† 文学 †

ヨハネとサロメの系譜学ーーオスカー・ワイルド『サロメ』、あるいはジュリア・クリステヴァ『斬首の光景』


The Importance of Being Earnest and Other Plays (Penguin Classics)The Importance of Being Earnest and Other Plays (Penguin Classics)
(2001/02/27)
Oscar Wilde

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「私にヨカナーンの首をくださいまし」(サロメ)

何故これを読もうかと思ったのかというと、簡単にいえば私の洗礼名の方が登場するからである。
ヨアンネス・ホ・バプティステス、つまり洗礼者聖ヨハネさまだが、作中では「ヨカナーン」として登場する。

幾つかの読みが可能である。

○ 「月」

作中で「月」は重要な象徴を帯びて描かれている。
意味は「狂女」であろう。
終幕でサロメを照らすのも、赤々と不気味に燃える月だった。
また、「月」はヨカナーンの「肌」の「白さ」の象徴でもある。
つまり、二重の意味を持ってワイルドはこれを象徴化しているのだ。
不思議なことは、サロメとヨカナーンの対比において、ワイルドはヨカナーンの方に美的なレトリックを多用している点である。

○ 「神の不在/隠れたる神」

物語の背景には、神学的な概念も息づいている。
ヨカナーンは、冒頭でこの世界に「神はいない」と告げている。
他にも登場するユダヤ教学者たちが、口々にこれと似た発言をしている。

○ 「サロメ×ヨカナーン」のディコトミー関係

サロメは、ヨカナーンの言葉を使えば、「不倫」の女、「ソドム」の女、「罪」の女である。
対して、ヨカナーンは「聖人」である。
サロメはまず、彼の「不思議な声」に魅了される。
次に、サロメは彼の「白い肌」に耽溺する。
そして、最後にサロメは彼の「真っ赤な唇」を欲する。
このように、実はワイルドはヨカナーンを「女性的」に描き出していることは特筆に価する。
ヨカナーンの身体性に関する作中の説明の来歴には、おそらくレオナルドの絵があるだろう。
レオナルドの《洗礼者聖ヨハネ》も、ワイルドの劇と同じく「中性的」ないし「女性的」な青年として描かれている。
サロメの美しさよりも、青年の圧倒的な美しさを特に念入りに描写したことで、ワイルドは「荒野で苦行する厳しい顔付きの男」というイメージを、できるだけレオナルド的なベクトルへ接近させたのではなかろうか。

○ 「サロメの反復語法」

サロメは作中で、興味深い反復を繰り返す。

まず、彼女はヨカナーンに対して、合計七回「私はお前にkissをする」と告げている。
次に、サロメは父エロデと母エロディアスの前で、ほとんど同じ回数「ヨカナーンの首を」と告げている。
この印象的な反復は対比を成している。
サロメとは、初めは「聖人からのkiss」を純粋に希求する若い娘に過ぎない。
が、それをヨカナーンにあからさまに拒まれると、彼女は「月」の禍々しい意味を担い始める。
サロメがkissを欲する回数と、ヨカナーンの首がほしいと告げる回数は、ほぼ同じである。
つまり、名高いサロメの「ダンス」の時には、既に彼女は「愛する者を、愛するがゆえに、壊す」存在へと変貌しているのだ。

○ 「ヨカナーンの首へのkiss」

作品の最後で、kissは果たされる。
が、この時のヨカナーンは既に斬首されているので、サロメを見つめる力などない。
サロメはうっとりと美青年の首を抱き締め、唇に唇を重ねて愛の絆を交わそうとする。
このように、『サロメ』の根本的な重要概念は、「接吻」である。
「接吻」をコアにして読めば、前半は「愛を求める若い娘」、後半は「愛を拒まれた娘の復讐」、そしてラストでサロメが死者になった恋人にkissをすることで、この愛は最高形式に到達する。
最後にサロメはエロデの命令で殺されてしまうが、これはいわばkissの延長である。
つまり、作品はサロメの勝利ではなく、サロメの敗北をも描くことで、同じく死に沈んだヨカナーンとサロメが、「死」を共有する相思相愛の愛人同士にいたるまでを描いているのである。

ちなみに、ヨカナーンの唇の味は、「にがい恋の味」であると、サロメは最後に恍惚とした眼差しで告白している。


斬首の光景斬首の光景
(2005/01/24)
ジュリア・クリステヴァ、塚本 昌則 他

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さて、ヨハネの「斬首」については、ジュリア・クリステヴァが上記の本の中で少し言及している。

クリステヴァは、ヨハネの斬首が、イエズスの受難の「prefiguration(予兆)」であったと述べている。
彼女はヨハネの「首」について、以下のような驚嘆すべき見解を提出する。

「彼(アンドレア・ソラリオ)の描く斬られた頭部はすでにエクスターズ(法悦の境地)にある」(p116)



クリステヴァは、この本の表紙絵にもなっているソラリオの「洗礼者聖ヨハネの頭部のための習作」の根本概念を、このように「エクスタシー」として規定しているのだ――それも、サロメではなくヨハネの。
斬首を導く女性にだけ、エクスタシーが到来するのではなく、斬首「された」頭部が、実は斬首「した」方の恍惚を表情として表す――この強烈な官能性を帯びた逆説は一体何であろうか。

また、アルブレヒト・デューラーの「洗礼者聖ヨハネの斬首」については、「ほとんど恋に落ちているとでもいうようなサロメのまなざし」と述べているが、先述の論理に従えば、これは「ヨハネのまなざし」なのである。

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