ジャン・ラシーヌ『ベレニス』について主要な登場人物を紹介しておく。
○ ベレニス…パレスティナの女王
○ ティチュス…ローマ皇帝
○ アンティオキュス…オリエントのコマジェーヌの王
この物語は、男と女と男という三つ巴が織り成す悲劇である。
ベレニスとティチュスは相思相愛で、アンティオキュスはベレニスを密かに愛している。
アンティオキュスは実らぬ愛を自覚しつつ、しかも皇帝ティチュスへの忠誠を誓いつつも、密かにベレニスに想いを寄せている。

しかし、ティチュスはローマの因習には逆らえずに、異邦人の女王であるベレニスとの結婚を破棄しようとする。
物語はティチュスの父ヴェスパシアン皇帝が崩御した夜から幕開けする。
ティチュスはローマの因習を背負い、王として異邦人の女王を娶らずに生きていくか、それともローマに逆らって犠牲的な愛を選択するか、という大いなるな苦悩のさ中に立たされるわけだ。
そこでティチュスがかねてから信頼していたアンティオキュスに、仲立ちを頼むのである。
ベレニスへの別れを、間接的に彼を使って果たそうとするわけだ。
これが逆効果となり、密かに片思いを寄せていたアンティオキュスは、二人の恋中を裂こうとする「陰謀」だとベレニスに勘違いされてしまう。
二人の若い王は共に人間が感じる「愛」ゆえの最大の苦痛と懊悩に支配されており、物語は終始、緊迫して劇的に展開される。
三人がどうなったのかといえば、それは三つ巴の終焉である。
つまり、ティチュスは結局、一度別れを告げたにも関わらず、更にベレニスの愛を欲するのだ。
彼はローマとベレニスを同時に手に入れようとする。
だが、既に一度拒まれたベレニスは、最愛のひとからの愛の宣告を厳しく拒否する。
二人の愛は、ローマの政治的な掟によって崩壊したのだ。
最後に、アンティオキスが二人の前で、自分もベレニスを愛していたことをささやかに告げる。
これにティチュスは驚愕する。
そして、三つ巴は終わり、誰もがこの悲恋で自殺を選ぶことなく、それぞれの「忘却」を生き始める。
邦訳で読んだが、おそらくラシーヌは凄まじいパッションを宿して書いていたのだろう、文体は跳ねるようで、心理の動きも怖ろしいほどに生々しい。
愛している男が、愛されている女に愛を語る時の、非常に非論理的で動揺した台詞、
「私はローマと決別する!」→
「然り!私はベレニス、貴女だけでいいのだ!」→
「しかし、私はやはり皇帝の法には逆らえぬ!」→
「だが!私には貴女しかいないのだ!」など、随所に迫真的な心理描写が描き込まれている。
私が感じたことは、アンティオキュスという暗くて孤独な片思いする王への、ベレニスの冷たさである。
ベレニスは彼に極めて冷酷に接している。
いわば、彼が自分に愛を寄せていることを知っているにも関わらず、「友人」として接するわけだ。
第一幕で最初に登場するのは、何故かアンティオキュスである。
だが、相思相愛であるティチュスとベレニスにはどうしても勝てないのである。
それを彼は知っているにも関わらず、やはりベレニスのことが気になって仕方がないのだ。
展開で重要な「橋渡し」を演じたアンティオキュスは、この物語にとって必要不可欠な存在である。
ベレニスという女性は、実在したようだ。
史実とかなり差異があるそうで、これが後年に長い批判となったという。
だが、ラシーヌはこれを「変形」して描いている、と解説には書かれている。
実際のティチュスも「第二のネロン」といわれたほどの悪政をしていたそうだが、いわばこの「ベレニスとの恋」によって、善政へと目覚めるのである。
『ベレニス』には、このように「政治」と「恋」という主題がある。
また、私が感じたことだが、ベレニスの感情の動きも興味深い。
彼女は一度、最愛の男性から別れ話をされると、今度はもう彼を激しく突き放し始める。
愛していた分だけ、今度は感情を弄ばれたという復讐と憎悪が芽生えたのだ。
彼女は「死」の観念に直撃されつつ悲嘆するが、その彼女を我に帰らせる存在となったのが、やはりアンティオキュスの最後の「告白」であった。
ラシーヌは、「女性の心がわり」の繊細さを若い男性読者に語りたかったに違いない。
「ローマ」という語を、ラシーヌは女性名詞として書いている。
つまり、ティチュスは女性「ローマ」と女性「ベレニス」に二股をかけているのだ。
そして、彼は皇帝らしく、同時に二つを獲得したいと願っている。
が、これをベレニスは断じて赦さない。
「私か、国家か」の二者択一を若き皇帝に宣告するのだ。
そして、結局、彼は結末を見てもわかるとおり、「国家」を選んだのだ。
だから、この作品のテーマは、「真実の愛の難しさ」かもしれない。
実際、冒険的な愛を夢見ても、社会から逸脱したり、家族や友人との縁を全て切断するという「犠牲」を冒してまで、その「愛」を手に入れたいと思えるような人間がどれだけ存在するだろうか?
