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08/20のツイートまとめ

tomoichiro0001

ヴェルフリンによれば、全ての芸術的直観は常に何らかの認識論的「形式」に拘束される。絵画を「観る」とは、ある何らかの「形式」によって「観る」こと、すなわち「制度的な眼」を媒介にすることを意味する。同様に、あらゆる芸術作品は例外なく何らかの「様式」の枠内に帰属される。
08-20 22:46

ブルデューは文化的なlégitimité(正統性)を、「自然的差異として誤認されるに至った社会的差異、無根拠な根拠」として定義する。ノブレス・オブリーシュやナショナリズムは「正統化」された「ドクサ(臆見)」、すなわちortho-doxie(正統ドクサ)であり、本質的に幻想である。
08-20 22:41

ブルデューは『美術愛好』で「眼は文化的産物である」という定式を提示しているが、これは「視点が対象を創造する」というソシュールのテクストを敷衍したものである。同様の見解は、ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』結論部の認識論とも一致する。
08-20 22:36

modus operandi(作り出す方法)をハビトゥスとした場合、opus operatum(作り出された作品)とは行為者の諸特性、生活様式である。ハビトゥスが我々行為者の慣習行動を生み出す〈生成母胎〉=〈方法論〉であり、いわば行為者は〈ハビトゥスの作品〉という図式が成立する。
08-20 22:31

フランス語の有名な諺“Chassez le naturel, il reviendra au galop.”(本性を追い払ってみよ、すぐさま舞い戻ってくるであろう➡人の本性は容易に変えられない)は、「ハビトゥス」が「存在」にいかに決定的な影響を与えるかを如実に物語っている。
08-20 22:26

現代文学の通奏低音たる「書くことの不可能性」について、ド・マンはlinguistic predicament(言語的な苦境)と表現している。「ポール・ド・マン・ルネサンス」である現在、その思想的営為は、今後新しい文学の可能性を開く全ての書き手にとって豊穣な収穫を齎すだろう。
08-20 22:21

文化的に何が「正統的」であるかというこの問題は、常に〈界〉内でのclassement(分類=階級付け)の操作を通して行われる。「R・シュトラウスは世俗的だがバッハは正統的である」、「P・ハイスミスは大衆的だがH・ジェイムズは純文学的である」などの「印象/効果」はここから生まれる。
08-20 22:16

distinguerの過去分詞であるdistinguéが形容詞になると、「上品な、気品ある」という意味になる。différences(差異)、différenciation(差異化)、discrimination(差別)もdistinctionの概念的な射程範囲にある。
08-20 22:11

ブルデュー社会学の基礎概念であるdistinctionは「他者から自己を区別して〈際立たせる〉こと」を意味する。「区別、弁別、識別」、AとBの差異、その差異の認識である。これは元々、フランス語特有の代名動詞であるse distinguer(自分を他者と区別する)の名詞形である。
08-20 22:06

六つの特徴は「読書のスタイル」や「絵画の審美眼」などの「美的性向」においても共通するため、行為者の「ハビトゥス」を顕在化させる。goûtが「趣味」だけでなく「味覚」を意味するのはこのためである。生活上の必要性から最も距離を置く行為者はより「ゆとり」があり、貴族的である。
08-20 22:01



ブルデューは「文化貴族」の諸特徴を以下のような〈味覚〉のアナロジーによって説明する。⑴量より質⑵実質より形式⑶材料より調理法⑷栄養より盛りつけ⑸重くて脂っこい食べ物より軽くてあっさりした料理⑹気取らない無造作な食べ方よりマナーを重視する礼儀正しい食べ方
08-20 21:56

家庭環境を構成している全ての質の良い「文化的財」(objectivé〔客体化された〕文化資本)は、ただそこに存在するだけで教育的効果を及ぼすという事実を、ブルデューはアメリカの計量経済学者ケネス・ジョゼフ・アローを緩用して「全般化されたアロー効果」(ブルデュー)と表現する。
08-20 21:51

goût(趣味)は貴族的な「贅沢趣味」と庶民的な「必要趣味」に大別される。前者はオペラ、絵画鑑賞などの行為であり、「必要性」への度合いが低ければ低い行為ほど、より文化的なlégitimité(正統性)が高く、行為者の実質的な文化資本を反映した「美的性向」によって選択されている。
08-20 21:46

ド・マンはヘーゲルの言語論の通奏低音としての「私は私について何も言えない」、「私が思考する事柄について私は何も言えない」という言明を受けて、主著『読むことのアレゴリー』の冒頭にパスカルの「ゆっくり読んでも、早く読んでも、何も理解できない」というテクストを掲げている。
08-20 21:41

