† ジャック・デリダ †

ジャック・デリダの代表作『グラマトロジーについて』の世界

グラマトロジーについて 上グラマトロジーについて 上
(1996/12)
ジャック・デリダ

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グラマトロジーについて 下グラマトロジーについて 下
(1996/12)
ジャック・デリダ

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【現前の形而上学」の原=暴力】

「<意味するもの>の外面性はエクリチュール一般の外面性であって、我々はもっと先でエクリチュール以前には言語記号は存在しないということを示そうと思う」上p37

「自然的エクリチュールは直接に声と息に結び付けられる。その性質はグラマトロジック(文字学的)ではなく、プネマトロジック(霊気学的)である。それは宗教的なものであって『信仰告白』の神的な内部の声の、また自己に還帰することによって人々が聞く声の、すぐ近くに存在する。つまり、我々の内的感情に対する神のパロールの充溢的で真実の現前のすぐ近くに存在する」上p42



序盤では「世界は一冊の書物である」といったデカルトなどが引用されているが、本書の骨格は「起源の代補性」である。デリダが「言語の起源」に迫っていく上で獲得したこの概念は、「言語」というテマティスムを越えて幅広く適応可能と思われる――特にジェンダーによる性差の男性中心主義的な配置という「暴力」に抗する場合。

「人間という概念の統一性を解体すること。それは疑いもなく、いわゆる<エクリチュールなき民族>、<歴史なき民族>といった古ぼけた観念を棄て去ることである」上p174



デリダは、イースター島のエクリチュールが絵画=表意=表音書法的であったことに注目している。「多義性と重層的決定が隠喩を生み出すこともあり」、この古代文明においては「真のrhetorique graphique(表記法的修辞学)」とでもいうべきものが見出された。これは下巻で概念化される「言語の起源は代補である」、或いは「原―痕跡」そのものであり、「差延運動」であるといった主張を先取っている。イースター島では、まさに本書の「言語の起源=代補性」が具体化していたのである。
例えば、今ここにある言語学者が登場し、「言語の起源は音声であった」と位置付けたとせよ。これを、デリダは「音声が現前している」と解釈する。

「現前のモチーフは、音声=ロゴス中心主義の開始とその哲学的完成との間で、決定的な仕方で分節された」上p204



このテクストはさり気ないが「代補性」を思想的に今後応用したい読者にとっては極めて重要である。「現前のモチーフ」とは、この場合「音声」を意味している。だが、デリダは「音声」であれ、「エクリチュール」であれ、「身振り」であれ、起源を何か一つの「領土性」に帰属させてしまうことを「現前のモチーフ」と呼んでいると解釈した方が、応用可能性は広がる。すなわち、起源に人間側で勝手に意味賦与を遂行する思想系列全体を、デリダは批判しているのだ。したがって、音声中心主義が即座に「ロゴス中心主義」を意味しない。ロゴス中心主義とは、意味の策定に「暴力」が働いている系列を指示するのである。
例えば、「メンズファッション誌は女性が読むものではない」というルールを厳格に敷いている小社会があると仮定せよ。この社会では、女性は女性らしい洋服しか着衣できなくなるであろう。その時、男性の洋服にこそ真の魅力を見出した女性は、まさに「周縁」として排斥されてしまうことになる。この小社会のルールにおける最初の意味賦与こそが、デリダのいう「現前の形而上学」に他ならない。