こういう愛は、神話的ではないのだろうか?
ラシーヌはそれを告げたのかもしれない。
少なくとも、ティチュスが背負っていたローマの掟は、現代にも形式を変えて存在するだろう。
『ブリタニキュス』についてこの作品でも、やはり三つ巴が展開される。
ただ、『ベレニス』と異なり、『ブリタニキュス』はいっそう悲劇的である。
少し仔細に人物を紹介しておこう。
○ネロン
父親はグナエウス・ドミティウス・アエノバルブス。
母親はアグリピーヌ。
クラウディウス帝の養子になる前の名前はドミシユス・アノバルビュス。
後世、カリギュラらと並んで「怪物」と称された、あの暴君ネロが主役である。
○ブリタニキュス
クラウディウス帝の子で、ネロンより三つ年下の義理の弟。
平和を愛し、善政を重視する理想的な青年である。
が、ネロンが皇帝の座についてからは、政治的な危機に直面していた。
○ジュニー
理不尽な政治的失墜を経験し、苦悩に襲われていたブリタニキュスを愛する心優しい女性。
ジュニーとブリタニキュスは相思相愛であったが、それを嫉んだネロンがこの愛を破壊しようとする。
このように、『ベレニス』に類似した三つ巴の構図が展開される。
ネロンは一方的にジュニーを愛する。
ブリタニキュスとジュニーの相思相愛は、いわば似た者同士の愛である。
二人ともネロンの戴冠を契機に世の憂き目にあっていた。
そうした「涙の絆」を、皇帝は羨むのである。
この作品において、ブリタニキュスとジュニーの愛は、ほとんどキリスト教的な聖性を感じさせるほど静謐で、控え目で、無垢な純愛である。
というのは、おそらくラシーヌの出自と関係があるかもしれない。
ラシーヌは孤児になり、幼少時代から厳格なカトリックの教育を受けてきた。
いわば、若い男女のこの密かな愛に、ラシーヌは神の現存を描いているとも考えられる。
だが、特筆すべきはネロンである。
実は、ブリタニキュスの後見役に、ナルシスという名の男がいた。
この男は、若い彼の相談に色々と忠告を与えたりするのであるが、実はこのナルシスはネロンと密約を交わした悪臣である。
本作で常にネロンを悪へと誘引するのは、ナルシスである。
ところで、ネロンの後見役はセネカの代わりに来たビュリュスである。
ビュリュスはナルシスと異なり、ネロンを善へ誘引する賢臣である。
この作品については、ロラン・バルトが『ラシーヌ論』で詳細な読解を行っているそうだ。
バルトによれば、ネロンの口ぶりには一つの特徴があるのだという。
それは、「恋愛のディスクール」と呼ばれているものだ。
ネロンはジュニーに対して、彼女をひたすら愛するような甘美な言説を巧みに用いる。
だが、彼の心はそれとは裏腹に怪物的である。
この二重性は、デリダが述べていた「パルマコン」として概念化できるかもしれない。
つまり、毒薬でありつつ、反面では名薬でもあるような存在である。
ラシーヌ自身は、ネロンの本質を「抱擁=接吻」として表現している。
そこにバルトは「毒薬(poison)」を付け加えて解釈したようだ。
ネロンとセネカについての問答も別の作品に存在する。
擬セネカの『オクターウィア』だ。
ネロ 皇帝は怖れられねばならぬ
セネカ むしろ、愛されるべきです
ネロ 必要なのだ、怖れられることこそ
このような一行ずつの詩句のスリリングな掛け合いをギリシア語で「スティコミュティア」と呼ぶ。
私が『ブリタニキュス』を一気に集中して読み終えた今、感じることは、この作品にはまだまだ奥深い謎があるということである。
まず、ネロンとは一体何なのか?
