† 建築学 †

根源的な建築のアーキタイプとしてのパルテノン神殿の廃墟性――磯崎新の廃墟論を中心にして

見立ての手法―日本的空間の読解見立ての手法―日本的空間の読解
(1990/07)
磯崎 新

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磯崎は『見立ての手法』の終末に展開されている「廃墟論」の中で、津波に襲われた被災地の光景にも繋がる場所として、戦後の「焼け野原」に想いを馳せている。そこは建物が空白化、断片化してしまった空間であるが、磯崎の記憶の中の「焼け野原」も、やはり断片、廃墟として存在している。彼は戦後のこの光景を写真で目にしたのだが、それは彼の記憶に重く圧し掛かるものとなっていった。
「巨大な墓石としての超高層ビル」とか、「建築は廃墟として構想されることが可能になる」といった表現には、どんな建物の未来系も結局は廃墟に過ぎないという一種の「無常」の感覚が窺える。古代ローマを想像的に復元したピラネージの「カンポ・マルツィの大地形図」や、80年代に流行したサイバーパンク的な頽廃世界まで、イメージを横断しながらどちらかという内省的に綴られている。3.11以後の「生き残りとしての現存在」(デリダ)である我々にとって、彼の「焼け野原」の光景を、「被災地」の光景と重ねることもできるだろう。御厨貴も述べていたように、「戦後」が終り、「災後」が始まっているのである。
磯崎の廃墟論が戦後の焦土を核にしているとすれば、我々の時代は阪神淡路大震災や東北大震災という、けして想像的ではない現実の天災の記憶を頼りに、彼の廃墟論に重ね合わすこともできるだろう。
そういう点で、「廃墟論」というテーマは、常に時代によって異なった重みを持って我々に迫ってくる。

人体の影―アントロポモルフィスム人体の影―アントロポモルフィスム
(2000/10)
磯崎 新

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磯崎は『人体の影』の中でも、ル・コルビュジエや明治期に活躍した堀口捨己、ポール・ヴァレリー、更に三島由紀夫などから敷衍しつつ、やはり「廃墟論」を展開している。近代建築の目標を打ち立てたとされる、コルビュジエの『建築を目指して』(1965)は、「機械のような建築」を理念にしていた。彼がこの着想を得る原体験には、実はギリシア旅行で観た廃墟としてのパルテノン神殿があったといわれている。アクロポリスの丘は、彼にとって終生変わらぬ最大のテーマでもあった。磯崎は、コルビュジエにとってアクロポリスの神殿跡がいかに魅力的なテーマであったかについて、以下のように解釈している。

「そのひとつに、ここがいかにも無惨に破壊され、廃墟として、瓦礫の堆積となる寸前の状態をかろうじて保持している、その危なげな有様が古典主義の時代の古代憧憬、新古典主義の時代の幻想に満ちたロマンティシズムをかきたてていたことも事実である。これが建設当時の多色に彩色された姿態のまま現在に伝わっていたら、これだけの感動を果たして与ええただろうか」



アクロポリスの丘「エレクティオン神殿」
アクロポリスの丘「エレクティオン神殿」

コルビュジエにとってパルテノンは、「根源的な建築の祖型」であったと、磯崎は規定している。これは彼の機能主義的な建築理念が、現代の都市空間でも大きな影響を与えていることを鑑みると、非常に興味深い点である。磯崎は、『建築を目指して』の鍵概念を、「パルテノン神殿=機械=キューブ」と図式化している。
1930年代の明治期に活躍した分離派の堀口捨己も、やはりコルビュジエと同じように若い頃にアクロポリスの丘の光景を目の当たりにしている。そして興味深いことに、彼もまたそこに「建築の実在」を感じているのである。当時の建築家たちは、西洋建築をそのまま島国に取り入れていたが、堀口はそんな時代潮流の中で、毅然と「日本の伝統的建築を新しく解釈し直す」ことでしか、西洋に張り合う手段はないということに気付いていた。そして彼を代表とする分離派たちは、「非都市的なもの」へと撤退していくことになる。
こうした近代建築を形成した建築家が、共にギリシアの神殿跡という「廃墟」に魅せられ、そこに「建築」の本質を見出していたという点は重要である。
三島由紀夫は『アポロンの島』の中で、ギリシア的な廃墟美と、日本的な美意識について以下のように述べている。

