† 文芸理論 †

ミッシェル・カルージュ『独身者の機械――未来のイヴ、さえも……』/デュシャンとカフカの機械における「近代の心性」

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 原著の初版は1954年。20世紀後半の性愛―機械論である。最初にミッシェル・カルージュのプロフィールについて若干述べておくと、彼はフランス人文芸評論家であり、SF作家である。本書は1950年代のフランス文芸批評を背景にして書かれており、75年には「独身者の機械」展も催されている。東大大学院教授の田中純氏が『都市の詩学』のアルド・ロッシ論や、『建築のエロティシズム』のウィトゲンシュタインの建築について論じる際に、たびたび慣用している概念としても「独身者の機械」は注目される。また、美学・現代思想系統の研究者のTwitterでも最近たびたび話題になっていた書でもある。
 そもそも、「独身者の機械」とは何か? 私が読解した上でその概念について語っているテクストをまとめると、以下のようになる。

【Les machines célibataires(独身者の機械)の定義】

「独身者の機械のドラマは、まったく一人で生きている人間のドラマではなく、限りなく異性に近付こうとしながらも真に交わることのできないでいる人間のそれなのだ。潔癖な貞潔が問題なのではない。逆だ。重なり合い上り詰めているのに、いっこうに融け合うことができないでいる二つのエロティックな激情の葛藤こそが問題なのだ」(*1)


・機械と人間の孤独、あるいは本質的な交わりをテーマにする。
・芸術的な系譜としては、カフカ、ルーセル、ロートレアモン、ポー、ジャリ、ヴェルヌ、アポリネール、リラダン、イレーヌ・イレレルランジェ、カサーレス……などの作家がこの機械を作動させている。いわば彼らはカルージュからするとcélibat(独身者)なのであり、そのような策定を試みるに当たって規準となる l'élément célibat(独身者の要素)が存在するということである。
・基本的には、マシニスム(機械文明)の恐怖に支配された王国(国家)が舞台になることが多い。

「独身者の機械の文学的系譜」

・カフカ『流刑地にて』『変身』
・ロートレアモン『マルドロールの歌』
・ポー『陥穽と振り子』『黄金虫』 
・アポリネール『虐殺された詩人』
・ヴェルヌ『カルパチアの城』
・リラダン『未來のイヴ』
・ピエール・カバンヌ『デュシャンは語る』
・ルーセル『ロクス・ソルス』『アフリカの印象』
・ジャリ『超男性』『フォーストロール博士言行録』『昼と夜』
・イレレルランジェ『万華鏡の旅』
・カサーレス『モレルの発明』


【独身者の機械の生成プロセス】

 この概念は、カルージュがカフカの『変身』のザムザ=昆虫のイメージと、デュシャンの《大ガラス》の最上部に吊り下げられている昆虫の抜け殻に、何か相関項が存在するのではないかという作家的な「直観」から錬成された装置である。いわばこの二つの作品が、カルージュの思考に化学反応を生じさせた結果、生み出されたのがLes machines célibataires(独身者の機械)である。カフカとデュシャンの奇妙な一致点は他にも存在する。例えば、『流刑地にて』に登場する「処刑機械」は《大ガラス》と構造的に類似しているとされる。以下に、カルージュの解釈を踏まえて両者の「機械」について説明しておく。

(1)「デュシャン――《La mariée mise à nu par ses célibataires, même (Le grand verre》(彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも )」(1915年〜23年)

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 今日、《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも 》という名のデュシャンの作品には《大ガラス》と、《グリーン・ボックス》という二つの同名作品が存在する。《グリーン・ボックス》はデュシャン自身の制作中のメモ、図面などを収めたカタログとしての作品である。《大ガラス》は1912年にアイディアが胚胎し、15年から23年まで制作されたが、作品の裏には「未完成」と記されている。
 この作品(機械)は上部と下部でまず分けられている。下部に存在しているのは「独身者たち」の群れだ。下部はそれゆえに「独身者の機械」と呼ばれる。上部には「銀河」と呼ばれる「毛虫の抜け殻」が存在しており、その傍には「花嫁の骸骨」とか、「雌の縊死体」と呼ばれる形象が存在する。まず興味深いのは、「銀河」が「毛虫」として表現されている点であり、これは宇宙そのものが昆虫のように「脱皮」を繰り返して変身していくことを記号と対象によって表現していると考えられる。また、「花嫁」と「独身者たち」の間には世界そのものの根深い断絶が横たわっており、独身者たちは花嫁を仰ぎ見ることしかできない。いわば彼女は聖なる存在である。しかしながら、彼女は「骸骨」であり、「縊死体」である。そして、彼女は「銀河」の傍に存在している。この配置は、いわば花嫁が、死によって銀河に寝かされるという詩的で超越的なイメージを連鎖させていく。花嫁は、異性を待ち望む「独身者」たちにとってはまぎれもなくエロティシズムの対象であるが、彼女は既に死者なのだ。そして、銀河に横たわった死者としての彼女が、いわば高み(上部)から独身者の機械(下部)に「何か」を伝えようとしている(カルージュはこれを「高所の掲示機能」と表現する)――このような構造的背景を、デュシャンの《大ガラス》は秘めていると解釈される。
 もともと、上部の「銀河」を昆虫とみなすのはカルージュの独断であった。だが、彼は『リトレ辞典』で「花嫁」がnoctuelle(夜蛾)の俗称を持つこと、更にデュシャンが本作を準備している時にホテルで見た夢に、以下のような内容が見られたこと――この二つで自らの「直観」がやはり正しかったという点を補強する。