暴君だろうか、それとも相愛する男女に嫉妬するただの孤独な少年だろうか、或いは、サタンの化身であろうか?
危機的状況下で繰り広がれられるブリタニキュスとジュニーの「恋の悲壮感(pathetique)」は素晴らしい。
だが、ネロンはどうして、皇帝でありながら、些細な弟の恋愛にまで手を出したのか?
ネロンであれば、ジュニーと同じほど端麗な女性と新しい恋愛を始めることもできたはずである。
それとも、ネロンは醜かったのだろうか?
作中で、実はネロンの「容姿」についてはあまり語られていない。
ただ、ブリタニキュスがこれほどジュニーに愛されるということからして、そして彼女がネロンには常に「恐怖」を感じていることからして、おそらくネロンには独特な圧迫感が漂っていたのだろう。
ブリタニキュスは、女性から好かれ易く、政治的危機に瀕しているとはいえ、高い地位にあり、そして容貌は甘くハンサムだ。
対して、ネロンは権威主義的な母親アグリピーヌの尻に敷かれ、マザーコンプレクス的な不気味さを感じさせる、どこか幼稚で狂的な側面を持つ、哀れな孤独者である。
だが、どちらの地位が高いかといえば、ネロンである。
おそらく、ネロンはブリタニキュスほど容貌に恵まれなかったのだろう。
ネロンの性格の屈折した部分は、きっと顔にも現れていた。
ジュニーがネロンを怖れるのも無理はない。
だが、私は何故か、ブリタニキュスよりも、ネロンに感情移入して読んだのだった。
ブリタニキュスとジュニーの愛を、仮にカトリックの普遍的な恋愛と呼ぶとしよう。
すると、ネロンの嫉妬は、「嫉み」の罪である。
ネロンはここで、ラシーヌがカトリックであることを鑑みても、明らかにアンチ・クリスト的存在である。
なるほど、そう見れば、確かにネロンは最初から最後まで、「悪」として描かれている。
ナルシスに誑かされ、心理的に狂気へと追い詰められていく部分もあるが、ラシーヌは最初からネロンを反キリストの系列に入れてきっと書いている。
すると、ネロンとは要するに、サタンの象徴になってしまう。
つまり、神話化するのだ。
換言すれば、ネロンには、ネロンゆえの「悲哀」や「孤独」といった人間的な側面が描かれていないのである。
ブリタニキュスとジュニーは、政治的な苦境(現代でいえば、いわば仕事の突然の喪失や、財産の消尽などだろうか)に襲われている。
他方、ネロンはエリートサラリーマンで、若いのに既に豪邸を築き上げ、何人もその財力によって女性たちを取り込んできた。
だが、それは真実の愛ではなかったのだろう。
だから、ネロンはジュニーを、いわば一人の高級娼婦を愛でるように愛するわけである。
対して、ブリタニキュスにとっては、ジュニーだけが唯一の聖女なのだ。
つまり、彼はジュニーを真実の、何の穢れもない無垢な愛の対象としてみている。
それをジュニーも感じ取っているからこそ、二人は苦境においても互いに慰めあい、そして愛に燃え上がることができたのだ。
ネロンはこれに嫉妬する――つまり、彼は真実の愛が何かを知ることがなかったのだ。
彼はそれを欲していたのである。
こういうとき、おそらくあらゆる男性に二つの選択肢が少なくとも用意されている。
それは、ジュニーを諦めて、私も真実の愛を求める男性になってみよう、という道。
もう一つは、私を邪魔する存在である恋敵は、殺してしまおう、という道。
この二つはいずれも極端な道であるが、ネロンはどうして前者のコースへ疾駆できなかったのか?
