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06/06のツイートまとめ

tomoichiro0001

RT @lunar_shirayuki: 紫💜 http://t.co/MYM3nVZLHZ
06-06 19:36

日本でライフスタイルを分析する上で重要なのは、ブルデューがフランスで行ったように「文化資本×経済資本」の多寡によって分布図を作成することである。この二大資本の交叉配列から明らかになるのは、「西洋文化趣味」は統計的に本人と両親の学歴資本が高く、支配階層と深い相関がある事実だ。
06-06 19:36

RT @sensualempire: ユージーン・サッカーもアレクサンダー・ギャロウェイも、また彼らと近い位置にいるマッケンジー・ウォークも、みなメディア理論の人たちなんですよね。唯物論としてのメディア理論。それは多分、後々重要になってくるポイントだろうと思います。
06-06 19:34

RT @sensualempire: 最近のメニングハウスの仕事ってほとんどニュー・マテリアリズムと呼んでも差し支えないものだなとふと思った。
06-06 19:32

文化消費パターンにおける「ハイカルチャー(文化威信の高い文化活動群)」とは、「オペラ、クラシック」、「美術館、博物館」、「歌舞伎、能、文楽」、「華道・茶道・書道」、「短歌、俳句」等の消費として社会学的にカテゴライズされる。
06-06 19:31

文化資本、経済資本が高い家庭に出自を持つ行為者の「相続文化資本」は、成人後のハイカルチャー消費の「再生産」へと結実する。現代日本において「文化貴族」の血統性を保存する社会的ホメオスタシス(恒常性)がより堅固に機能するのは、特に女性の高学歴層においてである。
06-06 19:26

RT @HistoryImg: エドワード・ゴーリーのアルファベット・ブック、1963年Edward Gorey's ABC book 1963Aはエイミー かいだんおちたBはベイジル くまにやられたEはアーネスト モモでちっそくZはジラー ジンをふかざけ http:…
06-06 19:25

RT @HistoryImg: 東京大学、1965年Tokyo University, 1965 (Yutaka Takanashi) http://t.co/Z3ATrtdOVy
06-06 19:24

RT @johnfante4: 特集上映「クリス・マルケル・セレクション」@アテネフランセ文化センター。命日にあわせて7/27(月)〜8/1(土)の6日間、『美しき五月』『不思議なクミコ』本邦初上映『笑う猫事件』など8本上映。森話社の書籍執筆陣を中心に毎日豪華トーク http:…
06-06 19:23

RT @HistoryImg: 東京、1955年Tokyo, 1955 http://t.co/YR6krye24r
06-06 19:22



RT @suisenteikyohji: 読みたい。『ゴーストタウンから死者は出ない』(小熊英二他編著、人文書院)「無人にして「死者の出ない街」が、三陸を、福島を、日本を覆う前に。」復興政策の限界を歴史的、構造的に捉え、住民主体のグランドデザインを描くための新たな試み。htt…
06-06 19:21

RT @theta_K: 7月18・19・25日にかけてパリ第1大学のピエール・セルナ教授が来日、「革命と軍隊」をテーマに講演とシンポジウムが行われます。当日は私も通訳を少し手伝いますので、関心のある方はどうぞお気軽におこし下さい。 http://t.co/0qCBdBlQvJ
06-06 19:21

「ポップスよりもクラシックを愛好する」、「漫画には眼も向けず文学に耽溺する」、これら好き嫌い、共感、反感、引力、斥力として発現する感情は、常に本質的なものである。非常にデリケートで細やかな文化的趣味のディテールに至るまで、全ての「性向」は「社会的構築物」に他ならない。
06-06 19:21

RT @numida_meleagri: 高度な専門職や職人芸というのは何でもそうだと思うけれど、仕事を真面目に丁寧にやろうとすればするほど、同業者にさえ理解されにくくなる。理解されないということは、いろいろと負の効果が生じるということでもある。演出の仕方や見せ方は、また別の話。
06-06 19:20