「デュシャンが言うには、その晩、レストランでビールをいやというほど飲み、ホテルに帰ってから寝ると、夢を見たそうだ。なんと、花嫁が黄金虫に似た巨大な昆虫になり、前肢で彼をひっかいていた、というのだ」――ロベール・ルベル『マルセル・デュシャン論』(*2)


(2)「カフカ――《Machine d'execution》(処刑機械)」(1914年)

Franz Kafka

 カフカの『流刑地にて』の処刑機械もまたデュシャンと同じく上下構造を持つ。上部には歯車の詰まった箱があり、これはdessinatrice(女製図屋)と呼称される。この箱から、馬鍬に針のついた拷問機械が無数に吊り下げられている。下部には囚人たちが存在する。彼らが命令に背くと、その命令となる言語表現が肉体に針で刻み込まれる仕掛けになっている。この機械の発明者は作中では「前任の司令官」であり、彼は往々にして旧約聖書的な神の象徴であると解釈されてきた。その場合、キリストの象徴的意味を帯びるのは、死刑囚を生贄にするのを止めて自ら機械にかかって死んだ「将校」であるとされる。自らを機械の犠牲にしたこの「将校」は、前任の司令官の忠実な部下であり、機械の熱烈な信者でもあった。彼は前司令官の「図案」を肌身離さず持っている。
 以上から見えてくるのは、カフカのイエス・キリスト観である。ユダヤ教にとって、ナザレのイエスは救いではなく、あくまでもイェルサレム神殿の崩壊を齎した存在に過ぎない。つまり、ユダヤ人たるカフカにとってはまだ「救い」は到来していないのであり、それが同時にキリスト教が近代資本主義社会の経済原理に適応できず、世俗化と脱中心化を深めた結果、教義を形骸化させてしまった今日の宗教状況と対応するものになっているというわけである。カフカは今日のキリスト教信仰の問題について、高度に「異化」して以下のように描写する。

「前司令官が生きておられたときは、流刑地は信者で溢れていました。前司令官の説得力のある雄弁術は私にもわずかですが、あります。でも、権威は私の方にはまったくありません。そのために信者たちは大義を見棄てたのです。無論今でも信者は沢山おります。でも、考えを公然と口にするものはおりません」(*3)


「共通点から導出される〈近代の心性〉」

 どちらの機械も上下構造を持ち、上部が命令を発する超越的な権力の原理を担っている。特にカフカの処刑機械は、人間がその命令に背くと罰せられるマリオネットとして表現されている。デュシャンの機械では、上部に「花嫁」と「銀河」が存在するが、彼女が死体として表現されていることにより、独身者たちにとってはエロティシズムと宗教の等根源性を感じさせる仕組みとなっている。
 また、どちらの機械でも命令を発する権力者の実態は隠されている。デュシャンの場合、花嫁は骸骨になっており、銀河も抜け殻である。カフカの場合、機械作成者である前司令官は死んでいる。
 以上から、我々は今後「近代」について、とりわけキリスト教的価値観が大文字から小文字に衰退したことを表す一つの構造的なツールとして、カルージュのカフカ=デュシャン論を慣用することができるだろう。それは信じる対象を喪失してしまいながら、社会規則に従って歯車の一部として生きていかざるをえない我々現代人の「囚人」としての姿をシンボリックに表現した装置なのである。
 デュシャンの機械を用いて同じ内容を繰り返しておこう。我々は皆、「花嫁」=一種の「アウラ」という信じるべき対象を喪失してしまった点で一様に「独身者」である。そして、我々が暮らすこの都市に乱立するビルの孤独な群れ、地下鉄の画一的な顔の交通などは、全て「独身者の機械」というシステムの一部である。ここは機械の全体における「下部」に過ぎない。では、上部はどうなっているのかというと、花嫁は骸骨化してしまっている。換言すれば、我々は信じるべきだとされていた対象そのものが既に崩壊したことを知っているのだ。これはまさに、ベンヤミンのいう「アウラの喪失」やニーチェの「神の死」などといった思想史的背景と相関する点である。問題なのは、カフカにせよ、彼らが描いたのが「近代的な機械」だったという点だ。それは従来の、非常に硬質で冷たい機械のイメージに基づいている点に注意しなければならない。現代のマシンはむしろ、柔らかく、小さく、人と人をポジティブに相互交通させる便利な「身体」として解釈する傾向が強い。「機械」の「イメージ」そのものも21世紀に入ると著しく変化してきたわけであり、カルージュ的な機械は最早過去のものであるといわねばならない。ただし、「近代」についてのコンテクストの中では、依然この概念は効果的であるとも考えている。
 いずれにしても、独身者の機械は「恋愛」の対極点であり、機械化されたエロティシズムへも派生していく操作子の一つなのだ。




「註」

*1)――ミッシェル・カルージュ『独身者の機械――未来のイヴ、さえも……』(ありな書房)高山宏、森永徹訳p84
*2)――p70
*3)――p56








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