ネロンがもしも「真実の愛」に飢えているなら、彼はそれをローマの女性たちから探すべきであったろうに。
そして、それができないネロンではないはずだろう。
が、ネロンは史実としても後者を選んだようである。
この作品の最後で、ブリタニキュスは毒殺されてしまう。
そして、不穏な夜で終幕する。
つまり、ネロンの暴走はこれから始まる――そこで終幕なのだ。
今でも謎なのは、やはりネロンの存在の「意味」である。
彼は何がしたいのだろうか?
「衝動」のみに依存して、「力への意志」のさ中に屹立しているのだろうか?
もしもニーチェの思想を具現化した人物が有史以来、一人でもいるとすれば、それはラシーヌがこうして芸術化させたように、後世のアーティストに強烈な印象を与え続けてきた若き狂帝ネロの他ないのではないか。
ネロ
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ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus, 37年12月15日 - 68年6月9日)またはネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス (Nero Claudius Caesar Drusus Germanicus) はローマ帝国の第5代皇帝。改称前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (Lucius Domitius Ahenobarbus) 。後世暴君と評された。
経歴
37年、小アグリッピナとグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子として生まれる。
父はマルクス・アントニウスと小オクタウィアの娘大アントニアとルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子であり、母は初代皇帝アウグストゥスの孫大アグリッピナとゲルマニクスの娘であった。
生まれた時の名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスである(しかしながら、以下混同を避けるため「ネロ」の名称で通す)。
早くに父を亡くしたが、その後母の2度目の再婚相手となったのがクラウディウスであったため、元首の継子の立場に就いた。この小アグリッピナとクラウディウスの結婚は、姪と叔父の間の結婚であった。
幼少期
当初はネロは皇帝の地位など望むべくもなかった。カリグラが帝位に就いたのち、40年に父ドミティウスが死去、母小アグリッピナはカリグラの寵愛を失い、流刑となる。父ドミティウスの遺産はカリグラの手に入り、ネロは叔母のドミティア・ルピダのもとで育てられた。しかしその3年後、カリグラが暗殺され、伯父のクラウディウスが擁立され第4代ローマ皇帝となると、彼によって小アグリッピナはローマに戻る事を許された。
クラウディウスはメッサリナを妃として迎えており、すでに後継者ブリタンニクスがいた。しかしながらメッサリナは48年に不義の咎で自殺を命ぜられ、そして母がクラウディウスと結婚し、皇妃となった。その母の計略によりネロはクラウディウスの継子から養子となり、立場が強化された。
この時点で名前がネロ・クラウディウス・カエサル・ドルーススとなった。
その後、母の采配でブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。そして年少のブリタンニクスよりも後継者に相応しいとさえ見られるようになった。54年にクラウディウスが死ぬと、ネロが皇帝に即位した。
皇帝ネロ
ネロの治世初期は、家庭教師でもあった哲学者セネカや親衛隊長官セクストゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐を受け、名君の誉れが高かった。しかし数年後にはネロとその周囲の人間――母と側近2人――との間に微妙な緊張関係が見られるようになり、それがネロの影響力に現れてくる。例えばネロが席につくとアグリッピナは隣に座っていたが、セネカがそれを諌めている。ネロの友人もアグリッピナに不信感を抱きネロ本人に忠告してくる。またネロは妻オクタウィアには不満で、解放奴隷のアクテを寵愛していたが、アグリッピナの命でネロから離されそうになったところ、セネカの助けで事なきを得るということもあった。