「――ギリシアは今、我々の目の前に、この残酷な青空の下に、廃墟の姿を横たえている。しかも建築家の方法と意識は形を変えられ、旅行者はわざわざ原形を思い描かずに、ただ廃墟としての美をそこに見出す。オリンピアの非均整の美は、芸術家の意識によって生まれたものではない。
しかし竜安寺の石庭の非均整は、芸術家の意識の限りを尽くしたものである。それを意識と呼ぶよりは、執拗な実感とでも呼んだ方が正確であろう。日本の芸術家はかつて方法に頼らなかった。彼らの考えた美は普遍的なものではなく一回的なものであり、その結果が動かし難いものである点では西欧の美と変わりがないが、その結果を生み出す努力は、方法的であるよりは行動的である。つまり執拗な直感の鍛錬と、その絶えざる試みとが全てである。各々の行動だけが捉えられることのできる美は、敷衍されえない。抽象化されえない。日本の美は、おそらく最も具体的な或るものである」



これは磯崎が『見立ての手法』の「間」で述べていた、「さび」についての三島的な解釈といっても良いだろう。すなわち、アクロポリスに美意識を感じる我々のこの気質自体が、彼をして「日本的」であるといわしめているのである。確かに、ギリシア人たちはパルテノン神殿を建造したが、「廃墟としての神殿」を創造したわけではない。廃墟化したのは、悠久の時の流れに他ならない。この歴史の偶然性に、三島は「一回的なもの」を――ベンヤミン的に表現すれば「aura(一回性の神秘)」を――見出していると解釈できる。
ロマン派の美意識にとって、廃墟とは「悲劇を見る感動」を伴うのである。それは新古典主義の時代の建築家においても、やはり同じであった。三島は更に「廃墟の美学」について展開する上で、ヨーロッパと日本の美意識の根本的な差異を強調する。

「――ギリシア人は美の不死を信じた。彼らは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を信じたかどうか疑問である。彼らは具体的な美が、肉体のように滅びる日を慮って、いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の不均整の美は、死そのものの不死を暗示しているように思われる。
オリンピアの廃墟の美は、いかなるたぐいの美であろうか。おそらくその廃墟や断片がなお美しいことは、ひとえに全体の結構が左右相称の方法に拠っている点に懸っている。断片は、失われた部分の構図を容易に窺わしめる。パルテノンにせよ、エレクテウムにせよ、我々はその失われた部分を想像するとき、直感によるのではなく、推理によるのである。その想像の喜びは空想の詩というよりは悟性の陶酔であり、それを見るときの我々の感動は、普遍的なものの形骸を見る感動である」



聖バルトロマイの皮―美術における言説と時間聖バルトロマイの皮―美術における言説と時間
(2005/07)
チェーザレ セグレ

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この三島の廃墟論は、チェーザレ・セグレの芸術論『聖バルトロマイの皮』で紹介されているJ.ムカジョフスキーのfragment(断片)性についての極めて興味深いテクストと同じテーマを扱っているといえる。

「ムカジョフスキーは美的機能が持つ、時間の経過の中でその対象が失った機能の補償を見出そうとする能力を指摘している。要するに、当初の機能(呪術的、儀礼的、実務的機能のいずれであれ)を失った対象は、最初は副示的な役割しか担っていなかった美的機能を増強することによって、その価値の一部または全部を回復するといえるのだ。これらの観察は、更にはるかに広い範囲に応用できる。例えば、断片もしくは断片の集合しか現存していない作品がそれである」