「神は、絶対的に純粋で絶対的に自己現前的である自己についての知を可能にするものの名称である」上p204


「神は」から始まるセンテンスは本書でここだけである。神とは、「絶対的に現前するもの」(換言すれば、絶対的なルールを持っている存在、ないしそのルールを強制する存在)である。したがって、「神」に基礎を置く全ての形而上学的体系は、それがどれほど感銘を与える書であろうが、「現前の形而上学」になるのであり、これこそがデリダのいう「ヨーロッパの知のエピステーメーの閉域」なのである。
「デリダの死」以後を生きる我々が、仮に神学を学習する場合、この点を忘却してはならない。神学には初めから「絶対的な自己現前者(絶対的ルールの裁判官)」が存在している。そしてデリダが一貫して抗うのは、この「現前の体系」である。「~は正しい」、「~は禁止されている」といった意味賦与は、そのルールが妥当する組織内部でのみ「真理」である。つまり、そのルールが現前している社会にのみ許されたルールに過ぎない。
「間=化」や、「差延」、「原―痕跡」は、全てこの「現前する意味の暴力性」から逃走するための、いわば「抜け道」であり、「隠れ処」である。デリダ的思考スタイルが常にどの書を読む場合でも活きてくるのは、まさにこの点なのである。本書は単に「言語の起源」とは何かを究明しただけの書ではない。「言語」とはデリダが有する壮大なテマティスムのほんの一例に過ぎない。

「存在の意味はけしてその現前という規定の外では歴史として生み出されないがゆえに、存在の意味はいつも既に現前の時代としての形而上学の歴史の中に囚われていたのではあるまいか。このことは、おそらくニーチェが書きたかったことであり、ハイデッガー的読解とは衝突する点である。自己の能動的運動における差延作用――能動性は差延作用の概念の中に含まれているが、差延作用の概念が能動性に尽きるものではない――は、たんに形而上学に先立つだけでなく、存在の思惟をも溢れ出るものなのだ。存在の思惟とは形而上学以外の何ものでもない。たとえそれが形而上学を乗り越え、形而上学を閉域における自己自身として思惟するとしても、である」下p5


デリダはニーチェを無論高く評価しているが、ハイデッガーに対しては極めて複雑な心情を持っていたと考えられる(ユダヤ系のデリダに対し、ハイデッガーは一時的であれナチスに入党した政治的履歴を有する)。おそらく、ハイデッガーという「存在論的帝国主義者」を最も卓抜した視点で解体してみせたのは、私が知っている限りデリダとブルデューをおいて他にいない。
彼はここで「現前の形而上学」を、明らかに「存在論」と等号で結んでいる。存在論は、私がハイデッガー全集を洗礼前に集中読解していた経験から申し上げれば、「神学」においてアクィーノの聖トマスが「神の六つの属性」として規定したものの一つである「有」を、「神」に換言した体系である。『哲学への寄与』における、全ての事物から「存在」が奪去されつつあるという表明は、とりもなおさず「神」を全ての人間が忘却し始めているということと相関的である。ハイデッガーの修士論文は、私の記憶している限りドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」についての考察であった。
ハイデッガーとは、いわば「迷妄の時代」における巨大なる危険な「入口」である。私が洗礼前まで彼を読解していた体験は、キリスト教神学とハイデッガーの基礎存在論の著しい相同性についての一つの生きた例になるであろう。
デリダがハイデッガーに言及し、彼を「現前の哲学」の権化と規定している限り、キリスト教神学もそうであることは論理的必然である。

「もしテクストがそれ自身の諸根源のある再現前化(表象=代理)を常に有しているとすれば、それはこれらの根源がこの再現前化によってしか生きないということであって、けして地盤に触れることはないということである。このことは確かにそれらの根源的本質を破壊するが、それらの根を張る機能の必然性を破壊するわけではない」上p208


デリダの「差延」が、クリステヴァの「間テクスト」を包含した概念であることは今更いうまでもない。
本書で依拠されているルソーに影響を与えたヴィーコについては、以下のように述べられている。

「ヴィーコはその時、エクリチュールとパロールとの起源の同時性を信じていた唯一の者ではないにせよ、稀な者の一人である。“哲学者たちは、まずラングが生まれ、後からエクリチュールが生まれたと信じてきたが、それは誤りである。それらは双生児であり、並行的に進展したのである”(ヴィーコ『新科学』)、カッシーラーは、ルソーがヴィーコの言語理論を『起源論』において“取り上げなおした”とはっきり断言している」p218註釈(5)