行動とは「歴史化された身体」=行為者が、社会空間において「身体」を還元していく行為であり、この継続により身体は逆に「歴史化」する。この図式が「世界の生成原理」である。「社会化した身体は社会という身体によって形成されたのであるし、また、それと一体をなしている」(ブルデュー)
06-06 19:16

我々の「性向」は「ハビトゥス」の所産である。性向は我々の「身体」に書き込まれ、社会的に(再)生産されている。ある行為者がオペラを愛し何度も足繁く劇場に通うまでの知的変遷それ自体に、彼の周囲を取り巻く社会的歴史の地層が横たわっている。この限りで「性向」には「歴史」が身体化している。
06-06 19:11

ハビトゥスは「歴史の産物」であり、「社会的構築物」であり、我々の「眼」を制度的に生み出す力の根源的場である。最も重要なのは、我々の日常生活を形成するごく些細な行為の全てが、ハビトゥスによって構造化されているという事実である。
06-06 19:06

ブルデュー社会学の基礎概念であるhabitusとは、歴史が個人に身体化された文化的所産であり、habitudes(習慣)、「趣味」を生み出す根源的な場である。それは行為者をclassement(分類化=差異化)させるdisposition(生成力量)を持った場である。
06-06 19:01

ブランショは「消滅」と呼ばれるはずのものを「完成」と呼ぶ。バルザックの『知られる傑作』の画家フレンホーフェルのように、「完成」とは画家が「何もない」と確信できるような状態であり、「不在」、「欠損」において「完成」する境地を指す。
06-06 18:51

エクリチュールには、どれ程捨象しようとしても最小限度に伴わざるをえない「ミニマル・イメージ」が存在する。ブランショのように、極度にイメージを排斥しているかに見える文体ですら、テクストの創出に当たっては最小限度に抑制されたオルフェウス的な「振り返り」をせざるをえない。
06-06 18:46

「〈書くこと〉は既に、死の中のエウリュディケーを振り返り、目にした後で書くこと、つまり〈書くこと〉の後で〈書くこと〉である。この終わりなき循環ゆえに純粋な芸術は存在しない。しかし、むしろ純粋ではありえないものとして、芸術のようなものは〈ある〉」郷原佳以『文学のミニマル・イメージ』
06-06 18:41

maintenant(今)の語源はmain(手)でtenir(支える)であり、「現前」は常に何かによって「支えられている」ものである。しかし、「現前としての不在」とブランショが述べる時、そこではこのmain(手)そのものが消尽している。
06-06 18:36

ベルニーニの《ヴェールを剥がれる真理》という女性像では、外面に表出している衣服の「外生的襞」が、彼女の身体内部の「内生的襞」をrepresent(表象=代理)している。隠匿されている内面的なものは、代理的に外面に既に表象されている。
06-06 18:31

ティツィアーノの《バッカスとアリアドネ》では酒神によって犯され、投げ捨てられたニンファが「もみくちゃになったドレス」という「残存物」として表現される。衣服が脱ぎ捨てられていることは「欲望の痕跡」である。ニンファの身体なき「衣服」には無数の襞があり、投げ捨てられ天をただ茫然と仰ぐ。
06-06 18:26

身体は「布」によって代理される。コレッジョの描いたダナエはヴェールの「襞」=「白鳥」すなわち「ゼウス」と性的に戯れている。ゼウスの本質とは「布」である。こうした「身体」が「衣服」に、「衣服」が「白鳥」へと自在に「転位」するプロセスをヴァールブルクは「力性に満ちた反転」と表現する。
06-06 18:21

ドゥルーズは「存在」が多義化する瞬間を「跳躍」と表現する。これは「起源」の次点に位置するのではなく、現在も更新され続けている「瞬間」の連続である。「存在」を多義化させる力=「跳躍」を、彼は「魔神的なもの」という「途方もない怪物」に見出している。
06-06 18:16

ドゥルーズは『オイディプス王』を解釈しつつ「魔神的なもの」を以下のように規定する。「魔神の跳躍」とは、「遊牧的(ノマド)な配分が、表象=再現前化の定住的な諸構造の中に忍び込ませる壊乱的なトラブル」(『差異と反復』)である。
06-06 18:11