ネロが母親の干渉を疎ましく思うようになると、アグリッピナはかつて自らが退けたブリタンニクスに注目するようになる。この時点でもブリタンニクスは帝位継承権を有しており、その意味ではネロに代わりうる存在であった。また彼は成人式がせまっており、大人の仲間入り、すなわち帝位継承権を行使できる立場に近付いていた。そのブリタンニクスは成人の儀式目前で55年に急死した。タキトゥスによれば、ネロが暗殺したと言う。
ネロの権力は増大し、ついにはブッルスや母親の取り巻きの解放奴隷マルクス・アントニウス・パッラスを反逆罪で告発、セネカも横領で告発されたが、セネカが両名の弁護を担当して事なきを得た。しかしカッシウス・ディオによれば、セネカもブッルスもこの事件以降、保身に努めるようになったと言う。そしてネロが妻オクタウィアと離縁し、ポッパエア・サビナと結婚しようとするとアグリッピナと対立することとなり、59年にはアグリッピナを殺害した。62年にはブッルスも死去、同年セネカが再び横領の咎で告発される。ここに至ってセネカは引退をネロに申し出る。こうしてネロは妻オクタウィアと離縁、そしてボッパエア・サビナと結婚する。ポッパエアは既に結婚していたが、夫オト(後の皇帝)は離婚させられた上、ルシタニアに左遷された。
さらに、女装しては解放奴隷のピュータゴラースやドリュプォルスと正式に結婚して彼らの花嫁となったり、美少年スボルスを去勢し女装させては、これまた正式に結婚して自らの正室=皇后に迎えたりした。
ネロの権力は元老院議員の生死まで関わる問題となった。62年にプラエトル職にあった者が宴席でネロの悪口を言った咎で死刑される事から始まり、さらに元老院議員ピソがネロの暗殺を企てたという嫌疑から懐疑心を募らせ、前述のパッラスを含む多くの元老院議員が処刑された。そして65年には前述のピソに連座してセネカ本人までが自殺を命ぜられている。
こうして55年のブリタンニクスの殺害に始まり、59年に実母小アグリッピナ、62年に妻オクタウィア、65年にセネカを殺害、加えて64年に発生したローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害したことから、後世からは暴君として知られるようになる。新約聖書の『ヨハネの黙示録』に見られる獣の数である666はネロの別名であるネロ・ケーザル(カエサル)を意味するとも言われる。これは、ネロ・ケーザルはヘブライ文字ではNRWN QSRと表記し、それぞれ50、200、6、50、100、60、200の数を意味し、合計すると666になるためである。
68年、タラコンネシス属州総督ガルバらによる反乱が勃発。各地の属州総督がこれに同調し、ついには元老院から「国家の敵」としての宣告を受ける。68年6月8日自殺。
死後
ネロの死によってユリウス・クラウディウス朝は断絶し、ローマは四帝乱立の1年として知られる戦乱の時期を迎える。
死後に皇帝ドミティアヌスに乗り移ったという伝説の他、帝国内及びパルティアにおいて「偽ネロ」の出現が相次いだ。
年表
37年12月15日 - アンティウム(現在のアンツィオ)にて出生。
50年 - ドミティウス、クラウディウスの養子となり、ネロ・クラウディウスと改名する。
51年 - 成人式を挙げる。
54年10月13日 - クラウディウス帝の死により、皇帝に即位。
57年 - 元老院属州と皇帝属州を合わせ国庫を一本化する。
59年3月21日 - 母を殺害。
64年 - ローマの大火。その跡地に黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建設。
65年 - ピソの陰謀。
67年 - コリントス運河の開削を試みる。
68年6月8日 - 反乱を受けて自殺。遺灰はマルス広場に葬られた。
後世の評価
ネロの評価は現在でも極めて低い。キリスト教を迫害した上、その罪状に「人類(ローマ国民)全体に対する罪」を付加したため、キリスト教文化圏ではこの傾向は特に顕著である。だが当時のローマ帝国内では、ローマ伝統の多神教を否定するキリスト教に対して嫌悪感を抱いている者が圧倒的に多数派であった。ネロを糾弾したタキトゥスをはじめとする後世のローマの歴史家達も、この事についてはむしろネロの見解に近い立場を取った。