この註釈は本書全体においても重要である。何故なら、「差延」の概念を前景化した系譜としては、デリダ←ルソー←ヴィーコというように遡行できるからである。デリダの「代補」を、ヴィーコは「双生児」などと表現していたと考えられる。
いよいよ興味深いのは、ナンビクワラ族における「固有名の禁止」の問題である。

「“固有名詞の使用は彼らのもとでは禁止されている”とレヴィ=ストロースは記している。…固有名詞は、独自的存在の現前にあてられる独自的呼称としては、抹消符号の下における透明で現前的な可読性という神話でしかなかったからである。…“人はけして名付けることはしない。人は他者をクラス分けしている…か、或いは自分自身をクラス分けしている”(レヴィ=ストロース)」

「名前はアイデンティフィケーションの表徴であり、これは名付けられる個人の、予め定められたクラス(諸集団の体系における一つの社会集団、諸格位の体系における一つの生来的格位)への所属を規則の適用によって確認する。もう一つの場合、名前は名付ける個人の自由な創造であり、この個人は自分がどのように人を名付けるかということによって彼自身の主体性の暫定的状態を表明する」レヴィ=ストロース p238註釈(1)



「固有名」は何故禁止されるのか? この問題の考究は極めて重要で感動的でさえある。

「実際、名付けるという第一の暴力が存在したのである。名付けること、場合によっては口に出すのが禁じられるであろうような名前を与えること、これがランガージュの根源的暴力であって、これは差異の中に絶対的な呼びかけ符号を書き込み、それをクラス分けし、宙吊りにする。独自的なものを体系の中で思惟すること、それを体系に刻み込むこと。これが原―エクリチュールの所作である。つまり、原=暴力であり、固有なるものの、絶対的近接性の、<自己への現前>の喪失であって、実際、けして生じなかったものの喪失、けして与えられはしなかったが夢見られ、いつも既に二重化され繰り返され、自己自身の消失においてしか出現することのできなかった一つの<自己への現前>の喪失なのだ。この原=暴力は、第二の暴力によって禁止されており、それゆえ確認されている。第二の暴力は修復的、防御的なものであり、モラルを設定し、エクリチュールの隠蔽を命じ、そしてまた既に固有なものを引き裂いていたいわゆる固有名詞の抹消と抹殺とを命ずる。原=暴力から第三の暴力が、悪、諍い(戦い)、無遠慮、強姦などと呼ばれるものの中に、場合によって出現したり出現しなかったりする(経験的可能性)」上p227



私はこのテクストが西洋の一人の男から書かれたという真実に、ひとつの敬意と感動を覚える。西洋思想はこれまで多くの民族の文化、慣習を根絶やしにし、その上に自身の思想をプラントしてきた――その「邪悪なもの」に西洋思想それ自身がようやく気付いた、これはその瞬間に他ならない。
異邦人の文化に恣意的な意味賦与を遂行するということ(例えば我々と同じ宗教的アイデンティティを持つダンテは『地獄篇』の中で地獄の住居をイスラム教の寺院として描いている)――これをデリダは「原=暴力」と呼ぶ。
例えば、教室で「幽霊」という悪いニックネームで呼ばれている少年がいるとせよ。彼はそう呼ばれたくはない。だが登校すればその「名付け」が待ち望んでいる。これは少年の現存在にとって深甚な意味を持っている。西洋文明の暴力の縮図は、こうした光景に既に反映されている。
西洋人とはいえ、著者はアルジェリア生まれのユダヤ系フランス人なので、こうした「暴力を受けている存在」の側から分析するというスタイルに、既に彼の「砂漠の思想」を見出すことも可能であろう。私がデリダに(彼以外の書き手にほとんど興味を喪失するほどの)敬愛を抱くのは、彼が常に“砂漠を放浪しながら=苦悩を携えながら”書いているように感じられるからである。