カフカの《Machine d'execution》(処刑機械)もデュシャンの《大ガラス》も、命令を発する権力者の実態は隠蔽されている。デュシャンの場合、「花嫁」は骸骨になっており、「銀河」も抜け殻である。カフカの場合、機械作成者である「前司令官」=「神」は死んでいる。
06-06 18:06

デュシャンの《大ガラス》を緩用すれば、我々は「花嫁」という信じるべき対象を喪失してしまった点で一様にcélibat(独身者)である。オフィスの孤独な群れ、地下鉄の画一的な顔の交通などは、Les machines célibataires(独身者の機械)というシステムの一部である。
06-06 18:01

彼女の言葉には「貴族性」の全てが結晶化している。「上手に生きることは老いを学ぶことです。外見のみに頼らないで自分の内にしっかりした価値観を築くことです。知性、教養、品性、勇気とゆるぎない精神(古代人の美徳)は、女性に外見の美しさよりももっと美しい魅力という名の美しさを齎します」
06-06 17:21

真の貴族は「節度」を重んじる。「いくつもの指輪やネックレス、ブレスレットを同時に着けている女性は、品がないように思われます。同様に、お客様を自分の家にお招きするときは、お客様のほうが地味にならないように、招く側は控えめなジュエリーを選ぶようにしたいものです」(ロスチャイルド夫人)
06-06 17:16

ロスチャイルド夫人は「香水なしの女性」を「額縁のない名画」に喩える。「香りはあらゆる感覚を高め、イマジネーションを惹き起こし、官能に呼びかけ、キスを招き寄せ、思い出を残します。それはあなたの出現を知らせるものでも存在を主張するものでもなく、影のようについてまわるものなのです」
06-06 17:11

ナディーヌ・ロスチャイルドはファッションにおいて「量より質」を教える。これはブルデューが『ディスタンクシオン』で規定した「文化貴族」の核心である。「着ているドレスに自信が持てれば歩き方や振る舞いにも余裕と自然さが加わる」とは、「形式」が「本質」を決定付けることを意味する。
06-06 17:06

二十世紀を代表する貴婦人ナディーヌ・ロスチャイルドが綴っているように、「他者」への敬意はまず「自己」への尊敬あってこそである。distinction(卓越化)への最初の道程は「自己」にポジティブで良いイメージを与えることから始まる。これがあらゆる社交上の礼儀作法の基礎である。
06-06 17:01

プルーストは愛した少年の一人エドガー・オベールの写真の「裏」に以下のように綴っている。「わたしの顔を見よ。わたしの名は〈そうだったかもしれない〉である。〈もはやない〉、〈遅すぎる〉、〈さらば〉とも呼ばれている」。
06-06 16:41

一説によれば、アドニスはヴィーナスとの間に一人の隠し子を設けている。田舎の庭園神、生殖と豊饒を支配する神「プリアポス」である。プリアポスはアドニスが怖れていたファルスの怪物的具現化であり、美と美のインセストから生まれる逆説的な「グロテスク」という美学的命題を喚起する。
06-06 16:36

アドニスの両性具有性は猪というファルス的存在によって彼が絶命し、アネモネの花に転じるというエピソードによって「性差」を機能的に配分していると解釈できる。逃走中にインポテンツの植物「アドネイス(レタス)」の茂みに隠れたアドニスは女性性に近い存在であることをアレゴリカルに示唆する。
06-06 16:31

ヴァレリーは「最も美しい者は自己しか愛せない」と述べたが、これはギリシャ神話の美少年達の特徴である。最高美の安らぎの内に常にある者は異性の美を欲しない。「私は愛を知らないし、知るつもりもない」というアドニスの言葉はシェイクスピアに由来するが、この考えは初期ソネットにも見られる。
06-06 16:26

「アドニス」はフェニキア語adonに由来し、これは固有名詞の反対物、いわば神々に付けられる一般的な付属物程度の意味しか持たない。このadonの「無個性」的性格から、ヴィンケルマンとメニングハウスはアドニスの美の本質を「特徴のない美貌」として規定する。
06-06 16:21

