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W・G・ゼーバルトの世界

土星の環―イギリス行脚 (ゼーバルト・コレクション) (ゼーバルト・コレクション)土星の環―イギリス行脚 (ゼーバルト・コレクション) (ゼーバルト・コレクション)
(2007/08/01)
W.G.ゼーバルト

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ゼーバルト以後の現代文学についての諸構想

ゼーバルトは既に私の中で、三本指に入る極めて重大な作家として位置づけられて久しい。
だが、ゼーバルトが取り組んだ問題は、我々に重く圧し掛かっている。
まず、ゼーバルトがいうように、我々は「記憶」を大切にノートに記録しなければならない。
記憶の「忘却」とは暴力であり、書かれていない廃墟的な世界にまで足を踏み込まねばならない。
だが、このように述べたところで、私はゼーバルトについて何も語ったことにはなっていないことを承知している。

この作家の文体は、極めて廃墟的である。
それは、ボルタンスキーの初期の作品の提示方法と類似している。
ボルタンスキーは、自分の髪の毛や、シャツ、ノートの断片など、周囲で起きた全ての痕跡を作品として提示しようとしたが、ゼーバルトがこれほど表層的に、いちいちの年代や数知れない雑多な固有名詞に拘泥するのも、私にはどこか言語学的な次元で実践されている「廃墟趣味」のように感じられる。

彼はボルヘスを本作で引用している。
ゼーバルトがここでボルヘスの「トレーン」に特筆し、それを奇妙にも地の文に織り交ぜて癒合させながら引用していることにはおそらく深い意味がある。
ゼーバルトとボルヘスの関係については、いっそう考察されねばならない。
ボルヘスは、ゼーバルトと以下の二点で酷似する。

1:引用を多用する点
2:主体を消去する点



実は1と2は互いに交叉配列上で展開されるので、コインの表裏の如く同一である。
ゼーバルトは地理的な次元や歴史的な次元における典拠を重視する。
彼は「どこで」「いつ」「だれが」に徹底的に執着する。
極端にいえば、彼は「だれが」という主体の確実性を表現するために、それを「固有名詞」としてテクストに貼り付ける。
ボルヘスの文体の視覚的なインパクトと、ゼーバルトの文体の視覚的なインパクトは同一である。
双方は共に「引用」によって「主体」を不可能性の次元にまで止揚している。

だが、ボルヘスはゼーバルトほど「無意味」ではない。
ゼーバルトの感性は「無意味」という虚無に支配されている。
彼は書くが、それは痕跡を残すために仕方なく書くのである。
対してボルヘスは、明確なテーマを持った上で、徹底的に主体を消去する。
ゼーバルトを、もしもボルヘスが読むとすれば、彼はどのような見解を提示するだろうか?
まず、ボルヘスは写真というシステムをある種の前衛的な文学理論として理解するだろうか?

ゼーバルトが本書でトマス・ブラウンに何度も言及している背景には、ボルヘスがブラウンを尊敬していた、そして引用していた、という事実性が潜んでいるような気がしてならない。
いずれにせよ、ボルヘスは明確なテーマを押し出す。
対して、ゼーバルトはよりボルタンスキーに傾斜している。
すなわち、彼はほとんど「無意味」に「痕跡」を残す旅人なのだ。
どちらにも良さがあるが、私はボルヘスを支持する。
ゼーバルトの作品は何度も読み返す、孤独な小説になっているが、ボルヘスほど洗練されてはいない。

私は、文学とはテーマだと想っている。
テーマを重視すれば、必ず一人称ではなく三人称になるはずである。
三人称とは「他者」であり、すなわち「自己」である。
テーマを先鋭化させるためには、テーマの原型ともいえる「概念」を学ばねばならない。
概念は、多くの場合、神学書と哲学書に眠っている。
ボルヘスの「八岐の園」はライプニッツの『モナドロジー』を読んだあとに読み返すと、どれほど彼に依存しているかが判明する。
つまり、ボルヘスは「概念」を基にして、それを小説化する、ある種の装置であった。
ボルヘスの「書き方」なるものが仮にあるとすれば、それはこの絶え間ない反復である。
晩年のボルヘスの短編『砂の本』は、典拠を明示せずに引用を行う。
だが、それらには実はボルヘスが全盛期で引用していた多くの思想家のテクストの痕跡が潜んでいる。