ソシュールは音声に優位を与え、エクリチュールを排除する。

「それは表音文字のモデルに、つまり表記法の排除をより容易にし、より正当化するモデルに、特権を与える甚だしき民族中心主義である。だが、この民族中心主義は、逆に自分は反=民族中心主義だと思いなしているのであって、解放的進歩主義の意識における民族中心主義なのだ。実際、ラングからはっきりとエクリチュールを切り離し、それを下位、外部に置き、或いは少なくともそうし得ると信じ込み、言語学をあらゆる書かれた証言から解放するという幻想を抱きつつ、人々は、にも関わらず自ら<エクリチュールなき民族>と呼び続けている民族が用いているあらゆるラングにその本来的ラングの格位を、つまり人間的で充溢的に意味するランガージュという格位を、取り戻してやるのだと思っている。同じような曖昧さがレヴィ=ストロースの意図にも影響を及ぼしているが、これは偶然ではない」上p244


こうして読むと、デリダの本書での最大の「敵」は音声に優位を与えた「主犯格」であるソシュールその人である。デリダはこの「言語的次元における民族中心主義(音声中心主義)」に対して、何処か「ユダヤ的怨念」を感じているかのようだ。

「強引にパロールとエクリチュールとを切断する伝統的で基本的な民族中心主義は、それゆえ反=民族中心主義として取り扱われ、思惟されている。…つまり人間による人間の搾取は西欧型<書く文化>に由来する事実であるという訳だ。無垢で抑圧的でないパロールの共同体は、このような弾劾からは免れている」上p246


obs ervando
by observando

ルソーが「恋愛」に言語の起源を見出していた点について、デリダは以下のように述べている。

「憐れみの情。この根本的感情は自己愛と同じように原初的であり、我々を自然的に自ずと他者に、つまり人間は勿論のこと、またあらゆる生き物にも結び付ける」上p215


言語以前に、我々に近しい類人猿たちは絶え間ない戦いのさ中で家族を失い、その「遺族」として「泣く」ことをしたはずである。その抑え切れない悲哀は、「表現」へと溢れ出ていく。

【言語の起源は「代補」としての「恋愛」である】

言語の起源はパロールか、エクリチュールか、それとも身振りか? 

「ある器官を他のもので代替する能力、時間と空間、視覚と声、手と精神、とを分節する能力こそが、またこの代補性の能力こそが、諸言語の真の<起源>――すなわち非=起源――、つまり自然と約束、自然とそのあらゆる他者、どの分節化としての分節化一般なのである」下巻p191



どれが最初であるともいえない。デリダの解答は「代補性」そのものである。声や身振りが起源であるとか、エクリチュールは後天的であるとか、そういった「策定」は権力を産出する。三つは交叉配列的に癒合して起源なのであり、「~が起源である」という「一つの領土」を位置づけることはできない。この声が文字によって代理され、文字が身振りによって代理され、更に身振りが声によって代理されるという名状し難い螺旋構造が、デリダのいう「言語の起源」、すなわち「代補」と規定できる。

「またもしその器官が欠けているならば、他の器官を同じ目的のために使うようになるだろう」ルソー p192


ルソーは声、身振り、文字の起源に「恋愛」を見出している。

「恋愛がデッサンの創始者だといわれている。それはまたパロールを創り出したかもしれなかったが、余り悦ばしいことでもなかった。恋愛はパロールにほとんど満足せず、それを軽蔑する。恋愛にはもっと生き生きとした表現方法があるのだ。あれほどの悦びをもって自分の恋人の影をなぞった女性は、何と多くのことを彼に語っていたことだろう。この棒の動きを表現するためには、彼女はどんな音を使えば良かったというのだろうか」ルソー p179

「問題なのは最も自然的なものに向かっての代補的還帰であって、言語の起源ではない。…愛の沈黙のランガージュは、前=言語的な身振りではない。それは無言の雄弁なのだ」p182



