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02/22のツイートまとめ

afterfinitude01

ボルヘスが20世紀に生きていた、それも今年でまだやっと「没後30年」だという近さに時々驚くことがあります。私の印象では彼は17世紀バロックの人。ただ、Googleの検索システムの原型としてのライムンドゥス・ルルスに注目するなど、来るべきWeb社会を予見してもいた。
02-22 23:59

RT @omnivalence: あと、イデアルなものとマテリアの「離接的総合」みたいなテーマ。。マルケスの『迷宮の将軍』とか、そんなものも楽しく読んだものの一つです。
02-22 23:49

RT @omnivalence: ボルヘスはこういう感覚にイスラムの神秘主義をまぜてみたり、南米の風土性が濃厚な奇譚にしてみたりしたんだけど、相関主義から非常に遠いところにいた。閉ざされた無限テーマというのもあったなぁ。。
02-22 23:49

RT @omnivalence: 今ヴィヴェイロスを読んで面白いと感じる理由の一つは、南米の文学に熱中していた時期があったからでもある。たしかにあれは南米の感覚なんだよ。「アルムターシムを求めて」とか、自分が追い求める理想像や仇敵が実は自分であったとか、そういう不思議な話のもた…
02-22 23:49

@lunar_shirayuki 読書には最適だと思ったよ。BGMはそのまま森に任せればいいしね。
02-22 23:42

そもそも、シュティフターに癒されるような人間が都会の雑踏に馴染めないのは至極当然だと思う。東京からもっと建物の数をどんどん減らして(今の1/3くらいでいい)、森に戻していってほしいよ。
02-22 22:55

そうでもない。京都もやはり物凄い人に溢れているし、ちょっと洒落た喫茶店になると凄い混んでいる。要するに「私はどの都市にも馴染めません」ということを外出する度に感じるので、いっそ精霊がまだ生きている原生林に磯崎新的なトリーハウス第2号を建てて、そこに引きこもった方が良いんだろうね。
02-22 22:49

六本木も洗練されてはいるしオシャレで森ビルの美術館も良いんだけれど、ただどこでも一つ言えるのは土の不在、歴史的な古い建物が醸し出す穏やかな街並みの不在。これはきっと私の街歩きが駅周りに限定されている点もあると思う。ただ、だからといって京都の街並みが好きなのかといえば、
02-22 22:44

東京で暮らし始めてから画廊巡りなどを兼ねてけっこう色んな街を歩いたけれど、やっぱり落ち着くのは「おじいちゃん好み」なセンス全開で言うと、上野です。上野には森があるし美術館も多い。でも上野も人が多いので、汐留くらいがちょうど良いかな。汐留はわりと洗練されたイメージがある。
02-22 22:39

渋谷駅周辺を歩いていて感じるのは、あえて言えば歴史の不在のような感覚。文化村は海外ブランドや丸善が入っていて整備されているけれど、そこに行くまでに雑居ビル群の横を通らねばならない。少し近道の裏通りに入ると、右も左もラブホテル、そしてライブハウス。ヨーロッパの古都が恋しくなる。
02-22 22:31



雨の日の渋谷を散歩して、書店で三冊本を買いました。清水先生が紹介して下さったコーン『森は考える』、メイヤスーとの関連が指摘される入不二先生の『あるようにあり、なるようになる』、美学ブックフェアでも話題だった『分析美学基本論文集』。 https://t.co/BX2UC9y58U
02-22 22:20

@junichi_abe お互い執筆や仕事などあるでしょうしレビューは都合良い時で大丈夫ですよ。のんびり気楽にいけたらいいなと。abeさんのような励みになる執筆仲間の存在をこれからも大切にしたいと思っています。
02-22 17:23

@junichi_abe ありがとうございます^ ^私は恋愛系も好きなので《Shymphonic Love》が読みたいです。代わりにこちらは《At The Grave Of Our Existence》をお贈りします。後ほどメールでデータを送信しますね。よろしくお願いします。
02-22 17:07

@junichi_abe abeさん、詩を読んで下さってどうもありがとうございます。私でよければ、貴方の作品にいつでもレビューや推薦文など寄稿いたします。私もレビューを書いて下さる方には作品を無料でお贈りしたいと思ったりしていました。お気に召しましたらいつでもどうぞ^ ^
02-22 02:21

現在書いているメイヤスーについてのテクストには清水先生のこの「幹–形而上学」を取り入れてみよう。私にとっては、執筆過程においてリアルタイムで著者本人から説明を受けて一つの謎が解けたこと自体が能動的生成であって、これはそんなドキュメントとしての意味も込めたい。
02-22 01:55

エージェントが競合的にふるまう状況」ないし「全体や対象が一であり同時に多でもある」(p251)というサッカーゲームを喩えにした生成の運動として捉えられている。相関主義の出口はサッカーだったんだね。しかもそれはプレイが永遠に間延びし勝敗のないゲームとして配分されている。
02-22 01:45

相関主義の出口を二項関係から生成する新しい差異としてではなく、そもそも「複数のオブジェクトの相互包摂」から生成するひとつの瞬間、煌めきとして捉えるべきかもしれない。前掲論文によれば、セールの準-客体論もまさに「モノを媒体に複数の https://t.co/pWjdkdWXxj
02-22 01:40

清水先生の解釈を受けて、ヴィヴェイロス的な主体とは複数のオブジェクトが離接的綜合を繰り返しつつサッカーのようにある瞬間の生成(過程としてのゴール)へ到達するものであり、これは今まさに読んでいる先生の「幹–形而上学としての人類学」の問題系だということが分かった。
02-22 01:30

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