ゼーバルトはむしろ風景画家だ。
フリードリヒのように「自然」を崇拝する画家ではなく、都市の寂しい塹壕を描く、廃墟の画家である。




アウステルリッツアウステルリッツ
(2003/07/25)
W・G・ゼーバルト

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「黄昏」のフラグメント

ゼーバルトは、断片的に読解されることで、かえって作家がその本質を表す稀有な書き手である。
今回はp122と123にのみ限定する。

自分がいかに独りであるか

街を夜な夜なさまよい歩く

夕闇が降りはじめると家を出て

ひたすら遠く遠くへと歩く

砂漠行の途上で

その不安はぼんやりとしたものから

しだいに強烈になっていき

真っ暗な奈落の中へ自分はどうしても身を躍らせなくてはならない



これらのテクストの「組み合わせ」は、122、123pからの配列である。
本書の雰囲気をよく表現している。

正直、この作品にストーリー性などない。
起承転結はない。
筋書きもない。
ただ、アウステルリッツが、ひたすら夕闇の中で静かな回想をするだけである。
だが、それが翻って、読み手に巨大な「癒し」を与えるのだ。
この作品は、ゼーバルトの短編集『移民たち』と並んで、素晴らしいほどに「孤独」という十字架を背負う全ての現代人に「癒し」をもたらす。
そういう点で、大江健三郎の後期の仕事とテーマは似ている。
無論、文体はプルースト的な「時間」の概念に支配されているが、本質はそこではない。
つまり、ゼーバルトの本質は「時間」ではない。
彼が描いているのは、徹頭徹尾「孤独」の巨大さと、それを「書く」ことで解放しようとする「癒し」への意志である。
ゼーバルトほど、「黄昏」とか「薄闇」などという描写に長けている作家もいない。
まるで文体それ自体が、登場人物であるかのような「苦痛」を感じるのだ。
だが、その「苦痛」は、カルワリオを孤独に上られた主と似た感覚をもたらすものであって、逆説的に「救い」になるのである。
ゼーバルトの「孤独」は、孤独な読み手(書くのも読むのも苦手で、最早自己表現の行き場を失った現代人)に、最後の「光」を静かに降らせる。

別の観点から――つまり、「絵本」から。
実は、本書は「絵本」でもある。
というのは、「挿絵」が複数挿入されているから。
が、この「挿絵」は「セピア色の写真」であり、たいていが「廃墟」の姿を把捉している。
そして、ゼーバルトの「絵本性」は、「孤独者」に捧げられているものである。
これは「読む」というよりも、「感じる」本である。
描かれているのは、世界を真面目に生きようとしている、しかし「不安」に苛まれて自我の崩壊と対峙する、歪な笑顔でしか微笑むことのできない人間たちである。
「ドイツ」であることと、関係はあるのだろうか?
「フランス」文学で、これに近しい雰囲気はない気がする。
むしろ、これはドイツらしさともいうべき、何か極めて内向的で閉鎖的ですらある孤独感がにじみ出ている。
ハイデガーの『形而上学入門』を読んでいる時、実はゼーバルトの香りを少し感じたことは偶然ではない。




移民たち (ゼーバルト・コレクション) 移民たち (ゼーバルト・コレクション)
W・G・ゼーバルト (2005/09/30)
白水社

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W・G・ゼーバルトにとって、廃墟とは何か?
刊行されつつある彼の作品に流れているメロディーは、全て、ある共通した基層を持っている。
ゼーバルトの文体は、廃墟の中に無造作に転がっている事物のようだ。
それらは実在しているが、あくまで記号的かつ表皮的である。
文体の奥に、「ユダヤ墓地」が見え隠れする。
それが最高度に静謐に、しかもレクイエム的に描かれているのが、本書最後の短篇「マックス・アウラッハ」だ。

ゼーバルトは、現代のドイツの都市に、かつての戦争の痕跡を見出している。
ゼーバルトは、喪に服した状態で、エクリチュールを開始する。
彼は、直接的に、何かの「思想」を主張しない。
彼が常に特異で、衝撃的であるのは、彼が「事物・風景に意識を仮設させる」点である。
例えば、「アンブロース・アーデルヴァルト」のラストで描かれる、「二十一世紀のエルサレム」の風景。
そこはハイブリット化した宗教的坩堝であり、片隅に生皮が悪臭を放つ屠殺場を持つ白い街であり、頽廃的で終末的な世界である。
ゼーバルトは、おそらく、第二次世界大戦で「宗教」が果たすべきであった役割を、この作品で間接的に糾弾している。
エルサレムの街の生々しい風景を、これほど細密に語らせることには、作家のある強いメッセージが隠されているとしか考えられないからである。
ゼーバルトは、聖性を喪失している。
否、そうではなく、聖性を喪失した世界の葬儀に、参列し続けているのである。
彼の批判的対象は、あくまで自己満足的な平和に与ろうとする、現代のカトリック教会でもあるだろう。(「パウル・ベライター」参照)

ショアーに対する、つまり、消尽されてしまったユダヤ人たちに対する、現代ドイツ人作家としての、自責の念。
それは、ゼーバルトに、「世界の果て」のような廃墟の徘徊を強いている。
そして、彼は希望を失う瀬戸際で、廃墟の深奥で、夕陽に向けて祈り始めるのだ。
これは青年が、自分を青年から超克するために読むべき、真の文学であり、巨大な墓碑である。
いかなる小説にも比類しない、巨躯な「夕闇」に対峙する現代人の、痛切な姿が描かれている。
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