デリダが満足しそうな「言語の起源」に位置するものをあえて一つ、強制的にあげるとすれば、それはルソーがいうように「恋愛」をおいて他にあるまい。愛しくて堪らない相手に想いを伝えるために、我々が聴覚を奪取されている場合、必死で身振りや文字を多用するであろう。全身全霊で想念を伝達しようという企て、この感性的な雷撃は、「言語の起源」に位置しているテーマである。ヨハネのいう「はじめに言葉があった」の言葉とはエクリチュールでも、パロールでも、身振りでもない、或いはその全てでもあった、一つの「恋愛」の究極形態であったと策定できる。

「棒の動きは、可視的なあらゆるディスクールに満ちているが、いかなるディスクールもそれを再現すると必ずそれを貧弱にし、歪めてしまう。書かれた記号は身体には不在であるが、この不在は、身体の摂食と運動を模倣することのできぬパロールという不可視的な大気の境位の中に、既に予告されていた。…身振りは、パロールに先立たぬ場合には、パロールを代補し、その欠陥を訂正し、その欠如を埋めるのである。棒の動きはあらゆるディスクールを代補するが、距離がもっとずっと遠い場合にはディスクールが棒の代わりをするであろう。…より自然的でより表情豊かな視覚的身振りは、それ自身身振りの代替物であるパロールに一つの代補として付加されることができる。この代補性の書法が諸言語の起源である」p180

「彼らは声の抑揚を増やし、それに身振りを付け加えた。身振りはその本性上いっそう表現的であって、その意味はそれ以前の決定に依存することがいっそう少ない」ルソー p180

「身振りは、距離と空間化、ある可視性の環境を前提する以上、疎隔や媒介の過剰が可視性を妨害する場合には有効であることをやめる。その時、パロールが身振りを代補する。言語活動においては全てが代替物であり、この代替物の概念は自然と文化との対立に先立つ。代補は自然的でもあり得る――身振り――し、また人工的でもあり得る――パロール――のだ」p181



言語の起源が差延運動としての代補である以上、「はじめに歌があった」、「はじめに詩があった」、「はじめに言葉があった」、「はじめに愛し合う行為があった」――これらは全てその意味を失効する。どれか一つに起源を策定することは主体の意味賦与作用に過ぎないからである。歌は何らかの相思相愛の情念を代補しているし、その愛は何らかの文字に来歴を持つ可能性もある。つまり、「起源」とは常に「仮説」に過ぎない。だからこそ、「世界の起源には一冊の本がある」といえるのである。その本の文字が、何らかの身振り、或いは声と交叉配列的な位相を持っていると認めた限りで。

「エクリチュールはパロールに先立ち、またその後に従う。それはパロールを包括する。…エクリチュールはパロールとその情念的起源が問題となる以前に、既に出現していたはずであった。棒の動きと象形文字は、最初の声を引き出す情念以前のある情念を表現していた。…エクリチュールはパロールの目覚めである」p187


ゆえに、世界の起源に一篇の詩が存在した、ということは正しい。何故なら、その詩は身振りの代補であり、その身振りは声の代補だからである。詩とは身振りにおいて表現され、身振りは歌においても表現されうる。これら三位一体の癒合した螺旋の核心に位置している一切の初源こそ、神話的な「恋愛」なのである。世界の初めに存在したのは、「恋愛」を代補している何らかの「言葉」である。イエスの到来を、神、世界、人間をめぐる一つの恋愛運動の主体として位置付けることができる。

「それは、の=代わり=にやって来る、あるいは挿入される。それが補足するのは、ある空隙を埋め合わせるが如くにである。それが代理をし、代わりになるのは、現前の先立つ欠如のせいである。補足し、代理するものとして、代補は一つの付加物であり、代わりとなる下級審である。それは代替物としてたんに現前の積極性に付加されるのではない。それはいかなる起伏対立をも生み出さず、その場合ある空隙の刻印によって構造の中に割り当てられている。あるところでは、あるものは記号と代理委任で補われて初めて自ずから満たされることができ、自らを実現することができる。記号は常に事物そのものの代補(代理)である」下巻p8



