、そのまま生命発生のプロセスと重なり合っている。


(1.4)「セフィロースの最終段階」

 セフィロースの最終段階、つまり十番目のセフィラーは「シェキナー」、あるいは「マルクース」と呼ばれる。これは「神の王国」、「永遠に女性的なもの」を意味し、セフィロースにおいて最も重要な地位を占めている。『ゾーハル』には存在しないが、『バーヒールの書』のレトリックでは、「イスラエル共同体の神秘主義的母胎」、あるいは「神の花嫁」というメタファーが用いられる。セフィロースの最終プロセスを、このように女性的に捉える発想はユダヤ教グノーシス主義に現在も共有されている。シェキナーは擬人化されて表現されることもあるが、それは往々にして「敬虔な貧者」である。
 人間も成長過程でセフィロースの十のプロセスを経ると考えられるが、どこかで必ず「神の内面性へと通じる入口」に出会う。それは、いわば人間が神と顔を合わせるための「開口部」である。この入口もまたシェキナーと表現され、『ゾーハル』においては「信仰の秘密」(ラーザー・デ=メヘマヌーサ)の核心である。因みに、この神と人間の出会いは、以下のように「神の人称」をめぐる三つの段階を辿るとされる。そもそも『ゾーハル』では、神も成長しており、三段階の「個性化のプロセス」として表現されている。その上で重要なのは、神は成長する度ごとに、その「人称」を変容させる点である。

「神の人称」

a)「彼」

 「彼」と呼ばれる神は、旧約聖書の創世記において活躍していた、あの「創造」の神である。

b)「汝」

 「彼」と呼ばれる神が「汝」へと成長すると、新約聖書においてナザレのイエスを通して語られる、あの「愛と恩寵」を賦与する神になる。

c)「我」

 「汝」にまで成長した神は、やがて宇宙の中ではなく、宇宙の「外」に再び移行するが、これが「我」と呼ばれる神である。ミクロコスモスに置き換えると、人間が己の自我の内に存在している絶対的他性(外部)としての神に出会った段階を、「我」と表現する。実際、ユダヤ神秘主義における「隠れた神」とは、実は「神性の最も内なる〈自己〉」とも呼ばれている。セフィロースでは、この状態を「シェキナー」(神の王国)と表現する。 


関連項目[編集]形成の書バーヒール(Bahir)カバラー 神秘主義 メルカバー
ゼノギアス ゼノサーガシリーズ


⑵ 『ゾーハル』の倫理学

 『ゾーハル』における最高の宗教的価値は「デベクース」(不変の愛、神との変わらぬ直接的関係)である。デベクースは、以下のような行為によって日常生活でも実践することができる。

・慈善
・純潔
・清貧
・祈り
・思考の純粋さ
・神への愛、畏怖
・トーラーの研究



(2.1)「悪の起源」

 重要なのは『ゾーハル』における「悪」の概念である。何故なら、そこでは「悪の発生」のメカニズムが根源的に問われているからだ。悪の根源に位置しているのは、実は欲望ではなく、a)分離、b)不適合、という二つの概念である。まず、「分離」を説明する際に、ショーレムは以下のような解釈を採用している。「取ってはならない」と定められていた果実を、蛇が唆したことでエヴァが手に取ってしまった。この原罪の場面において光景として浮上しているのは、端的に「行為」としての「分離」――すなわち、「果実」の「樹木」からの切断に他ならない。本来、そこにあるべきものが、この場合、エヴァの手によって別の場所に移されていること、これをショーレムは「悪」の根源としての「分離」として規定するのである。同様のエピソードは他にも見出される。例えば、元々エデンの園には一本の樹木しか存在しなかった。にも関わらず、「分離」(これは結局、差異化を生起させるセフィラーである「ビーナー」の力とも相関するだろう)によって、二本の樹木に分かれてしまった。「生命の樹」と、「認識の樹」の誕生である。初めから「分離」されていなければ、蛇が唆すこともなかった。ここに、悪の起源を探求する上での重要なアプローチが垣間見えているのが判然とするだろう。
 次の「不適合」も、「分離」と根本的に類似する姉妹概念である。本来できないはずの行為を無理にやろうとすること、本来そこで安らっているはずのものを、別のところに持っていこうとすること。これは例えば、「神にしか可能ではない行為」を、傲慢にやってみせようとしたサタンの罪とも相関している。ショーレムはこうした「不適合」(できないことをやってみようとする傲慢の罪)を、「魔術のデミウルゴス的な思い上がり」などとも表現している。