「観者は想像力によって、消失した美と戯れ、最早到達不可能な完全な美と戯れる」



三島とセグレの上記のテクストを照合すると、共に今、ここに現前している「痕跡」から過去に遡及して全体像をイメージの中で補完する作業に、一種の「美意識」を抱いているという共通の構造が浮き彫りとなる。完全な芸術など存在しない。芸術は、何らかの欠損を持つがゆえに美しいのである。ムカジョフスキーから敷衍したセグレの「断片性の美学」は、そのまま彼の「廃墟論」としても把捉可能であることはいうまでもない。

「この郷愁の美学においては、知ることのできない美が、遂には残存している美に優越するに至る。これと類似したメカニズムが未完成作品の場合にも発動される。たとえ過去との接続が存在しなくとも、欠損部への切望感は、それが元々存在していない場合でさえ、欠如の哀感を生み出す。このような美的コードは、近代の嗜好において極めて活発である」



ピラネージは建築家になりたくても、装飾の仕事を任されるに留まっていた。この苦悩が彼に「カンポ・マルツィの大地形図」という壮大な仮想建築を描かせたともいえるが、そこには依然としてやはり彼独自の古代ローマに対する「欠損部への切望感」(セグレ)が働いていたと考えられる。
建築だけでなく、「失われた写本」や、「現存しない書物」に対する我々の郷愁も、この美意識に基づいているといえる。セグレは以下のように文字言語における「断片性」が持つ独特な美的インパクトについて的確に語っている。

「私は例えば、テクストの損傷の後、更に謎めいたものとなり、そして多くの場合更に魅力的となった、ギリシア叙事詩の断簡をあげよう。叙述内容全体の不完全性と、その叙述行為のための座標軸の欠如は、謎めいた神託のような調子を言説に与える」



こうして、我々は今ひとつの視座を獲得する。三島が「日本的な美意識」としてテーマ化していた「廃墟の美学」、「さび」、すなわち歴史の流れで「一回性」を持って偶然的に生起したものに掛け替えのない美的観念を結び付ける視座は、西洋の美意識においても既に存在していたということである。17世紀以降、ヨーロッパにおいて廃墟への美的評価が普及するにつれて、こうした「全体像へのpathos(哀感)」の美学は確立されている。「さび」のみを持って日本独自の美意識を展開することは不可能であり、やはり磯崎が『見立ての手法』で述べたように、「間」を核にした九つの派生概念によって、実際の日本建築と合わせて論じていくのが適切であろう。
磯崎はまた、ポール・ヴァレリーの『エウパリノスまたは建築家』について、以下のように解釈している。

「…ヴァレリイが、自然のつくりだす秩序と人為的な、理性の産出による秩序とを対置し、理性的秩序を称賛しているわけだが、廃墟は、その理性的秩序が、自然的秩序によって浸蝕されていく過程をそのまま見せているのだ、と言い換えていいだろう。そして廃墟は、同時に18世紀の理性の時代にそれに対するひとつの反動として生まれたロマン主義者たちが、その悲劇性をかきたてる小道具としいぇ注目したものであったことを付け加えておく必要もある」



磯崎はこうした先達の廃墟論に触れた上で、改めて「メタファーとしての廃墟」という、『見立ての手法』で展開されていた観念を『人体の影』においても述べている。それは、「観念に焼きついたイメージとしての廃墟」であり、「現在を内側から刻々と解体させていくような廃墟」である。いわばそれは、あらゆる建物の「死」についての観想なのであり、建築物に対する鎮魂的な意味合いが含まれていると思われる。「廃墟の永劫回帰」という観念は、磯崎の建築論だけでなく、彼のコルビジュエ論の基礎にもなっており、「被災地」の廃墟的光景が今後も続いていく今日的な意味も含めて極めてメッセージ性の高いテーマであるといえるだろう。

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