パロールとエクリチュールは「代補」的関係にあり、その起源は「差延」運動を生じさせる。

「エクリチュールの代補的脅威は、パロールの名の下に称揚されると思われているものに先立つのである。このときから、形而上学とは、代補をたんなる外在性、純粋な付加あるいは不在と規定することによって非―現前を排除するということである」下巻p50

「根源的差延作用は、構造としての代補である。…エクリチュールは痕跡一般の代表であり、痕跡そのものではない。痕跡そのものは存在しないのだ(実在するとは、一つの存在者、一つの現前的=存在者、ト・オンだということである)」下巻p51

「表現されえないもの、それは再現前化といわゆる根源的な現前との関連である。再現前化は、またdé-présentation(脱現前化)でもある。それは間=化の働きと結び付いている。…このような間は、ルソーが規定するような、芸術の根源によって命じられている。ここで相変わらず泰然自若としている一つの伝統に従って、ルソーは芸術の本質はミメーシスであると確信している」下巻p121

「絵画と歌とは、相互の差異がいかなるものであれ、複製である。内部と外部は共に複製を持つ。…彼がそれを称揚するのは複製としてだけであり、この複製は再現前化されるものに付加されるけれども、それに何ものも付加しない、つまりたんなる代役なのである。…ミメーシスと芸術とを代補として告発せざるをえず、また同時にそこに人間の幸運、情念の描写、生命無きものからの脱出を認めざるを得ないのである」下巻p121-122



現前している「私」は、先行する「他者」によって構成されている。これを芸術運動の核心としてデリダは規定している。

「芸術活動は記号を経由し、その効力は模倣を経由するとすれば、芸術は文化の体系の中でしか活動し得ないし、また芸術理論は一つの風俗理論でもある」下巻p127

「我々が心を動かされ、感動するのは、再現されるものによってであり再現するものによってではなく、描写されるものによってであり、描写によってではなく、また提示された内部によってであり、提示の外部によってではない。絵画においてさえ、再現はそれが一つの対象を模倣するのでなければ、更に言えばそれが一つの情念を描写するのでなければ生きてはおらず、人を感動させもしない。…芸術のモデルを写す版画は、それでもなお芸術のモデルである。芸術の根源が版画の可能性だとすれば、芸術の死は、また死としての芸術は、作品の誕生以来既に定められているのだ。生命の原理は、一度ならず死の原理と一つになる。…版画の役に立つ輪郭、自らを模倣する線は、あらゆる芸術に属し、空間の芸術にも持続の芸術にも、絵画にもまた音楽にも属している。それぞれにおいて、それは模倣の空間と空間の模倣を素描する」下巻p130-131




【世界の起源としての「原―痕跡」】


「世界の始まり」、「世界の果て」とは何であるのか? 

「いつそこで……は始まるのか。これは起源(根源)の問いである。ところで、起源つまり単純な起源は存在しないということ、また起源の問いは現前の形而上学と抱き合わせになっているということ、こういったことこそ疑いもなく痕跡についての省察が我々に教えるはずのものであろう」上巻p154

「痕跡とは何ものでもない。それは一つの存在者ではない。それは<とは何か>という問いを越えており、時としてはそれを可能にするものである」上巻p155



「痕跡」についはデリダは以下のように述べる。

「存在者以前に痕跡を考えねばならない。しかし、痕跡の運動は必然的に隠蔽されており、それは自身の隠蔽として生み出される。他者が自己自身をそのものとして告知する時、それは自身の蔽いの中に現れる。この定式化は性急にも神学的なものだと考えられるかもしれないが、そうではない。神学的なものは痕跡の全体的運動の特定の一契機である。…一つの<自然>を指し示すこともなしに、痕跡の無根拠化は常に生成している。実を言えば、無根拠な痕跡など存在しないのだ。痕跡は、無限に自己自身のdevenir-immotivé(無根拠化)である。ソシュールが語っていないことを、ソシュール的ランガージュで語らねばなるまい。つまり象徴も記号も存在せず、ただdevenir-signe du symbole(象徴の記号化)が存在するだけなのだ、と」上巻p99