シェイクスピアの解釈によれば、ギリシャ神話で「最高美」の持主はヴィーナスではなく実はアドニスである。彼女は、sweet above compare(比較を超えて愛らしい)、あるいはThrice fairer than myself(私などより三倍美しい)とこの少年を称讃している。
06-06 16:16

オウィディウスは以下のようにナルキッソスに言及する。「浅はかな少年よ、何故いたずらに儚い虚像を捕まえようとするのか? 汝が求めているものは何処にもありはしない。汝が背を向ければ、汝の愛しているものは無くなってしまう。それは水に映ったumbra(影)でしかないのだ」(『変身物語』)
06-06 16:11

ナルキッソスの自己愛は以下のように解体される。彼が愛したのは「水に映った反射」に生ずる「鏡=eidolon(幻影)」としての〈自己〉である。eidolonは恣意的に不要なイメージを捨象された「偶像」である点で、最早ナルキッソス自身ではない。
06-06 16:06

V・ストイキツァが注目するプリニウス『博物誌』の「ブタデスの娘の恋」の挿話によれば、絵画の起源は「影」から始まったとされる。正確にいえば、それはumbra hominis lineis circumducta(人間の影の輪郭をなぞること)という行為にあった。
06-06 16:01

「美学の破壊ほど――もし実際に我々が今日における芸術の問題を設定するなら――急を要するものはないだろう」ジョルジョ・アガンベン『中身のない人間』
06-06 15:51

「プラトンは崇高に至る別の道があることを私たちに示している。それは何か、また、どんなものとしてあるのか。過去の偉大な作家や詩人を模倣し、競い合うことである。これこそが、親愛なる友テレンティアヌスよ、私たちがしっかちと保持していかねばならない目標なのだ」偽ロンギノス『崇高について』
06-06 15:46

ホメロスは「嵐」を描く際に、「彼の周りの最も恐るべき出来事を選び取ってくる」(偽ロンギノス)能力を持っていた。つまり、同じ崇高に関する美的カテゴリーをレトリックとして列挙できる技能を持っていたのである。こうしたテクネーはサッフォーの「愛の狂気」を謳った詩にも見出される。
06-06 15:41

偽ロンギノスによれば、「崇高」には二つの主要成分がある。それはピュシス(天性、自然)とテクネー(技術)である。どちらが欠けても「崇高」ではない。「高貴さ」は「言葉の選択、比喩、表現の熟成」に拠っていると解釈され、読者に「気付かれない修辞」が最も技巧的で並外れたものである。
06-06 15:36

「人間には有用、必要なことは容易く手に入るが、人を驚嘆させるのは、いつも常軌を逸して並外れたものである」」偽ロンギノス『崇高について』
06-06 15:31

「…カイキリオスが激情的なものはまったく崇高に役立たないと考えて、書くに値しないと信じていたとするなら、まったくどうかしている。時、所を得た真正の激情ほど崇高なものはないと、確信を込めて断じて良いだろう」偽ロンギノス『崇高について』
06-06 15:26

「醜」は純粋美の対立概念である。観念論的美学者Th.フィッシャーの範疇論では、美的原理そのものの「均衡破綻」である「醜」が、実は「美」の否定的契機として必要だと規定される。リップスもまた、「美」の「引き立て役」、ないし「条件」として「醜」を積極的に評価している。
06-06 15:21

RT @dessinatrice001: 「ボルヘス文学と〈Web〉が革新的に融合した〈来るべき文学〉の誕生。〈個性〉の分散が加速する現代社会の中で、〈存在〉の在り方を探究した黙示録的な注目の最新短編集」鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co
06-06 13:35

RT @dessinatrice001: 【お知らせ】現在、S/K Studioでは鈴村智久の著書を御購入いただいた読者様からのレビュー(御意見、御感想、批評など)を募集しております。どなたでもお気軽にお寄せ下さい。以下のリンク先から販売中の全ての作品リストが表示されます。h…
06-06 13:35

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