† 現象学  †

現代思想の発火源としてのフッサールの「表現と意味」論についてーー『論理学研究Ⅱ』読解

論理学研究 2 (2)

「Π」は「海辺」と読むことは可能か否か?

例えば、「〒」は「郵便」を意味する。
「3」は「5-2」の差であり、「なな」は「七」(数詞)や「奈菜」(固有名詞)に変換可能である。

では、何故「〒」が、「時計」を意味したりしないのだろうか?
それは、既に規定されていたからに過ぎない。
この規定は公用のものであり、客観的な「意味賦与作用」である。

では、主観的に「〒」を「時計」と読むことは可能だろうか?
フッサールは『論理学研究2』の、現代思想に激震を与えたあの「表現と意味」についての論文で、この問いから出発する。
フッサールによれば、「表現」は、心的作用の働きによって初めて生かされるものである。
この時、「〒」=「郵便」という公的規定は、客観的かつ共-主観的な「意味充実作用」である。

わかり易くフッサールのここでの見解を述べると、彼は「〒」≠「郵便」が成立する、と述べているのだ。
「3」は「さん」とは読まずに、「ご」とか「はち」と読むこともできる。
意味生成を工場地帯に模したのは、『意味の論理学』の著者の仕事であったが、フッサールはこれを既に先取りしているのである。
要するに、「意味」とは、付与されるものであって、「対象」とは常にア・ポステリオリな概念なのである。

「判断作用はそのつど異なっている。しかし判断作用が判断するもの、言表がいい表しているものは常に同一的な幾何学的真理である」



例えば、「プラトンの師」は「ソクラテス」を意味する。
「アテナイで毒殺された哲人」もやはり「ソクラテス」を意味する。
しかし、「プラトンの師」と「アテナイで毒殺された哲人」の意味は差異を有する。
にも関わらず、双方ともに「ソクラテス」において意味充実作用を生起させるのである。
ここからある帰結が提起される。
すなわち、

1、表現が変化しても同じ対象を意味することがある。
2、意味が変化しても同じ対象を持つことがある。



更にここで、テクスト論的な関数的図式を導入しておこう。

「対象とは、表現と意味の関数である」

面白いことに、フッサールは「対象は虚構的でもいい」と述べている。これは極めて刺激的な箇所である。
そもそも、「超越論的還元」すなわち、あの現象学の基礎操作子である「エポケー」とはいかなる概念であったか?
簡単にいえば、エポケーとは全ての外的事物の全面的遮断である。
つまり、「外観」の抹消である。
その上で、世界に存在する全ての事物を( )に入れた後に、絶対的残余として到来するものを、フッサールは「純粋意識」と定義した。
いわゆる、デカルト的出発である。

さて、今ここで、テクストにおいてエポケーを遂行してみよう。
すると、「〒」が公的に有する全ての「意味」が単なる記号の衣服に過ぎないことが暴き出される。
「〒」のこの記号とは、ただの徴表(メルクマール)に過ぎない。
例えば、始祖鳥の化石も、やはり始祖鳥が過去に地球上に生息していたことを示すメルクマールである。
そして、この「化石」と「生きた始祖鳥」の関係性とは、完全な「意味的同一」である。
対して、「〒」はそうではない。
これは単に集団社会が「〒」と「郵便」を意味するように規定しただけであって、いわば一つの「意味」を生産しただけなのである。
「〒」をエポケーすれば、これが「時計」を意味するように、あるコギトが「意味賦与作用」を与えることは常に既に可能なのである。

したがって、ここにおいて「〒」とは「生成される対象」であり、その「意味」は不動ではなく、常にフィールハイト(数多性)化されているのだ。
しかしながら、フッサールは「意味」それ自体も生産されるということを射程に踏まえていなかった。
「郵便」の辞書的意味、ないし概念自体が変化することもあり得るのだ。
つまり、「〒」が「海辺」としてA氏に意味賦与され、B氏には「時計」として意味賦与されることが可能なのである。
その時、「意味」がイデア的アインハイト(単一性)であると定義した彼の目論見は崩壊するであろう。

しかし、フッサールが「意味」をイデア性に帰属させ、「表現」を数多性に帰属させた功績は大きい。
というのは、これによって「意味」が、「原書」的な概念であることが露呈したからである。
「意味」とは、常に様々なコギトの内的直観によって、「翻訳」されることで、「表現」される。
したがって、「意味」=「原書」であり、「表現」=「翻訳」という、一/多という、ディコトミー式の思考フレームがここに成立する。

意味は生産され、かつ、与えられるものである。
意味が受肉する外観、マテリアが表現である。
しかし、このマテリアは豊富であり、一つの意味であるのに数知れない表現を可能にする。(ソクラテスの意味充実作用に関する命題を想起せよ)

また、極端にこのフッサールの思考を応用すれば、「    」という文章も読解可能となる。
「    」とは、「何も書かれていない」、あるいは、「空白」、あるいは、「スペースキーを三度押す行為」を意味している。
しかし、フッサールが述べているのはいっそう根源的な「意識」に関する問題である。
「意味」を生産し、それを付与する主体は、我々の「意識」である。
したがって、「意識」が意味賦与作用の媒介項である限り、「    」は、「時計」や「マリオネット」や「フッサール」を意味することも可能なのである。
「意味」は、上記の思考プロセスを経て、初めて「生産地帯」と規定可能となる。

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