痕跡は、根源の消失ではなく、根源の根源である。つまり、痕跡が到来することによって初めて根源が構成され始めるのである。痕跡が起源なのだ。痕跡は、例えば愛欲ゆえの歯型が我々の首筋に刻印されるような経験的刻印ではない。痕跡は常に時間軸を遡及する――その歯型が存在することによって初めて刻印した存在者が到来するのだ。「痕跡は根源の根源である」。
こうしたデリダ的痕跡は一般的な意味での痕跡ではない。彼は「アルシ・トラス(原―痕跡)」(或いはarchie-transcendantale/超越論的原型)と呼称する。痕跡から更に痕跡へと遡及していく運動は、「原―痕跡」という言葉それ自体を欺瞞の名のもとに追放する。正確にいえば、「原―痕跡」すら存在しないというのがデリダの本意である。存在しているのは「運動」であり、それは常に起源へと遡及していくものである。
聖書に登場する起源の場である「エデン」は、デリダ的な代補を空間的に応用すれば、起源の楽園ではない。エデンは第二の楽園に過ぎない。第一の楽園とは、おそらく「ノド」である。何故なら、ノドはエデンの後に現前するのだから。この時、ノドはエデンの痕跡である点で、「原―痕跡」に相当し、時間を遡及して「エデン」の前に仮設される。ノドとは第二のエデンにして、アダムの起源の土地である。同様の差延運動により、我々は「バベルの塔」を「エデン」に先立つモニュメントとして規定することも可能であろう。
より過激なことを述べることを赦されるならば、「カルワリオの丘」は、「エデン」の直前に位置している。何故なら、イエスの十字架上の昇天によって贖罪が行われ、人間の罪が失効した状態が「エデン」におけるイノセントなアダムとイブとして解釈できるからである。アダムとイヴは、イエスの後の人物なのである。リクワートも『アダムの家』で述べているが、「アダムの顔」と「イエスの顔」は同一である。これは一体、何の「痕跡」であろうか?
神学的にもイエスとは第二のアダムである、というが、この「第二」はイエスがアダムに先立つ証左である。サタンは傲慢のゆえに天空から失墜したのではない。そうではなく、失墜したことが彼の罪を後天的に位置付けるのである。神はサタンを無垢のまま失墜させ、その理由として「傲慢」を意味賦与する。我々が聖書を読む時の神話的な時系列は全て脱構築されねばならない。

「実際、痕跡は意味一般の絶対的根源である。ということは、また意味一般の絶対的根源は存在しないということでもある。痕跡とは差延作用であって、現れと意味作用とを開始する。それはあらゆる反復とイデア性の根源であり、生物を無生物一般の上に分節するが、それ自身イデア的でも実在的でも、叡智的でも感覚的でもなく、また透明な意味作用でも不透明なエネルギーでもない。形而上学のいかなる概念も、それを記述することはできない」上巻p128



I mperfectfiction
by observando

『死を与える』の序盤でも類似した思考の軌跡は窺えるが、ここで考えたいのはキリスト教の神のテマティスムである。我々ローマ・カトリックの信徒は世界の起源に愛を位置付け、その愛が神の異表現であることを認める。だが、この神は、キリスト教以前に存在した宗教システムの「痕跡」によって成立している。端的にユダヤ教であるが、そればかりではない。
例えば初期バジリカ聖堂の「バジリカ」とは、古代ローマにおける単なる「多目的施設」を意味している。古代ゲルマン信仰やローマの諸神信仰を「抑圧」することによってオルギアを体内化している点で、キリスト教は先行する宗教システムの「痕跡」である。

