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02/19のツイートまとめ

afterfinitude01

今まで誰にも話したことも書いたこともない記憶ですが、洗礼を受ける一年前くらいに、一度だけキリストの気配を本当に感じたことがありました。彼は厖大な数の人間を従えていた。身長ははるかに大きかった。今思えば絵画的なイメージですが、あの光景はあの頃の私を深淵から掬い上げていた。
02-19 20:46

信仰に関する個人的な体験ですが、私は成人して間もない頃、本当に飢え渇くというほどカトリックになりたかった。その証としての洗礼が欲しかった。なぜなら、他の多くの人が持っているものを私は何も持っていなかったから。それ以来、真に孤独であることはなくなった。孤独はキリスト者の美質だから。
02-19 20:27

RT @rinlaku: 周辺の事象を取り上げて宗教を矮小化することはいくらでもできるけれど、彼らの議論が到達できるのは真偽の次元までであり、信仰の価値そのものは決して揺らがない。魂の向上を目指す謙虚な心はそれ自体美しく、それがどんな内容であろうと時代的な無信仰より尊い。
02-19 20:22

RT @fujiwara_ed: アンナ・カヴァン『アサイラム・ピース』(国書刊行会)、版元でも「在庫僅少」になりましたhttps://t.co/LtCXgNgrJv。「終わりはもうそこに」 https://t.co/25tiUGvlDC
02-19 16:17

青土社様、『ユリイカ』で一度「特集アンナ・カヴァン」を組んでもらえないでしょうか。確実に買うし、その需要の気配も確実に感じる。
02-19 16:07

私の印象では、もしデリダが『有限性の後で』を読めばヘグルンドのような反応はまず示さないと思う(彼はどこかメイヤスーという「出来事」そのものに触発されている気もする)。むしろ、以下のようなさりげない表現を執拗に取り上げるのではないだろうか。だがなぜイメーヌは処女膜を意味するのか。
02-19 12:59

メイヤスーとデリダの関連で言えば、事実論性の原理を具体化する語句としての「〜かもしれないし、そうでないかもしれない」(別様である可能性)は、「Aであり/かつBであり、そのどちらでもない」というデリダの「イメーヌ」の概念に類似している気がどうしてもする。
02-19 12:53

最近私は、以前よりも「読む」行為に創発的なものを感じ始めるようになった。読むとは、実は書くよりも創造的な行為ではないか。もし人が既に読んだものを微分的に差異化させることでしか書けないのだとすれば、真に瑞々しく、また発見と危険に溢れている活動的な行為とは実はレクチュールではないか。
02-19 12:47

昨日からしばらく書棚にしまっていたガブリエルを読み進めていますが、一章のタイトルに「必然性の偶然性について」と入っているのが『有限性の後で』を想定していて良いですね。序盤で早くもメイヤスーの師匠が「叙述の絶対形式」を数学と同一視する点を名指しで批判しています。面白くなりそう。
02-19 12:42

あとヘグルンドがデリダの「痕跡」を発展させた「時間の原物質性」という概念でメイヤスーのいかなる概念を批判しているのかも、ここで抑えておきたい。彼の論稿を二本じっくり熟読してきたけれど、「時間」をキーワードにして事実論性の原理を批判するのが果たして正当なのか私にはかなり疑問。
02-19 12:34



メイヤスー評論はいつのまにか20枚になり、ハーマンとの関連で書いた2節を終えたので、3節以後はいよいよ「亡霊のジレンマ」について考えてみたい。ただし、大澤先生が『現代思想』「絶滅」特集で言及していたメイヤスーにおける「キリストの絶滅と復活」ではなく、「物の復活」という観点から。
02-19 12:27

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