さらに、彼は非常に忌まわしい過去を持ち、非常に不運な皇帝であったが、それにもかかわらず治世初期に善政を行ったことを評価する向きもある。その上、大火後にネロが陣頭指揮したローマ市の再建は市民には受けがよく、ネロを糾弾し続けたタキトゥスでさえ「人間の知恵の限りをつくした有効な施策であった」と絶賛している。また、ネロがその際行った貨幣改鋳はその後150年間も受け継がれており、これは彼の通貨・財政政策が適切なものだったからであろう。ブリタニアで反乱が起きるも、鎮圧後の戦後処理が適切であったために以後ブリタニアは平穏であり続ける。また名将コルブロの奮戦もあり(インペリウム授与を躊躇ったために解決が遅れたという減点はあるが)、長年の敵国であったパルティアなど東方オリエントとの外交政策も成功を収め、その後東方とは50年以上、トラヤヌスの時代まで平和を保つことができたのも彼の功績といってよい。ネロの死後、パルティア国王は元老院に対して、「ネロは東方諸国にとって大恩ある人であり、今後も彼への感謝祭を続けることを認められたい」と申し出て受理されている。セネカ引退後も、善政と無縁ではなかったのである。
ただ、その一方で、歌手の真似事をするなど、一般人であれば若気の至りですむようなことであっても、国家元首としての振る舞いとしては明らかに問題があると言わざるをえなかった。謀反を企てた者もネロの政治姿勢、政策よりもこのような振る舞いが皇帝にふさわしくないことを主な理由にしていた。またピソの陰謀に関連して、コルブロなど有能な武将を確たる証拠もなく謀殺したことで、軍からも反感を買ってしまった。皇帝は軍の最高司令官でもあるので、これは致命的であった。
また、カリグラと違ってネロは非常に繊細だったため、ローマ市民はネロに対して同情を示し、墓にはいつも花や供物が絶えなかったと言われている。
塩野七生はネロを次のように総括している。
「ローマの庶民たちも、死んだネロには優しかったのだ。皇帝であったことを忘れるなら、ネロは、奇抜なことをやってくれる愉快な若者だった。それに善政にだって無縁であったのではない。善政はしたのだが、それが持続しなかっただけである。とはいっても、持続する意思とは、リーダーには不可欠の要素ではあるのだが」。
もし、彼が皇帝ではなく、せいぜい一軍人、一元老院議員くらいであったら、(そして、ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスという、皇帝の地位など望むべくもなかった一人の男として生涯を終えていたなら、)その人柄を多くの友人や庶民に愛され、幸福な一生を送ったかもしれない。実際、ネロには友人が多かった。その中にはオトやウィテリウス、軍人から皇帝になったウェスパシアヌス、元老議員議員出身で五賢帝の初代ネルヴァなど後に皇帝となった人物もいたのである。
ちなみにネロに関して、鉛中毒説によって暴君に豹変したという説が語られた事がある。当時のローマの水道管が鉛製であった事による。しかしながらこの説は現在は否定されている。水道管には酸化皮膜が生じるため、簡単には水道水には鉛は溶け出さないからである。また水道管に原因があるなら、ネロに限らず全てのローマ人に同様の事が起きたはずである。そして一番肝心な点であるが、上記の通りネロ帝の事績を辿れば、善政を長続きさせる能力に欠けていただけであって、決して名君が暴君に豹変した訳ではないのである。
人格
宝石マニアであり、おびただしい宝石で身の回りを飾り立てる趣味があったといわれている。中でも蛍石が大好きで気に入ったものはどんな手段を使っても手に入れていた。そのためある執政官は、ネロに取られたくないばかりに蛍石製の柄杓を死の直前に叩き壊してしまったと伝えられている。
オリンピア競技に出場、優勝した(ただし主催者側が大胆な出来レースとした。ちなみに獲得した栄冠は1800にも及んだと言われる)。
4年に1度開かれるオリンピア祭に対抗し、5年に1度開かれるネロ祭を創設した。内容は体育、戦車競技の他に音楽部門の3つがあった。その内、ネロは竪琴、詩、弁論の3種目で出場していないにもかかわらず優勝した。
真偽ははっきりしないが、死ぬ直前に言ったとされる「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われることか」という言葉は有名。更にネロが自刃した直後に現れた追っ手の百人隊長が、すでに死んだ(と思われた)ネロに危害を加えるのは流石に人の道に反するので、遺体を丁重に扱うためにマントを掛けようとした。すると突如ネロが目を見開き「遅かったな。しかし、大儀である」と言い残し、目を見開いたまま絶命した。百人隊長はその死に様に恐怖したと言う。