(2.2)「神の右手と左手」

 『ゾーハル』によれば、神にも実は右手と左手で異なる属性が存在している。

・右手……「慈悲」と「愛」
・左手……「怒り」



 聖性を「右」に設定するのはキリスト教にも採用されており、基本的にキリスト教美術でも聖なる存在は右側に描かれる。例えば、二十世紀に再発見され、国際的な再評価が進んでいるバロック時代の画家グエルチーノの《聖三位一体》では、キリストは左側に描かれているが、これは御父が「右」に座し、中央の鳩を軸にして聖三角形を示唆する一体関係を表現しているためである。
 『ゾーハル』では、神の右手と左手には互いの属性を打ち消し合う「自浄作用」が存在しているとされる。つまり、悪が蔓延する領域に神は右手ではなく、左手を御使いになられることがあるが、これは来るべき「より大きな慈悲」を前提にしているからである。このように、右と左、神の愛と憤怒は互いにシーソーのようにバランスを取り合っている。しかし、均衡が崩れると「悪」が生起すると規定される。この「悪」とは、神の「左手」そのものを意味する「サマエル」という名の悪の化身である。
 ここで重要なのは、ユダヤ神秘主義の伝統では神をひとつの「神秘的有機体」(聖なる生命体)として捉え、その上で神の誕生、成長過程において必然的に生じた「廃棄物」が、「悪」であるとする考え方である。これは、我々を即座に以下のような考えに導くだろう。つまり、「悪」も実は「神性」そのものから発生している、という見解である。実際、『ゾーハル》でも「悪」はセフィロースを象徴する「宇宙樹」の「樹皮」(ケリーパー)、あるいは「聖なる栗」の「殻」として形象化(譬喩化)されている。

(2.3)「霊魂論」

 『ゾーハル』には以下のような興味深い霊魂論が描き出される。まず、霊魂は以下のように分類される。

a)聖なる霊魂(ネシャーマー)
b)生得霊魂(ネフェシュ)



 ネフェシュとは、万人に与えられた霊魂であり、罪を犯す可能性を持っている。一方、ネシャーマーは「神と世界の隠れた本性を直観する力」であり、セフィロースの「ビーナー」(神的知性)から発している。以上の二つの定義から、以下の点が導き出される。すなわち、罪を犯した人間は死後、ゲヘナの「業火の河」で浄化されるとされているが、これを受けるのは聖化されていないネフェシュの方である。また、聖職に就く者が重大な罪に染まった場合、彼の魂からネシャーマーが「分離」したと考えられる。このように、『ゾーハル』においても霊魂の階層構造を採用する。
 では、我々がネシャーマーを獲得するためにはどうすれば良いのだろうか? これに対する明晰な答えは、個人が生きている間にできるだけ「善行」(ミツヴォース)をするというものである。ミツヴォースの内容については、「慈善」や「純潔」などとして先述しているが、これによって我々は天界で着るための「神秘の衣」を織り上げている。罪人にも死後、衣服が着せられるが、そこには地上での善行の多寡に応じて「穴」が開く。巨悪をなした者はそもそも着衣することがないという。

ゾーハル(זֹהר, הַזֹּהַר, סֵפֶר־הַזֹּהַר sēpher hazZōhar, Zohar)はトーラー(五書)の註解書であり、ユダヤ教神秘思想(カバラ)において中心となっている書物で、アラム語で書かれている。一般的に『光輝の書』と訳され、『ゾハールの書』とも言われる。ユダヤ神秘思想の中に出てくる、セフィロトの木やアダム・カドモン、様々な天使、膨大な数を取り巻く多くの天国などの諸々の神秘思想などがまとめられたユダヤ神秘思想関係の重要文献である。13世紀のスペインのラビ・モーゼス・デ・レオンの著作とされ、シメオン・ベン・ヨハイとの講話記録形態をとっている。尚、セフィロトにも善悪の二つの理論体系があるとしてゾハールの書に影響をもたらした、ラビ・イツハクが参考にした『バヒルの書』には悪の起源の問題があり、他、両性具有理論やセフィロトの発生過程などの説明も記されているとされる。ゾハールの書以前の『バヒルの書』はカバラ神秘思想の道を切り開いた、カバラ神秘思想の最初期の書物といえるであろう。
ゲルショム・ショーレムによれば2世紀にイスラエル地方で話されていたアラム語のスタイルが用いられている。
13世紀のスペインのラビ・モーシェ・デ・レオン Moses de Leon が、2世紀のタンナーであるシモン・バル・ヨハイの名を借りて書いた。
関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next