† Twitter †

08/11のツイートまとめ

tomoichiro0001

例えば、人間同士だと「パイナップルのような頭の男が来た」と直喩的に捉えてしまいますが、他者(例えば動物や昆虫)の眼を把捉すると、「パイナップルがやって来た」と知覚する可能性もある。あらゆる人間中心主義を乗り越えたところにしか、メイヤスーの強調する「相関の罠」の出口はないでしょう。
08-11 21:10

より正確に言えば、ある種のポスト実存主義的な感覚が、メイヤスーの「復活」概念の背景に個人史的問題として存在している可能性もある。因みに、モートンはデリダの「来るべきもの」をSRの文脈で、生物/非生物の差異を越えた生きた「物」と概念的に等号で結んでいますが、これは極めて斬新な点。
08-11 21:06

メイヤスーは、⑴過去に悲愴な死を遂げた全ての人間と動物が「復活」する点と、⑵未だかつて存在しなかった来るべき神が、明日にでも⑴を実現する点、これを本気で信じているし、彼の理論で重要な「潜在性」の概念からこの2点を半ば跳躍的に導き出している。ここには強烈なニヒリズムがあります。
08-11 20:56

SRの文学的可能性を考える上で、ディドロの『ダランベールの夢』で言及されている「物活論」(生物/非生物の差異に関わりなく意識は宿る)の系譜は重要な問題だと思います。だからといって「百鬼夜行」的なオカルティズムに堕すと、従来の幻想文学への盲目的な回帰があるだけで、芸がない。
08-11 20:48

例えば「ポケットモンスター」や過去に流行った「たまごっち」で育てていた生き物が「死んだ」場合、それを現実において「弔う」(真に生きていた存在として扱い、埋葬する)という所作は、21世紀の物活論の可能性を考える上で示唆に富むとは思います。いわば、物との関係が更新されつつある。
08-11 16:15

SRの文学的な方法論の一つとして、ディドロやヘッケルが属する「物活論」(生物/非生物の差異に関わりなく全ての物質は意識を持つ)のテマティックが開かれていると思います。ただ、だからと言って百鬼夜行や黒澤清のホラー映画がSR的だった、という文脈は軽率だと思う。何が条件を満たすのか。
08-11 16:01

本当の意味でメイヤスーの「潜在性」の概念を文学化しようとすると、従来の幻想・怪奇文学が実は「潜勢力」(ライプニッツ的な可能世界をパロディ化したボルヘス「八岐の園」はこの象徴)に支配され、相関主義の陥穽に嵌っていることを認識しておかなければなりません。これをどう克服するか。
08-11 15:32

ティモシー・モートン、ユージン・サッカーの重要論稿を読了。SRの共通点を少しずつ炙り出し、文学への応用を考えています。重要なのは、何がまだ「新しい」かを見極めること。メイヤスーの見解を踏まえると、「怪物」や「奇跡」の現前は未だ自然法則を前提にしている点で、真のカオスではない。
08-11 15:24

関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next