プリニウスによると、ネロは無類の鳥類マニアで特にオウムやインコの類に目が無かった。もっとも、金に飽かして集めたオウムやインコの殆どは天寿を全うする事無く、幾許かの日数飼育された後、飽きてしまったネロによって殺され、食べられてしまったと伝えられている。
スエトニウスの「皇帝伝」の話から今でもよく母親に近親姦をされた例として引き合いに出される。また後半生の悪行は、親友オトの前妻で再婚相手の皇妃ポッパエア・サビーナによるものとする説も多い。
皇帝になった後、コロシアムで独唱会を行ったことがある。1度目は運悪く地震で観客は皆逃げてしまった。2度目は出入り口に人員を配置して逃げられないようにした。しかし、あまりの退屈さに逃げる者が続出。出入り口が使えない為、塀をよじ登ったり死んだ振りをして棺桶で外に運び出された者も居たと言う。更には例外無く外に出ることを禁じたため、産気づき出産した女性も数人いたと伝えられる(ちなみに、親友の一人であったウェスパシアヌスはネロの演奏中に退屈のあまり眠ってしまい、これが原因で絶交してしまう)。
ジャン・ラシーヌ
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ジャン・ラシーヌジャン・バプティスト・ラシーヌ(Jean Baptiste Racine,1639年12月21日誕生、12月22日受洗 - 1699年4月21日没)は、17世紀フランスの劇作家で、フランス古典主義を代表する悲劇作家である。
シャンパーニュ地方出身。幼少時に両親を亡くし、ジャンセニスムの影響下にある修道院の付属学校で、厳格なカトリック教育を受ける。ラシーヌはこの学校で古典文学に対する教養と、ジャンセニスムの世界観を身につけた。このことは後のラシーヌの作品に深い影響を及ぼした。
その悲劇作品のほとんどは、三一致の法則を厳格に守り、主にギリシア神話、古代ローマの史実に題材をとる。『旧約聖書』に題材をとるものを、ラシーヌは悲劇とせず史劇と呼んだ。
ラシーヌは均整の取れた人物描写と劇的な筋の構成を、アレクサンドラン詩行と呼ばれるイアンボス6詩脚の丹精で華麗な韻文に綴った。後期の『聖書』を題材とする作品を除けば、ラシーヌの劇は、二人の若い恋人を中心とするものが多い。二人は愛し合っているが、女性が王など高位の男性に望まれる、あるいは二人が敵対しあう家系にいるなどして、恋愛は成就しない。この葛藤がラシーヌの悲劇の中心となる。これに第三者の嫉妬、政治闘争などが加わり筋が複雑になり、最終的に二人の恋は成就せず、主人公の死をもって幕が下りる。
またラシーヌは自身の作品を印刷に付し刊行する際、必ず書き下ろしの序文をつける習慣があった。このためラシーヌの作品は、たんに悲劇としての価値のみならず、演劇論としての価値をももつ。ラシーヌの詩論のなかではオスマン帝国の皇位継承争いを題材にする『バジャゼ』につけた序文での「悲劇の題材は観客から適切な隔たりをもつものでなければならない。この隔たりは神話や古い歴史のような時間的な隔たりだけでなく、時間的にはあまり遠くないがわれわれの風俗になじみのない距離的な隔たりであってもよい」とするものなどが知られる。
ラシーヌの代表作として今日もなお上演されるものには『アンドロマック』、『ベレニス』、『フェードル』などがある。
作品
括弧内は順に原題、形式、初演年を示す。
『ラ・テバイード 又は 兄弟は敵同士』(La Thébaïde ou les frères ennemis , 5幕悲劇、 1664年)
『アレクサンドル大王』(Alexandre le Grand, 5幕悲劇、 1665年)
『アンドロマック』( Andromaque, 5幕悲劇、1667年)
『訴訟狂』(Les Plaideurs, 3幕喜劇 1668年)
『ブリタニキュス』( Britannicus, 5幕悲劇、1669年)
『ベレニス』( Bérénice, 5幕悲劇、1670年)
『バジャゼ』( Bajazet, 5幕悲劇、1672年)
『ミトリダート』( Mithridate, 5幕悲劇、1673年)
『イフィジェニー』(Iphigénie , 5幕悲劇、1674年)
『フェードル』( Phèdre, 5幕悲劇、1677年)
『エステル』(Esther, 3幕史劇、1689年)
『アタリー』(Athalie, 4幕史劇、 1691年)