「痕跡が一つの絶対的過去を指し示すということは、それがある過去を思惟することを我々に強制するということであって、その過去は<変容された現前>というような形では、つまり<過ぎ去った=現在>としては、最早理解することができないのだ。ところで、過去は常に<過ぎ去った=現在>を意味してきたがゆえに、痕跡の中に保有される絶対的過去は、最早厳密には<過去>という名称に値しない。…」上巻p136-137


注意深く読めば、デリダはここでアウグスティヌスの矢的な直線的時間モデルを粉砕していることが判然とする。「痕跡の中に保有される絶対的過去は、最早厳密には<過去>という名称に値しない」ということは、「エデン」の園を起源の物語の場として位置付けることそれ自体を破壊する。

「現在、過去、未来という概念は、そして時間と歴史の概念においてその古典的明証性――時間一般という形而上学的概念――を前提する全てのものは、痕跡の構造を適切に記述することができない」上巻p136-137

「時空経験の根源、差異のこのエクリチュール、痕跡のこの織物によって、時空の差異は分節され、そのものとして一つの経験の(同一の固有の身体から出発した同一の体験の)統一の中に現れることができる」上巻p135



ナザレのイエスは、三時間前に磔刑に処されたばかりであり、我々はボルヘスが三日前に『伝奇集』を出版したばかりの時間系列に位置しているのである。

「ルソーのあらゆるテクストは根源の終りの始まり、最初の頽廃として記述している。…悪は善い根源に後から=到来するかのような具合になっている」下巻p113



こうした直線的時間のズレを、デリダはespacement(エスパスマン/休止、余白、句読法、間一般、等)と呼ぶ。エスパスマンの説明は、以下である。

「ロゴス(言葉)がまず刻跡であり、この刻跡が言語活動の登録手段だということは、確かにロゴスが創造的活動性、神的音声言語の連続的で充溢的な境位、などではないということである。しかし、そういったものから有限性の還帰、神の死などという新たな一契機を引き出すだけだとすれば、形而上学から一歩も外へ踏み出したことにはなるまい。解体すべきは、まさにこういった概念性、こういった問題設定である。それらは、自身が異議を唱える存在論=神学に属している。差延作用は、また有限性とも別物なのである。ソシュールによれば、パロールの受動性はまずそのラングへの関係である。受動性と差異との関係は、言語活動の根本的無意識と意味作用の根源を構成する間=化(espacement/エスパスマン/休止、余白、句読法、間一般、等)との関係から区別されない。“ラングは形式であって実体ではない”(ソシュール)がゆえに、逆説的ではあるが、パロールの能動性は常にそこから引き出すことができるし、またそうせざるをえない。…ここで我々はまさしく現象学の限界を通り抜けているのだから。間=化としての原=エクリチュールが、現前の現象学的経験においてそのものとして与えられていることはありえない。それは生きた現在の現前の中に、またあらゆる現前の一般的形式の中に、死せる時間を刻み込む」上巻p139



エスパスマンとは、時空の分節、時間の空間化、空間の時間化を意味するとされる。
本書でのデリダの分析はルソーに向けられ、「原―痕跡」、「差延」、「エスパスマン」などの重要概念は、基本的にルソーの『言語起源論』の綿密な読解から産出している。言語の起源へのアプローチにせよ、世界の起源にせよ、デリダには一貫した態度がある。

「<自然的なもの>は最初価値を認められ、ついで失格させられる。<本源的なもの>はまた、<より優れたもの>の中に保有されている<より劣ったもの>でもある。身振りの言語と声の言語、視覚と聴覚は同じように自然的なものなのである」下巻p177



彼は常に「~から…が始まった」という場合の、「~」に集中していく「権力」を解体しているのである。このデリダのスタイルは、私にはどこか権威的な父親の敷いたレールから、常にはみ出していく「少女」の逃走を髣髴とさせる。デリダが批判しているのは、形而上学的言説における、作者の無意識にまで染み込んでいるロゴス中心主義である。それは男性中心主義の系譜でもあり、自民族中心主義でもある





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