オリジナルな農地(テクスト)は存在しない。どのような「芽」も、現在の農地Aに先立つ別の農地Bから収穫されたものであり、Bから得られたsemence(種、精液)によって成立する。換言すれば、全ての書物aは先行する書物bとの間でdisséminante(散種的、分散的)な関係を持つ。
08-20 21:36

我々はいま一度、ド・マンがなぜこれ程「言語」が作り出す審美的な「衣裳」を剥離させ、骨格を露出させようとしているのかを考えてみる余地があるだろう。そこには、言語によって「歴史」が捏造されてきたという事実が間違いなく想定されている。
08-20 21:31

私小説の構造における主体として認定されてきた「わたし」なるものは、実は作品の言語的機制から物質的に構成されている「腹話術師に操られた人形」(ド・マン)に過ぎない。我々が「書く」行為の主体ではなく、むしろ言語によって我々自身が「書かれている」のである。
08-20 21:26

我々は言語によって、実際には特に感動もしなかった出来事を審美化し、書く前の「空虚」を意識的な「明察」の方へ、メランコリアから「回復」の方へ繋げることができる。これこそ、ルソー、ヘルダーリンらに通底する「ロマン主義のレトリック」による審美化のメカニズムに他ならない。
08-20 21:21

ベンヤミンが述べたように、「翻訳」は「原作」に先立つ。「原作」は、翻訳者の「解釈」を含む何らかの翻訳テクストによって後天的に我々の前に現前したものである。同様に、自叙伝/私小説は実体験を「翻訳」によって「意味賦与」する限りで、常に既にイリュージョンに他ならない。
08-20 21:16

fait(事実)がfaire(作る)の過去分詞の名詞化であるように、我々の過去についての知識も歴史学が「物語化(虚構化)」した「テクスト」に依存している。言語にはこうした「真実を〈拒む〉」という「不気味な力」が働いている。
08-20 21:11

フランス語のhistoireは「歴史」だけでなく、「物語」をも意味する。この単語が持つ通約不可能性は、「歴史」が「事実」でありながら「虚構」にも足を浸けていることを意味する。言い換えれば、歴史もまた虚構を招来せざるを得ないということを既に本質として孕んでいるのである。
08-20 21:06

タキトゥス『年代記』の名高い「ペルケンニウスの演説」では、兵士達は極めてリアリスティックに描写されるが、実はillustratio(劇化)された誇張法で彩られている。アウエルバッハはその文体の特徴を「雄大な修史の文体には誇張法が必要であり、それはたいてい虚構的なものだ」と述べる。
08-20 21:01

RT @dessinatrice001: 「最も特異的で、最も興味深く(逆説的ではあるが)ニーチェの要請に近い意味で、最も〈高貴な〉、そうしたle possible divin(神の可能性)とはどのようなものだろうか」クァンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」
08-20 14:27

救済された者を描くことで逆説的に作者自身が救済から遠ざかることがある以上、文学的なエクリチュールの運動それ自体を自己救済(毒素を吐き出す、解毒する)のプロセスとして捉える方がより正確でしょう。『カフカからカフカへ』の「僕には書くことしかない」は文学の成立根拠として読めます。
08-20 14:06

大江健三郎は文学体験を内的な「救済」の手段であると書いていましたが、おそらく今ここに注釈を加えるなら、それは宗教的な救済の単なる代理では全くないと思います。カヴァン、カフカ、ブランショにせよ彼らは救済など提示しない。救済を文学の機能にすると、文学の本質的な存在意義から逸脱する。
08-20 13:59

カヴァンの『氷』において世界を覆い尽くそうとする「氷」が彼女の「死」(それに伴う多種多様な感覚様態、例えば不安、虚無感)の隠喩であることは、作中で「私の感情があたかも外部に映し出されたかのような世界」というフレーズを幾度か反復している点からも正当化できるでしょう。
08-20 13:52

カフカとの比較において、ブランショの方が〈神の不在〉のテマティックをより濃密に描出しているのかもしれないという気配を感じ始めました。『城』にもこれに似た空気は流れていますが、こちらは資本主義における官僚的企業のアレゴリーでもあるので、ブランショの方が(反)神学的な戦略が強いのか。
08-20 13:46

作品は巨大な「家」を舞台にしており、トマには行けないフロアが存在します。バルブは一度だけ「上の階」に行ったそうですが、彼女曰くそこは「誰もおらず埃を被った空室しかない」。ブランショにはメイヤスーの「亡霊のジレンマ」における〈神の不在〉のテーマと通底する隠喩的な構造がありますね。
08-20 13:37

ブランショの『アミナダブ』後半に登場するバルブと主人公トマの対話が非常に謎めいていて緊張感で満ちています。この作品は様々な隠喩で構成されていて、「上の階」(おそらくキリスト教でいう天国、楽園、あるいは世界の彼岸)もその一つ。
08-20 13:30

昨日は《summer vacation》という掌編を執筆しました。
08-20 13:24

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